(1)10月20日(日)19時 千葉

文字数 2,441文字

 神崎恭輔が指定したのは千葉にある完全個室の老舗料亭だ。日本庭園に囲まれた設えは、前回会った場所に似ている。違うのは京都で体験した蒸し暑さから一転した冷涼な空気と、Fragrant Olive(キンモクセイ)の微かな匂いだ。この三週間のうちにシカゴは冬に近づき、今朝まで滞在していたオーストラリアは夏になろうとしている。いや、地球はそうやって季節を繰り返すから気温など気にする必要はないのかもしれない。そのサイクルを人間が破壊しなければの話だが。

  「作務衣」と呼ばれるユニフォーム姿の仲居が案内する廊下を歩きながら、インターフューチャー社のブレナンは神崎との展開想定に思考を切り替えた。
  一昨日に連絡をしてきた神崎の意図はわかっている。普通なら銀座か赤坂あたりを選ぶところなのに、都心から離れた場所を選んだのは、顔見知りと鉢合わせになるのを避けるためだ。こちらとしても危険は冒したくない。
 
 我が社の手術支援ロボット「パナケイア」の販売は好調だ。収益性を高めるためには卓越した技術力は必須であるが、マーケティングやプロモーションは欠かせない。しかし、この製品において最も重要なのは販売網構築であり、実現させるには「ある種の投資」が必要だった。「投資」によって、我々の「愛娘」はグローバル市場で販売数を圧倒的に伸ばし、後継機種の開発さえ力を抜かなければ継続的な収益が見込めるようになった。言い換えると、彼女(・・)は独り立ちしたので、次世代の収益源を育てる時期に来ている。それがNSD(New Nervous System Device)プロジェクトの一環として我が社が中心となって開発した神経再生補助デバイス、「ゼウス」だ。

 日本の厚生衛生省からは、すでに「ゼウス」の医療機器承認が降りている。痩せ男へ支払ってきた「投資」の成果だ。日本の産学官を巻き込んだプロジェクトは解決すべき困難もあるが、一つ山を越えたと言える。そして、次の段階に進むためには眼鏡男の省庁を攻略すべく新たな「投資」が必要だ。
 海外活動の「投資」にあたっては本国で秘密裡にタスクチームが組まれ、連邦海外贈賄行為防止法に抵触しない綿密な計画が立てられる。責任者は常務クラス以上の者となり、海外支社長でさえ情報は報告されない。前回は彼等の実体が伴わないワイフ達が描いた絵画を「アーティスト支援」という名目で購入する形を取ったが、今回は「手数料」という名の「投資」に変えて遂行することになっている。我々は彼等の「投資」の使い道は追及しない。それでも頭が切れる官僚達のことだから、法を搔い潜りながら半分程度を政治家に回しているはずだ。それは彼等達の保険でもあり、我々の保険でもあるのだ。
 
 案内された部屋に入ると、神崎は一枚板テーブルの上に丸眼鏡を置いてワインを飲んでいた。テーラードジャケットにチノパン姿はゴルフ帰りと見える。週末は民間企業からのコミュニケーションの誘いに応じているのだろう。ライバル企業だとすれば、我々は先手を打っておかねばならない。

「オーストラリアからでっか?忙しいこっちゃ」
 眼鏡を取り上げた神崎はブレナンに席を勧めた。相手に気を遣っていることをわからせる堀席は前回と同じだ。
「お元気でしたか?」
 ブレナンは3日前からメルボルンで開催された医療機器イベントを訪れていた。だから、このタイミングで最重要ターゲットの日本に立ち寄るのは都合がよかった。言うまでもなく、プライベートジェット費用も節約できる。

「まあ、一杯やんなはれ。オススメのワインや」
 関西弁の男はボトルを持ち上げて、ブレナンのワイングラスに注いだ。淡い緑黄色の液体から桃のような香りが広がる。辛口ワインのテイストは、用意されたフレンチ懐石にぴったりの相性だった。
「さすが、ワインにも素晴らしい知識をお持ちですね」
 ブレナンが賞賛すると相手はまんざらでもない表情を見せた。他愛ない話と食事が一段落し、デザートを給仕した仲居が出て行ったところで
「さて、」と神崎が残っていたワインを口にした。
「伺いましょう」ブレナンが表情を変えずに促した。
「要求書、大変でしたのは知ってはりますやろ?」

