(2)9月26日(木)18時30分
文字数 4,800文字
国立市にある母校の東都医科大学病院に研修医として勤務していたのは、もう10年ほど前のことだ。今年の4月に、東都総合メディカルセンターが八王子市郊外に開設されたのは聞いていたが、日々の勤務が忙しく来る暇などなかった。ヘリポートはもとより、最新の設備を備えていることを医療情報サイトで知ってはいたものの、実物を見ると施設の大きさに圧倒される。センターはA棟からE棟まであり、中央に位置するA棟が15階建てのメイン棟だ。センターが建設されると公表されたと同時に、近くにはショッピングモールや世帯向けマンションなど新たな開発が始まり、今では人口も増えているようだ。
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センターの正面玄関はすでに閉まっていた。
希空は職員通用口を探したが、敷地が広すぎて見つけるまで15分かかった。受付窓口で出向元の身分証明を出したが、警備員から怪訝な顔をされた。10月からここで働くことになっていると説明したが、長袖トレーナーとジャージにバックパックという身なりが災いしたか、職員IDがないとここからは入れないと撥ねつけられた。後ろから来たスーツの男性は外部の身分証を見せて入ったのに、身なりで差別するのかと舌打ちする。元の職場なら、この格好で顔パスなのに。
加藤に電話すると、ひどい受付だなと同情されたが、あと少しで到着するから、待合ホールで待っていろと言われた。ということは、夜間通用口から入るしかない。夜間通用口はE棟の1Fにあり、24時間救急センターにつながっていた。
夜間救急センターはホテルのロビーのようで、消毒剤の匂いもあまりしなかった。だが、待合ホールには、急に発熱した幼児、具合の悪くなった老人が診察を待っており、みな不安そうだ。
救急車が発する音は高く大きくなり、続いて聞こえたブレーキ音とともに、赤色点滅灯が救急車搬入口のガラスドアに反射した。希空がその反射光へと視線を動かすと、白衣の男性、ターコイズブルーのスクラブを着た男性と女性が救急車搬入口に立っているのが見えた。センターは搬入口と初療室が直結しているようだ。救急車はランプを点滅させながらサイレンを止めると、救急隊員がスライドドアからはじけるようにでてきた。
隊員がストレッチャーを運びだしながら医師たちに引継ぎしている。ぽっちゃりした方の男性医師は、隊員の話を頷きながら聞く傍ら小刻みに息を吐いている。そして、意を決したように患者を覗き込んだ瞬間、膝から崩れ落ちた。スクラブ姿の女性が、倒れた医師に声をかけると、彼は意識はあるもののすぐには動けないようだった。真新しいスクラブを着ている背の高い青年は研修医のようだが、状況が呑み込めず呆然としていた。希空は反射的に早歩きで近づいた。ラッキーだったのは、救急待合室にいる人達からは見えてないことだ。倒れた医師の姿を見せて不安にさせたくない。
「聖ガブリエル病院、医師の槇原です。お手伝いします」
希空はバックパックに入れてあった財布から、医師資格証カードを取り出して隊員とスクラブ姿の二人に見せると、倒れた医師をのぞき込んだ。ぽっちゃり医師は「血、ムリ・・・」と、ぶつぶつ言いながら青白い顔で目を閉じている。どうやら、内科医らしい彼が駆り出されたものの、血をみて貧血を起こしたらしい。患者の到着を待っていたということは、彼が救急隊とやりとりしていた医師だろう。
「先生、看護師の芳賀(はが)です。お願いします」と、医療用ユニフォームの女性が言った。
「ドクターは全員、患者さんを対応していて・・」芳賀看護師に促されて、ぽっちゃり医師を診ていた男性研修医が、希空を見上げて心細そうに続けた。ぽっちゃり医師の方は命に関わりそうなことではなさそうだ。この研修医がなんとかするだろう。
「横浜で大きな学会があって半分の外科ドクターが行ってらっしゃるのですが、今日は緊急の患者さんが多くて」と芳賀看護師も顔を曇らせた。「もうじき、みなさん帰って来られる時間なので、前川先生にお願いしたのですけど・・・」どうやら、頼んだ医者は外科処置には役に立たなかったようだ。
希空はバックボードに固定された患者に視線を移した。自動車事故による高エネルギー外傷、意識障害、動揺胸部ありと救急隊員から報告を受けながら、芳賀看護師の誘導でバックボードのまま移動させた。この患者が救命士から静脈ルートで輸液投与が受けていたのは、少なくともアドバンテージだ。もちろん、ぽっちゃり医師が指示を出したのだろうが、救急救命士の業務範囲が広がったことは救命率向上に大きく貢献している。
男性は創傷のため顔半分が滅菌ガーゼで覆われていた。右目がかろうじてガーゼからでているが、閉じられたままだ。救急隊員が「椎名准(じゅん)35歳」と患者の情報を伝える。所持品の免許証で確認したらしい。隊員が芳賀看護師に渡した透明な貴重品袋には、その免許証とスマホ、財布、スカイコックピットと呼ばれるGショックが入っていた。一瞬、希空の視線がそのパイロット仕様で人気のある時計に行ったが、すぐに対象を患者に戻した。自分が患者を救うために与えられた時間は短い。左腕は骨折しているようだが、優先順位は低かった。
希空が患者の名前を呼びかけると、男性は右目をわずかに開いて顔を動かそうとした。微かに呻き声が聞こえる。脈を測ろうとして右手首をとったが、その手は青白く冷たい汗で湿っていた。気道は開通しているようだが、ショック状態だ。呼吸音減弱、胸部は打診音が大きく、頸動脈も怒張していた。緊張性気胸だ。血胸も併発している可能性が高い。「胸腔穿刺、18ゲージ、ドレナージの準備お願いします。あと、Ir-RBC(赤血球製剤)緊急用8単位」と言うと、芳賀看護師は「前川先生の指示でO型、8単位用意しています。18ゲージと胸腔ドレナージ準備します。」と希空を見て大きく頷いた。きびきびした動きとキャリアを感じさせる眼差しが印象的だ。
