(2)9月29日(日) 13時
文字数 3,225文字
クラノスケの声がした。
目を覚ました
「やっと起きましたか。顔を洗ってきたらどうです?髪の毛もボサボサですよ」
と、口をあんぐりさせてクラノスケが言った。
そうだった、顔も洗っていないし、シャワーもあびてない。けれど、それが何だ。居候の自称天使に言われる筋合いはない。だが、希空が反撃する前にクラノスケが言った。
「昨日も爆睡でしたよ。あ、実はここまで運んでくるの結構、大変なんですよ」
「誰も運べなんて言ってない」
「だって、ソファで寝られたらオレが寝るとこなくなるでしょ」
「ココ、アタシんち!なんでアンタの寝床まで気にしなきゃいけないのよ!」
「だって、一緒に寝たら怒るでしょ?」
「あたりまえじゃん!」相手は爆発寸前だ。それは困ると、クラノスケは話を逸らした。
「まあまあ、コーヒー準備しておきますから。ほら、シャワー行ってきて」
クラノスケがバスルームを右手で指し示した。
希空は不機嫌な顔をしてバスルームに向かった。
しばらくすると希空の「星に願いを」のハミングが聞こえてきた。
「飼い主さん、変わってるね」クラノスケが呆れ顔で言うと、サクラが同意するように小さく吠えた。
※
ダイニングテーブルに置かれたコーヒーメーカーが琥珀色の液体をドリップしていた。
タオルで髪の毛を乾かしながら希空がリビングに入ると、カカオにも似たコーヒーの香りが漂って来た。希空の表情が緩んだ。
クラノスケはソファに座ってテレビを見ていた。サクラはソファの下でクラノスケに寄り添うように座っている。彼女も自称天使が見えているようだ。その証拠にサクラは希空を見て尻尾を軽く振るものの、座っている場所から動こうとしない。だが、飼い主よりもこの得体の知れないヤツが気に入るとはいかがなものか。
テレビはJSBC(日本サテライト)局の「サンデーニュースレポートニッポン」を放送している。いつも平日朝7時から始まる「ニュースレポートニッポン」という報道番組の一週間の集約版だ。JSBCは5大ネットワークのテレビ局の中で知名度は最下位だが、丁寧な番組作りに好感が持てるので、希空は時間のあるときは、この番組をよく見ている。テレビの電源はクラノスケが入れたようだ。自称天使はニュースを見るらしい。
「あ、さっぱりしたようですね」
希空に気づいたクラノスケは立ち上がると、右の手のひらを少し上げた。すると、コーヒーメーカーからカラフェが空中に浮かび、その隣に置かれていたマグにコーヒーが注がれた。と、モカ・マタリの香りがするカップがゆっくりと浮かんで希空の前で止まった。
「さあ、どうぞ」
希空は戸惑った。やはり、通常は考えられない現象を見るのはまだ慣れない。
「手を出してカップ持って」とクラノスケが促した。
「あ、すみません」と、希空がコーヒーの入ったカップを取る。
「ブラックでしたよね?でも、お砂糖が必要なら・・・」
クラノスケは右手を少し上げた。キッチンに置いてあった調味料入れがコトリと動く。どうやら、グラニュー糖はないらしい。勝手に進み出た調味料入れには、ガチガチになった砂糖が入っている。もはや、何かで削らないと砂糖として使えない状態だ。クラノスケは呆れた表情を希空に向けた。
「あ、砂糖いらないです。このままでいいです」
希空は慌てて片手で制止したが、次になんで敬語で返事をしたんろう、と自問した。朝、コーヒーを誰かに入れてもらうなんて久しぶりだったからなのか。いやいや、と思考を無理やり消して目の前のコーヒーに集中することにした。うん、やはり、モカ・マタリは香りが違う。お中元のお下がりをくれた天草院長に感謝だ。
「あ、ノアさんの同業者のことやってますよ」
ソファに戻ってテレビを見ていたクラノスケが振り返って言った。
今週の「サンデーニュースレポートニッポン」はサージカルロボットの特集らしい。サージカルロボットは、低侵襲な手術を可能にした内視鏡下手術支援ツールだ。医師は遠隔操作で、ロボットアームに取り付けられた手術器具や3D内視鏡などを患者の体内に入れて手術を行う。切開は小さいので出血が少なくてすみ、かつ、アームが緻密な動きで病巣を治療するので、術後の回復が早いと言われている。このため近年、サージカルロボットを導入する病院は増えていた。希空が勤めている聖ガブリエル病院も5年ほど前にトップシェア社のサージカルロボットを導入した。手術ロボット市場はトップシェア社が長年独占状態だったが、数年前に当該企業が持っていた技術特許が切れたあと、世界各国の企業が争って進出を始めた。最近は2番手にいる企業がトップシェア社に追いつこうとしている。番組は、その2番手に位置するインターフューチャー社をフォーカスしていた。インターフューチャー社は、米国イリノイ州シカゴに本社を置くコングロマリット企業だ。社名であるInterとFutureの頭文字をとってデザインされた「IF」のロゴマークが入った製品は、世界中で見ることができる。希空の母校である東都医科大学は、インターフューチャー社が開発したサージカルロボット「パナケイア」を2年前に採用した。3週間ほど前に急性心筋梗塞を起こした村山防衛総省大臣は、東都医科大が開業した東都総合メディカルセンターで「パナケイア」を使った緊急手術が受けたのち、3日後には特別室で公務を再開した。番組解説者は、大臣が1週間後には退院したという事実を取り上げ、一時は重症といわれた村山大臣が短期間で回復したことに驚いているとコメントした。
次の瞬間、希空は思わず身を乗り出した。村山大臣を「パナケイア」で手術した執刀した加藤を映していたからだ。希空の指導医だった「カトダロ」だ。寒いダジャレを言う彼だが、今や日本の心臓血管外科、いや、外科全般においてトップクラスの医師だ。恐らく村山大臣の驚異的な回復は、加藤の働きが大きかったのだろう。加藤の両親は医師ではなく、いわゆる中流家庭の出身で、希空は自分の境遇と似ていると思ったことがある。が、それは大違いだった。加藤は将来が約束されているエリート中のエリートなのだから。
「それがそうと、ちょっと聞いていいですか?」自称天使がテレビを見ながら言った。
何?と、ダイニングでコーヒーを飲んでいた希空が顔を上げた。
「いつ働いてるの?」
「アタシ?」
「他に誰がいるんですか?ノアさんのことですよ」クラノスケは、「まったく」とでも言いたい様子で、希空の方を向いた。そして、
「だって、いつもお酒飲んでるから」と言ったあとに声を落とした。「もしかして、医者、クビになったとか・・・」
相手が瞬間沸騰した。
「急に出向になったの!明日まで引っ越し休暇なの!クビになんか、なってないの!」
その迫力に圧倒されたクラノスケは「はいっ、申し訳ありませんっ」と、慌てて謝ったが、
「そうじゃなきゃ、誰もこんな山の中に引っ越さない!」希空の怒りは続く。
「はいはい、わかりましたって。機嫌、直して下さいよ。悪気はないんですから。で、出向ってどの病院?」自称天使は話題を変えることに集中した。
「そこよ!」希空がキレ気味にテレビを指さした。
クラノスケがテレビに目を戻すと、山々に囲まれた自然豊かな環境の中で異様に聳え立つビルが何棟かあった。そのビルには「東都総合メディカルセンター」の名称サインがあった。
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