(4)10月25日(金)午前0時 埼玉

文字数 5,008文字

  壁のLEDデジタル時計が日付を変えた。

「なんで送ってこないんだあ?」
  背を向けてメッセンジャーアプリ画面を確認していた藤沢徹は、同意を求めるように振り向いた。
「ふぁあ、忙しいんだと思いますよぅ」
  デスクで海外レポートの和訳を仕上げていた志賀直樹が、眼鏡を外して欠伸しながら答えた。

  防衛研究庁 デユアルユース(官民両用)技術開発室、別名 DTDA (Dual-use Technology & Development Agency)のオフィスは、室長の藤沢と経済省 産業技術開発局からの若手出向職員である志賀の二人だけになっていた。

「そろそろ1ケ月経つんだからさあ、1回くらいは行ってるよなあ?」
  藤沢が言っているのは「Seagulls」のことだ。「シーガルズ」は、モデル並みの容姿を兼ね備えた女性スタッフ達がジーンズとTシャツでサーブしてくれるサンフランシスコ発祥のスポーツバーだ。カモメがトレードマークの店舗は全米に展開されており、女性スタッフは「Sea girls」と呼ばれファンクラブまである。米国へ藤沢が出張した際、同僚にシカゴ店に連れて行ってもらって以来、「シーガルズ」、いや、「シーガールズ」のトリコとなり、今や熱烈なファンクラブ会員だ。そんな彼の朝は、彼女達のインスタ投稿をチェックすることから始まる。なかでも、サンフランシスコ本店のスタッフ「キャシー」の投稿がお気に入りで、サンノゼに先月派遣された職員に彼女の写真を撮って送ってくれと頼んでいた。しかし、その目的をまだ達成していないようだ。

「女性職員がいたら、セクハラって言われますよぅ」
 防衛総省外局の防衛研究庁技術開発室長ポストにありながら、こんな話をするなんて。いつかハニートラップにひっかかるぞ、と志賀が思っていると、
「今、いないから言ってんじゃねえかよ。で、シガちゃんのところには、メールとか来てないの?」平然と言ってのけるのが藤沢らしい。
「来るのは研究レポートばっかですよぅ」
「それじゃ、オレんとことにくるのと一緒じゃん」
「それが、当たり前ですぅ」
 技術開発室のメンバーから「シガちゃん」と呼ばれている経済省からの出向職員は、職務で使うメールにお姉さん達の写真など送ってくるワケがないと否定した。
「オマエ、電話とかしないの?あいつら、もう来てるだろ?」
 現地は午前8時をすぎたところだ。アメリカ本土は四つのタイムゾーンがあるため、彼等達は東部時間のスタッフと連絡が取りやすいよう、朝は早く出勤している。
「い、今ですかぁ?」
 期待に満ちた眼差しを向けた藤沢は英語があまり得意ではない。海外とのビデオ会議は自動翻訳に頼っているが、電話やレポート翻訳は専ら志賀に回している。
「どうしてこの前の打ち合わせのときに頼まなかったんですかぁ?」
「ほかのヤツがいるのに、そんなこと頼めるかよ!そうだろ!」
 室長は逆ギレで正当化する。
「い、いやですよぅ。仕事に関係ないことに僕を使うのヤメ・・・」
 タブレットにメール通知が入った志賀は途中で話を止めた。
「あのさあ、仕事ばっかりしてちゃあ、いい仕事はできんぞう」
 たまには息抜きしてストレス発散すべき、というのが藤沢の持論だが、この時間まで残っている自分達はどうなのか、志賀は心の中で呟きながらメールをチェックした。

「で、どうした?」
 スマホから志賀に視線を移した室長は仕事モードに戻っていた。

 眼鏡を掛け直して立ち上がった志賀は、官公庁専用ネットワークJ-CAN(Japan Central Archive Net)に接続していないタブレットを藤沢の席に持ってきた。J-CANはセキュリティの高いネットワークシステムを構築しているのだが、超機密文書はスクランブル暗号で送受信できる特別なタブレットを使っている。

「『ゼウス』が、臨床が始まった可能性がありますぅ」
「アメリカで?」
「いえ、日本ですぅ」

 神経再生補助デバイス「ゼウス」は、日本・米国を含む関係諸国が共同で進めているNSD(エヌズディNew Nervous System Device)プロジェクトの一環でインターフューチャー社が開発したものだ。将来的にiPS細胞作製技術と併用することにより、脳や脊髄損傷の治療への足掛かりになると期待されている。「ゼウス」は、損傷を受けた中枢神経の再生を阻害する「グリア瘢痕」と呼ばれるタンパク質を除去すると同時に、組み込まれた電子デバイスで神経伝達の役割をするために開発されたものだ。電子デバイスは神経細胞と半導体とをつなぐインターフェースの役割をするナノコンピュータになっており、膨大なデータを蓄積することができるが、人体内で動かすため体温や筋肉の収縮によって電力を確保する技術を必要とする。それを可能にするのが日本企業であるガイア社のエネルギーハーベスティング技術だ。ガイア社が開発した体温から熱電素子を取り出して電力変換するナノモジュールを使えば半永久的なナノコンピュータへの給電が可能だとしていたが、報告では試作中だったはずだ。

