(3)9月26日(木)20時00分
文字数 4,554文字
玄関ドアをあけると、サクラがしっぽを、ちぎれんばかりに振っていた。やっぱり、こうやって帰ってくると身内が迎えてくれるのは、なんだかほっとする。彼女は人間ではないけれど。
軽く息を吐いてから靴を脱いだ。裸足でホールにあがったとき、足の裏がザラザラするものを捉えた。イヤな予感がして下を見ると案の定、床は泥で汚れている。思い出したのは、家を出るときに、いかに早く着替えられるかに集中していたため、庭に面しているサッシを閉め忘れたことだった。リビングの網戸はしめていたはずだが、サクラはそれを前足であけて脱出したようだ。そこは、さすがウチの子、賢い。ちょっと親バカ気分になりそうな意識を引き戻して、泥で汚れた足あとがリビングの床についていることを叱るかどうか思案する。が、敵もさるもの、飼い主の気持ちを感じとって機嫌を取るように甘い声で鳴き、しっぽフリフリ攻撃を開始した。まったく、彼女は媚びるのが上手い。叱るタイミングを逸した希空は、サクラを撫でてやることになる。ほら、やっぱり、こうなるんだから。
希空の手が、パラコードで編んだサクラの首輪に伸びたとき、チャリンという音がした。よく見ると、首輪に見慣れないキーホルダーがついている。音の原因はそのホルダーについていた小さな鍵とオーナメント(飾り)だ。
「これどうしたの?」とサクラに聞いても尾を振るばかりだ。希空はそのキーホルダーを取ろうとしたが、パラコードにからまって取れない。チカラを入れた瞬間、キーホルダーは勢いよく希空の手から離れ、ホール向いの部屋のドア下にスルリと入っていった。覗き込むと、丁番がある側に1.5cmくらい隙間があいている。思わず立ち上がってドアノブに手をかけたが鍵がかかっていて開かない。この一階の部屋は、家主の荷物が入っているので使えないと予め聞いていた。仕方がない。希空は大きな溜息をつくと、25キロのサクラを抱えてバスルームに直行した。重いが、このまま歩かせると床が傷だらけになってしまう。
※
バスルームの排水溝に小さな砂が流れていった。
サクラの足を洗ってやりながら、いったい、どこに行っていたのだろう、と考えたがゴールデンレトリバーが教えてくれるはずもなかった。サクラは、お湯をかけられながらじっとしている。ずぶ濡れになっても優雅な姿は変わらない。ああ、また、こうなるんだから。その後、ゴールデンレトリバーの毛を乾かすまでゆうに1時間はかかった。
リビングにもどると、22時を回っていた。希空はキッチンの灯りをつけた。冷蔵庫や電子レンジが備え付けられており、すぐに生活できる空間になっていた。何気なく、キッチカウンターの壁を見ると、電話機があった。大家のだろうか、受話器を取るとトーンが流れた。どうやら、家主は電話を休止するのを忘れたらしい。希空は電話ジャックから通信線、アダプターから電気コードを引き抜くと、カウンター下にある棚にしまった。基本料金がかかるのではと心配になったが、それは自分ではなく家主がなんとかするだろう。自分はスマホがあれば十分だし、WifiルーターがあるからPCでネットも使える。
希空が持ってきた食器類は、ほとんどダンボールの中に入っていた。取り急ぎダンボールから出したのは、システムキッチンのワークトップにあるマグカップとウォーターグラスが1つずつだ。冷蔵庫のドアをあけると、冷凍室にはクーラーに入れて持ってきた冷凍食品が重ねられているが、冷蔵庫には数本のミネラルウォーター、紙パックの国産赤ワインが並んでいた。紙パックのワインは、無添加のうえに、安くてそこそこいける、というのが選択の理由だ。希空の顔に笑顔が浮かんだ。家を出る前に、この大型冷蔵庫にワインを入れておいて大正解だ。程よく冷えている。備え付け冷蔵庫に感謝だ。希空は、期待の息を吐いて冷えたパックを取り出した。サクラが尻尾を振ってついてくる。そのままリビングに進むとダンボール2箱の前にあるソファに座って、ワインのパックを開けると、ウォーターグラスに注いだ。おしゃれなワイングラスは持ってないが、この間、500円で買った透明なこのグラスが、液体の移動する音とともに深紅になるとワクワクした。目じりが下がった希空の手はワインパックを持ったままだったが、ふと、数時間前にセンターの救命救急室に運びこまれた患者を思い出した。
「助かりますように」
手を組んで思わず出た自分の声に驚いて苦笑いした。理由は二つあった。クリスチャンでもないのに祈ったこと。クリスチャン系の病院に勤めてはいたが、希空はこれと言った宗教は持っていなかった。もう一つは、大きな独り言を言ってしまったこと。確かに、ひとり暮らしが長いと、モノログってしまうことが多くなるものだ。が、それがなんだと、希空はグラスを口に運んで、ワインをごくりと飲んだ。
「何が悪い?何も悪くない!」
一人芝居のようなセリフを付け足して自分を納得させてから、グラスと紙パックワインを大きい方のダンボール箱の上におき、両手を上げて背中を伸ばす。いち、にぃ、さん、と息を止めたあとに思い切り吐いて脱力し、ソファに沈みこんだ。ああ、なんという幸せな瞬間。サクラが同意するようにしっぽを振って近づいてきた。
ワインを3分の1程度あけたところで、心地よい気分になった。姿見がすぐそこににあった。その鏡を覗き込み、自分の顔をチェックした。がむしゃらに働いて気付けば30代後半。美容院に行ったのは、いつだったか。肩にかかった髪はボサボサで化粧っけもないので、お世辞にもキレイとはいえない。眉を整えたのはいつだったかさえも思い出せない。加えて、人を寄せ付けない雰囲気もあった。だから、今まで仕事上の仲間とあまり深くつきあったことはなかった。ある意味、自分は孤独が好きだ。仕事仲間は陰で「とっつきにくい女だ」なんて言っているかもしれないが、他人に気を使いすぎて人と接すると疲れてしまうからちょうどいい。時折、淋しくなるときもあるが、両親を早く無くした自分には耐えられないものではなかった。今はサクラがいるおかげで、希空は寂しさを感じたことはなかった。
「まだ若いよね?」
同意を求めるようにサクラに言うと、彼女は尻尾を振って賛成した。
「やっぱり、そう思う?」と酔っ払いが勝手に解釈して、へらりと笑った時だった。
「いやいや、疲れが顔に出てるって」
男の声がした。
ぎょっとした希空はサクラを見つめた。彼女は、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。いや、ゴールデンレトリバーが喋るわけがない。おまけにサクラは女の子だ。ちょっと飲みすぎたか。
「年かな、酔うのが早くなってきた」
といいつつ、希空はワインをまた一口飲んだ。
「うん、無理はしないほうがいい。もう、若くないんだし」
ん?、何言ってるの?