「動かないで大丈夫ですよ。私達が一生懸命治療します」希空は芳賀看護師とストレッチャーを押しながら患者に声をかけた。
自動ドアが開くと希空の目の前に初期治療室が現れた。最新の自走式CTと血管造影装置があるハイブリッドERだ。入室するとすぐにPPE(個人防護具)ホルダーと手洗い場が目に入った。芳賀看護師の誘導で希空は手洗いと消毒をすませ、プラステッィクガウン、マスク、ゴーグルと医療用ニトリル手袋をつけた。スタンバイしていた若手男性看護師は、心電図、血圧、血中酸素飽和度、体温をチェックにかかっている。救急隊員は患者のシャツとズボンをはさみで切り裂いている。
「聖ガブリエルの槇原です。担当ドクターが体調不良で倒れられましたので、代わりに診させていただきます」希空はできるだけ大きな声で言ったが、他の医師達は自分の患者たちの治療で精いっぱいらしく、希空のことは気になってないようだった。処置ベッド15台うち13台はすでに埋まっていた。
芳賀看護師が救急カートを寄せてきた。男性患者はすでによびかけに応じなかった。酸素飽和度は救急隊員が酸素濃度最大で吸入させて運んできたものの、正常値より低い。肺に溜まった空気を早く出してやらないと、患者の心臓は圧迫されて止まってしまう。希空は患者の胸部から脇下にかけて急いでイソジン消毒した。現場からここまで20分は経過しているだろう。胸腔ドレーンまで間に合わない。この男性のBMIは20くらいか。芳賀看護師がカートから18ゲージ静脈留置針を差し出した。男性に局所麻酔をかけると、受け取った注射針を迷うことなく患者の第2肋間鎖骨中線に刺した。膨らんだ風船の空気が抜けるような音がする。第一関門、なんとか突破。続けて、左脇下からドレナージチューブを挿入する。鮮紅色の血液が1200ミリリットルが排出される。輸血を開始するが、最初の輸血パックにクロスマッチ試験する余裕はなかった。ここで、研修医が戻ってきたので頸椎固定を担当してもらいながら気管挿管を行うが、時間稼ぎしかない。CTで確認すると、左肋骨が二本折れている。出血は止まらず、もうすぐ1300ミリリットル。至急、出血を止める必要があった。
「緊急開胸の準備、お願いします」希空が芳賀看護師に伝えると、彼女はすぐに開胸カートを引き寄せた。麻酔医は来たが、学会に出席しているドクターを待っている時間がなく、助手は研修医にまかせるしかなかった。緊張の面持ちで青年研修医は希空の向いに立っている。希空はカートからディスポーザブルスカルペル(使い捨てメス)を取った。
その時、初療室の自動ドアがあいた。
「おっ、マキハラ、もう働いているのか」
スクラブに白衣を羽織った加藤が入ってきた。その後ろにいた数名のプラステッィクガウン姿の医師が続いてきて、希空が診ていた患者を取り囲んだ。その中にいた眼鏡の医師が、加藤に耳打ちをした。加藤は眉間に皺を寄せたが、希空に向き直った。
「マキハラ、手を止めて急いで引継ぎしろ。どうやらルールがあるらしい。オマエ、まだ天草のジジイのとこのドクターだから」
「スカルペル、下さい」落ち着いた声で、眼鏡の医師が希空に手を差し出した。名札には橘と書かれている。よそ者はオペするなということか、患者を救いたいだけなのに。だが、一刻を争うので急いで所見を橘に伝える。
橘は、希空の報告を聞きながら患者を観察し、そして大きく頷いた。
「わかりました。では、あとは我々が引継ぎますのでお引き取りください。ありがとうございました」
橘はそう言うと、スカルベルの包装を剥がした。橘の見下したような物言いに、希空は一瞬むっとしたが、加藤の手前、面倒を起こしたくなかった。芳賀看護師と青年研修医が気まずそうに希空に軽く会釈をした。3人の医師が橘のサポートにつきオペが始まった。
加藤が希空に目配せして、少し離れるように誘導した。初療室の入り口付近で小声で言った。
「せっかく来てもらったのに悪かった。あとはアイツらにまかせろ」
希空はあの患者が大丈夫とわかるまで手伝いたかったが、正式にはまだこのセンターの職員ではなかったので、従うしかない。希空は頷いた。
「ごくろうだった。じゃあ、1日から頼むぞ」加藤はマスク越しに笑った。10月1日が希空の着任日だ。それまでは、部外者ということか。
「はい、よろしくお願いします」
希空はプラステックガウンやマスクを着脱して収集ボックスに入れて初療室を後にした。なんとなく、気分は重かった。
搬送口に戻る途中、希空はキラリと光るものが床に落ちているのに気づいた。ネームタグだ。H・KIRYUと刻印されている。ナースセンターで預かってもらおうとしたが、今日は急患が多く、誰もが対応する余裕がないようだった。しかたがないので、ジャージの前ポケットにしまった。次に出勤したときに預ければいい。
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職員用駐車スペースは数台の高級車が止まっていた。その端っこに、オッチャンアコードが希空を待っていた。
「おつかれさん」希空は車に声をかけると、ドアを開け助手席にバックパックを置き、イグニッションキーを回した。
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