「え、ジャムダ(JMDA)が承認したの?公表、あったっけ?」
 藤沢がきょとんとした顔で尋ねた。

 JMDA(ジャムダ)とは厚生衛生省所管の独立行政法人である医療機器機構(Japan Medical Devices Agency)のことで、医療機器の品質や安全性と有効性を審査する機関だ。
「公表されてないけど、すでにされているとのことですぅ」
「誰の情報?」
「『タイガー』ですぅ」
 超機密文書は実名を使うと危険が及ぶ可能性があるため、コードネームでやりとりされる。文書は電子署名で送られ、秘密鍵暗号を使わないと確認することができない。情報源の人物はなりすましでないことを証明することができるが、ごく一部のメンバーしかコードネームを使う人物を知らされていない。敵対する組織から情報源の人物を守るためである。

「治験、まだなんじゃないの?クラスVだろ?」
 ジャムダの承認基準は、人体に及ぼす危険度によって分類され一番危険度が高いゼウスは超高度管理医療機器分類5となり、厚生衛生大臣の承認が必要だ。情報によると、ジャムダがゼウスの承認をしたのは2週間ほど前だということだが、既に治験が終わっていて実際の治療に使われるということになる。
「治験はアメリカのデータが使われたそうですぅ」
「オマエ、知ってたか?」
 志賀は初耳だと頭を横に振った。先週のインターフューチャー社との情報連絡会では報告はなかった。
 ジャムダが承認したのなら、「ゼウス」はガイア社のモジュール「アマテラス」でデバイスが稼働できるようになっているということだ。「アマテラス」は、防衛研究庁が官民で開発中のスマートグラス型通信機器「インビジブル」の給電機器に採用すべく準備を進めているものだ。通信基地局や送電システムが破壊された紛争地帯や災害地帯へ職員や隊員を派遣する際、連絡がとれなければ迅速な指揮がとれない。この眼鏡型「インビジブル」はナノコンピュータを搭載し、衛星通信ネットワークを使えるデバイスだ。「アマテラス」は、「インビジブル」の装着部分に接触する皮膚の体温と外気の温度差で発電させることを可能にする。電力供給施設がない場所で通信が可能なら、いち早く状況を伝えられるため派遣された人々の安全も確保できる。ネーミングどおり「目に見えない」力を手に入れることができるのだ。

「だからさあ、桐生に電話しろよ」
 桐生は「ゼウス」に半導体低消費電力技術を提供しているガイア社の研究員だが、現在は防衛総省の特別出向技官として、先月からサンノゼのインターフューチャー社の半導体ラボ部門に派されている。結局、情報確認を口実に「キャシー」の写真を送れと言わせたい室長だ。
「はぁい」志賀が乗り気のない返事をした。
「オマエさあ、もちっとキビキビした返事できないのかよ」藤沢が溜息をつく。
「わかりましたよぅ。かければいいんでしょ?」
 デスクに戻った志賀は受話器を持ち上げた。AT&Tの呼び出しトーンが2回鳴ると無機質な女性の声が応答した。
「Hi, this is Shiga with DTDA. I’d like to speak to Mr.Hayami. (シガです。ハヤミさんはいますか?)」
「Mr. Hayami is on a business trip.(ハヤミさんは出張中です)」
「Where‘s he?(どこに行きましたか?)」
「I don’t know, he didn’t tell me.(わかりません)」
「My boss wants to talk to him.(上司が話をしたいのですが・・・)」
「Sorry, we don’t have any idea to do that. (申し訳ないですが、我々にはわかりません)」
「Well, it’s kind of an emergency.(緊急案件なのですが)」
「Ok then, you can call his phone. I’m not sure you can reach him, but you might leave a message. I’ll tell you his number. (では、ミスターハヤミの携帯へお願いします。つながらなければ、メッセージが残せるかもしれません)」

「出張らしいですぅ。携帯電話の番号を教えてもらいましたぁ」
 志賀は受話器をおくと、書き写したメモを見せた。彼は現地で携帯電話を調達したらしい。番号は801から始まる米国のものだ。