「要求書」とは来年度の概算予算のことだ。日本の政府会計年度は米国と6ケ月違い、8月までに各府省庁が次年度の予算原案を財務省に提出しなければならない。それまでに、大臣への説明と承認を得なければならない。政務側と事務側の意見に食い違いがあれば、それだけ調整は大変になる。

「我が社も協力したことはご存じのはずでは?」
 ブレナンはマイセンのティーカップに手を伸ばした。
「これからが正念場ですわ」
 眼鏡を外して手に取った男は首を横に振ると、ブレナンを見据えて言った。
「お宅ら、ケーエーさんと長いお付き合いしてはったでしょ。大事を成すのに焦ったらあきまへん」
 
 KA(ケーエー)とは厚生衛生省のことだ。省庁の略語として使われる厚衛(コウエイ)の発音から神崎が使っている呼び名だ。どこで誰に何を聞かれても分からぬよう、証拠に残らない言い回しをするのは双方の不文律だ。打ち合わせは防犯カメラの設置が無い場所が選定され、予約は第三者を通じて行われる。もちろん、不都合な事項に関わることは一切の記録を残さないことになっている。

「この時期、コバエも出てきてるしね」
「Fruits flies(ショウジョウバエ)の駆除はご心配なく」
 トラブルが発生しているという情報は、タスクチームからブレナンに報告が入っており、別チームが対応中だ。
「引き続き、頼みますわ」神崎は頷きながら眼鏡を掛けた。
「具体的に進めなあかん重要な時期やからこそ、根回しは必要なんですわ」
「では、進め方のアドバイスをお願いします。手数料は前回と同額でご用意します」 
 インターチューチャー社の副社長は頭を下げると微笑んだ。
「ほな、商談成立やね」
 防衛総省に籍を置く高級官僚が右手を差し出して笑みを浮かべた。
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登場人物紹介

槇原希空     聖ガブリエル病院から東都総合メディカルセンターへ出向を命じられた救急救命医。

         出向先が借り上げた一軒家に引っ越した日に自称天使が現れる。

  


山田クラノスケ  希空が引っ越してきた家に現れた(翼がないのに)自分は天使だと言い張る

         「自称天使」。限られた人間にしかその姿を見せない。


加藤誠                 東都総合メディカルセンター長 サージカルシステムロボットを使った

                         低侵襲心臓手術の第一人者。 希空の元指導医 東都医科大学 教授

椎名有紗                東都総合メディカルセンターに交換研究プログラムで派遣された臨床医。

          お団子ヘアと眼鏡がトレードマーク。

清水初音     全国展開の最大手スーパー、ピュアマーケット社の会長  

永瀬准      東都医科大卒の救急科専攻医 長身ですらっとしているので希空から「スラレジ」と

         呼ばれている

稲垣邦紘      東京地方検察庁特別捜査部の検察官   

前川悠人      東都総合メディカルセンター脳神経内科専門医

          最近結婚した薬剤師の奥さんとおいしいスイーツの店を訪ねるのが趣味。

James Brennan     インターフューチャー社 メディカルテクノロジー事業 副社長

ジェームス ブレナン

神崎 恭輔      防衛総省 高級官僚

岡田健斗     ジャパンサテライト放送(JSBC)の報道番組ディレクター 東都医科大出身 

         希空の先輩

藤沢徹      防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室長 

志賀直樹     経済省 産業技術開発局 国際標準課職員 

         防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室に出向中  

橘 涼祐      東都総合メディカルセンター 神経外科医

加藤紗英     加藤の妻。料理研究家・フードコーディネーター。希空の先輩

サクラ      希空が飼っているゴールデンレトリバーの女の子。賢くて面食いな犬。

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