「そんなこと言われる筋合いは・・・」と、むかついたうえに、ワインの酔が回っている希空は反射的につっかかった。
「失礼じゃない!どこの誰だか知らないけど!」
言ってから気づいた。この家にはアタシとサクラしかいないはず。希空は、サクラを見た。いや、さっきも思考はサクラが女の子だと定義した。だが、聞こえたのは男の声だ。人の気配を感じた希空は、ワインパックを床において、ゆっくりと顔をあげた。と、
白いシャツとスラックスの男が立っていた。
テラス戸をしめなかったのか?希空はすぐに目線をテラスに向けたが開いてないことは確認できた。では、この白づくめの男はどっから入ってきた?もしや、空いていたテラス戸から入ってきて、ご丁寧に鍵をかけたのか?それは、自分が逃げられないようにするためか?ということは、自分は殺されるのか?頭の中で情報が錯綜している。ただ、この男は裸足だ。では、靴はどこにおいてきた?待て、それよりも、誰だ?
「アンタ、誰?」
パニック状態の希空が発した言葉は、意外にも落ち着いたトーンだった。気持ちに余裕などないはずなのに酔っているせいなのか、自分が思ったほどは混乱していないようだ。その証拠にソファに座ったままだ。
次の瞬間、男の表情が変わった。
「もしかして、オレのこと見えてる?」
希空が冷静に見えるので不意をくらったのだろうか、相手は明らかに驚いている。
「悪かったわね、オバサンで!」
なぜか、希空はそう言った。そして、なんだか、腹が立ってきた。
「いや、そんなことは言っては・・・」男がもぐもぐ言った。
「何年もずーっと働いて、気づいたらこうなってたの!」
希空は、ワインをまた一口飲んだ。男の顔が嬉しそうな表情に変った。
「失礼しました。てか、言い過ぎました。他の人は、誰も自分のことわかってくれなかったから、ちょっとストレス感じてて。どうやら、ボクのこと、みんな見えてないみたいなんです」と、けろっと言った。
見えるってどういうイミだ?だが、この疑問を希空は無視することにした。
「わかったから、早く出てって。警察、呼ぶわよ!」
何で「わかったから」がでたのかは、希空にもわからなかったが、
「ちょっ、アンタ、番犬にもならない・・・」
二言めが不満を含んだ理由は、サクラがしっぽをふりながら男に近寄っていったからだ。
ところが次の瞬間、希空は息ができないほど衝撃を受けた。なぜなら、男は手でサクラの頭を撫でると、その手が映画の特殊効果のように通り抜けたからだ。
見間違いか?目をこすってもう一度、ゴールデンレトリバーと男を見る。
サクラは喜んで男にじゃれついている。だが、大型犬は男の体をすり抜けてジャンプしているだけだ。
仕事のしすぎかもしれない。もうちょっと長く休暇を取ればよかったのか。それともカウンセリングに行った方がいいのだろうか。希空は酔いが回った頭を一生懸命、回す努力をしていた。だが、答えは見つからない・・・
「アタシ、ヤバイかも・・・」 希空は自分の顔を両手で覆った。
「大丈夫、あなたは正常ですから」
男は「まあ、落ち着いて」と前に出した両手を上げ下げしながら、希空の隣に座った。希空は座ったまま後ずさったが、ソファの背もたれに密着しただけだった。
「ボク、何もしませんから。てっいうか、何もできませんから」
男が微笑んで、ねっ?っと、希空の肩に手を伸ばしたが、その手は空中に投影された映像のように、すうーっと希空をすりぬけた。
希空は、置いたワインパックを持ち上げてグラスに注ぐと一気に飲みほした。と、クリアな答えが浮かんで少しにっこりした。
「そうか、酔ってるんだった!」
そして気を失った。
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