「そうか、残念だなあ」
「『シーガールズ』の写真がですかぁ?」
「なんでわかった?」
 それは藤沢の顔を見ればわかることだ。
「てか、オマエの日本語ヘンだし、ずーっと英語でしゃべっとけよ。そのほうが、カッコよく聞こえる」
 志賀の英語はネイティブ並みだが、日本育ちのくせに風変りなアクセントの日本語を話す。おまけにファッションセンスもないようで、三十代前半にしては野暮ったく見える風貌が惜しいところだ。
「大きなお世話ですぅ!」
 志賀は小鼻を膨らませながらメモに目を戻して受話器を上げ、電話番号を押し始めた。
「やめとけ。アイツも忙しいんだろう。メールでいいよ。シーガールズの写真、忘れてないかってオレが言ってるって」
「キャシー」だぞ、と念を押した藤沢に、志賀は「じゃあ、最初から自分で送ってくださいよ」と言う代わりに「了解ですぅ」と頷いた。
「さあ、今日はこれにて終了!」
 藤沢がパソコンをシャットダウンした。
「おい、シガちゃん、カラオケつきあえ」
「ええーっ、これからですかぁ?もう、帰りましょうよぅ」残業続きの志賀は仏頂面だ。
「明日、在宅していいからさあ。つきあえ」
「明日って、もう今日のことじゃないですかぁ!それに僕、車なんですよぅ」
 勤務が深夜までになることも多く、志賀達はマイカー通勤が許可されている
「オマエは飲むな。オレは飲む」飲むために電車通勤する藤沢は、あくまでも自分の意志を貫くタイプだ。
「えー、不公平じゃないですかぁ」
「それがどーした?あ、帰りはオレを送れよ」
「もおぅ、パワハラで訴えますからね!」横を向いた志賀の肩を藤沢が軽く叩いた。
「明日、休んでいいからさあ」
 ぱっと明るい表情に変わった志賀が、瞬時にパソコンの電源を切った。

        ※
 平日深夜の石神井公園駅付近にある24時間営業のカラオケボックスは、当然ながら待たずに入室できた。彼等がいつも此処を利用しているのは、藤沢の家が近くて送りやすいという理由にほかならない。
 藤沢は早速オハコの「世界に一つだけの花」を入れた。歌っている最中に、店員が頼んでいたウーロン茶とビール、カラアゲのセットを運んできた。ウーロン茶はもちろん志賀のためだ。そのあと藤沢はビールを数杯飲んで上機嫌になった。

 志賀は千鳥足の室長を玄関先まで支え、怒り心頭の奥方に託したあと、停めておいた車に戻ってシートベルトを締めた。これでやっと家に帰れると安堵したが、すでに午前3時を回っていた。でも、明日は休みだ。志賀はにっこりすると、カローラフィールダーのイグニッションスイッチを押した。


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登場人物紹介

槇原希空     聖ガブリエル病院から東都総合メディカルセンターへ出向を命じられた救急救命医。

         出向先が借り上げた一軒家に引っ越した日に自称天使が現れる。

  


山田クラノスケ  希空が引っ越してきた家に現れた(翼がないのに)自分は天使だと言い張る

         「自称天使」。限られた人間にしかその姿を見せない。


加藤誠                 東都総合メディカルセンター長 サージカルシステムロボットを使った

                         低侵襲心臓手術の第一人者。 希空の元指導医 東都医科大学 教授

椎名有紗                東都総合メディカルセンターに交換研究プログラムで派遣された臨床医。

          お団子ヘアと眼鏡がトレードマーク。

清水初音     全国展開の最大手スーパー、ピュアマーケット社の会長  

永瀬准      東都医科大卒の救急科専攻医 長身ですらっとしているので希空から「スラレジ」と

         呼ばれている

稲垣邦紘      東京地方検察庁特別捜査部の検察官   

前川悠人      東都総合メディカルセンター脳神経内科専門医

          最近結婚した薬剤師の奥さんとおいしいスイーツの店を訪ねるのが趣味。

James Brennan     インターフューチャー社 メディカルテクノロジー事業 副社長

ジェームス ブレナン

神崎 恭輔      防衛総省 高級官僚

岡田健斗     ジャパンサテライト放送(JSBC)の報道番組ディレクター 東都医科大出身 

         希空の先輩

藤沢徹      防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室長 

志賀直樹     経済省 産業技術開発局 国際標準課職員 

         防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室に出向中  

橘 涼祐      東都総合メディカルセンター 神経外科医

加藤紗英     加藤の妻。料理研究家・フードコーディネーター。希空の先輩

サクラ      希空が飼っているゴールデンレトリバーの女の子。賢くて面食いな犬。

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