(6)10月5日(土)午前10時
文字数 2,279文字
でも、さっきから聞こえているカシャカシャ、ぴちゃぴちゃという音はなんだろう。ああ、サクラが水を飲んでいるのか。
ん?、ワタシのベッドで?
希空は飛び起きた。枕元に破れたポリ袋と、そこから漏れた水がシーツに浸み込んでいる。サクラは尻尾をぶんぶん振っている。
「あー、やっちゃいましたね」
自称天使は水が浸み込んだシーツを見て心配そうに言った。
「え、アタシがやったの?」酔っ払ったあげく、ポリ袋に水を入れてベッドに持ってきたのだろうか。だが、昨日はワインを1杯飲んだだけだ。希空はシーツを眺めながら記憶をたどってみたが、何も思い出せない。と、
「希空さん、希空さん」クラノスケの声が聞こえた。顔をあげると、自称天使が人差し指を「オレ、オレ」と自分の顔に向けている。
何してくれたのよ!と希空が言おうとしたとき、クラノスケが彼女を覗きこんで笑った。
「おでこの腫れ、ひきましたね」
※
自分の部屋で希空が机に向かって水曜日に使う研修資料の準備をしていると、ドアが開く音がした。
「カフェオレ、淹れたから飲んで」
クラノスケの声がすると同時に、希空の目の前に湯気が立ったマグカップが、コーヒーの甘い香りとともにゆっくりと降りてきた。容器に入っているとはいえ、2階にあるこの部屋まで宙に浮かせて液体をこぼさずに持ってくるのは至難の技だ。希空が振り返ると、クラノスケがにっこりして親指を立てていた。
「疲れたときには、一息入れるのが一番です」
頼んでもないのに、と言いながらも、希空はマグカップを持ち上げて口に運んだ。やわらかい香りがして、あたたかくて、ほんのり甘い。
「悪くないでしょ?ハチミツを少し入れてみました」
ああ、だから先日買い物に行ったとき、ハチミツがいるといったのか。
「たまにはいいでしょ甘いのも?牛乳もハチミツも体にもよさそうだし」
確かに副交換神経がバランスをとろうとしている。希空は、ふっと軽い息を吐いた。
自称天使が食べ物のことを知っているのも、料理ができるのは、ここ数日のうちにわかったことだから、ハチミツのことも当然に知識があるのだろう。だからと言って、なぜ、知っているのかをクラノスケにきいても、明確な解答は得られないはずだ。だが、希空はその理由を知っているような気がして、話題を変えた。
「朝からむっちゃ、大変だったんですけど」
水は少しだがマットにまで浸透していたので、ドライヤーで乾かす必要があったし、シーツも枕カバーも洗濯しなければならず、午前中はそれにかかりきりで、やっと昼から仕事にとりかかったところだ。だが、資料は三分の一もできていない。
「ねえ、おなかすいてない?」
クラノスケは、両手を胸の前で組んでいた。ご機嫌を取るような感じだから、彼も一応は責任を感じているらしい。次の瞬間、ティン!というトースターの機械音がかすかに聞こえた。そういえば、朝食にトースト1枚食べただけだ。と、アルミホイルの小ぶりな塊と紙ナプキンが、物理の法則を無視して浮きながらドアから入ってきて、希空の目の前で止まった。慌てて、希空がマグカップを机に置くと、その塊は、すとんとカフェオレの横に降りてきた。
「ホットサンド、作ってみましたぁ!」
ジャジャーンとポーズをとったクラノスケは誇らしげだ。
わあ、すごいと、アルミホイルに触った希空だったが、次の瞬間、手に息を吹きかけた。
「熱いから気をつけて」クラノスケが慌てて言うと、誰の手も借りずにアルミホイルがゆっくりと開いた。
銀色のアルミ箔からアボカド、トマト、チーズの鮮やかな色彩のホットサンドが現れて、食欲をそそる香りが広がる。
「おいしそう!」と、希空が嬉しそうに紙ナプキンでホットサンドを掴んだ。
※
「それでですね・・・」
希空の空腹が満たされたところで、クラノスケが声をかけた。
「ちょっと時間もらっていいですか?」
希空が同意する間もなく、自称天使の主張表明が始まった。
まず、シーツを濡らしたのは、氷が水になったポリ袋をサクラが遊んで破ったからであり、そのポリ袋は、希空が額をぶつけてできたと思われる腫れを冷やそうと氷を入れたものであり、そもそも自分は慈悲の心で行ったことなので自分には非はない、という内容なのだが、まだまだ続きそうな勢いだ。
「山田さん、山田さん」
希空がたまらず話をさえぎった。
「え?、やまださん?」不意をついた呼びかけで、自称天使がきょとんとした。
「アンタの苗字じゃん! 」よし、流れは自分に戻ったと希空がたたみかける。
「お話、終わりましたでしょうか?」
「あ、そうでした!オレ、フルネームはヤマダ クラノスケだった」
話を途中で終わらせたにも関わらず、相手はなんだか嬉しそうである。が、最後にひとつだけ、と付け加えた。
「今日、たくさん働いたから1000円ください。昨日した借金から差し引いといて」
コイツのせいで仕事がちっとも進まない。希空は頭を抱えた。
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