(6)10月4日(金)16時30分
文字数 2,412文字
オフィスを出てすぐ職員専用休憩スペースがあるのは便利だ。この時間帯だからなのか、誰もいなかった。日暮れに近づく西日を受けながら、希空はホットコーヒーの入った紙コップを手にして深い息を吐いた。
昼食もとれて、この時間にコーヒーを飲める時間なんて前の職場ではなかった。朝7時から深夜までまともに食事がとれないときもあった。とにかく、「食べれる時に食べておく」が鉄則だった。こんなにゆったりできる休憩なんて1年に何回あっただろう。現場では休憩のことを考える暇もなかったし、それが普通だと思っていた。
だが、前の職場から持ち込んだ荷物や書類の整理でこんなに疲れるとは思わなかった。これは休憩が必要だ。と、希空が2口目のコーヒーを飲もうとしたとき、
「槇原センセ!」
背後ではじけた女性の声がした。顔をあげるとお団子ヘアが立っていた。当たり障りなく希空は会釈した。
「この休憩スペース、超いいですよね!」
彼女はニコニコしながらベンディングマシーンにコインを入れた。ミル挽きの音とともに新鮮なコーヒーの香りが漂ってくる。
「このベンディングマシーン、マジすごいですよね!豆から挽いてくれるなんて。アメージング!」
有紗は機関銃のように喋っている。他のテーブルに座ってほしいという希空の期待はあっけなく外れ、有紗は紙コップを持って向いに座った。
「今日はありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ。このまえは、カレー染みをキレイにしてもらって」
「お役にたてて何よりです。白衣に黄色の染みはカッコ悪いですもんね」
相手はガハハと笑った。希空は無難に頷いた。確かにカレー染みを落としてもらって感謝はしているのだが、彼女のように一方的に喋られるのは苦手だ。だが、有紗は希空の気持ちなどおかまいなく続ける。
「先生、すごいですね!あの清水のバアさんを感心させたのは、先生が初めてです」
最近の若手医師は患者をバアさん呼ばわりするらしい。特別室に入院するとなると、かなりの上得意のはずだ。
「今までの採血は誰が?」ふと、気になって希空が尋ねた。確か清水さんは3日前の入院だった。それなら、採血は初めてではない。
「熟練看護師さんが担当してたんですよ。あいにく、今日はその看護師さんはお休みで。あ、でも、その看護師さんにも文句言ってましたけどね」
希空は納得した。それなら、あの若い看護師が撃沈したのも当然か。
「でも、あのバアサン、金持ちだからってあんな言い方しなくても」
お団子ヘアが憎めないふくれっ面で言い放つと、「でも、」と、話題を希空に戻した。
「どうやったんですか?あの採血捌き。あれはもうスーパー!ワンダホー!です」お団子ヘアはスーパーにアクセントを置いて親指を立てた。いつもなら「別に」か「数をこなせばうまくなる」しか答えないのに、希空の口からでたのは別の言葉だった。どうやら、誰かに似た感情豊かなこの相手にのせられたようだ。実は、自分なりのちょっとしたコツがある。
「どんな?」相手が身を乗り出して聞いた。
希空は真顔で言った。
「狙いをつけたら迷わない」
アクション映画の主人公が呟く台詞のような言葉に、お団子ヘアは目を丸くした。
※
やはり、今日中に片付けを終えるのは無理だ。入職オリエンテーションはきっちりスケジュールが組まれており、合間に片づけるのは時間が足りなかった。あと1箱のダンボール箱を残して今日は帰るとしようと、机に置いていたバックパックに手を伸ばしたときだった。
ドアをノックする音が聞こえた。入ってきたのは、40代前半くらいのポロシャツにチノパンのぽっちゃりした男性だ。
「槇原先生、私、脳内の前川です。先日はどうもありがとうございました」
前川は、親しみやすい笑顔でぺこりと頭を下げた。私服なのですぐにわからなかったが、初めてセンターに来た日、患者の血を見て貧血を起こして倒れたぽっちゃり医師だった。
「いえいえ、その後大丈夫でしたか?」希空は無難な質問を返した。
「ええ、おかげさまで。いやあ、ご迷惑をおかけしました」
そう言って、ぽっちゃり医師は頭を掻くと脳神経内科専門医で日本神経学会会員だと自己紹介した。日本神経学会会員の資格取得は合格率が低い。失礼だが見かけによらず、その会員だという彼は絶対数が少ない脳神経内科の分野で貴重な存在だ。休みの日には、最近結婚した薬剤師の奥方につきあって、おいしいスイーツの店を探して食べに行くことから、ドクタースイーツとスタッフから呼ばれていると得意げに教えてくれた。だが、彼のぽっちゃり体型は今後のことを考えれば少し運動が必要だ。もっとも、最近は妻が心配してくれて、スイーツは控えてジムに一緒に行こうと誘われててね、とノロケられた。
血が苦手なのを克服すると申し分ないのだが、前川医師に似た先輩を希空は知っていた。人それぞれ得手不得手ががある。コミュニケーションが苦手だったり、手が不器用だったり、努力だけでは無理なこともある。医師だって少なからず同じだが、医療業界は許される範囲が狭いような気がする。その先輩は医師免許を取得しながら、自分が希望する別の道に進んでしまったが。
「片づけ、お手伝いしましょうか?」人のよさそうな前川医師がロッカー前に置かれたダンボールを指して言った。
「いえ、もう今日は帰ります」
希空がバックパックを持ち上げた。そろそろ、一人になりたい。
「自分の部屋、斜め前なんでなんかあったらお声かけください」
前川医師がまたぺこりと頭を下げて出て行った。
希空はバックパックを背負った。その後、思わず笑みが浮かんだ。さっき、いつ一人になれるんだろう?となぜ思ったのだろう。家に帰ったら帰ったで、一人になれないことはわかっているのに。
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