(6)9月30日(月) 22時
文字数 1,852文字
リビングのソファに座ってニュースを見ていたクラノスケが大きな声を出した。クラノスケが明日は何を着て出勤するのかとなにげなく聞いたら、希空がジャージで行くと答えたからだ。
「別にいいじゃん。どうせ、スクラブに着替えるんだし」
ダイニングでミネラルウォーターを飲んでいた希空がめんどくさそうに言い返す。
「初日くらいはちゃんとしていかないと、社会人としてどうなんですか?」
クラノスケの説教じみた物言いに希空はカチンと来た。
「社会人、社会人ってうるさいなあ!アタシは日本人!日本国憲法第12条で自由権が定められるでしょ?何着たってアタシの自由!なによ、居候のくせにえらっそーに」
「ちょっと待った!」
すかさずクラノスケが反撃に出た。
「居候っていうのは、寝泊まりさせてもらって、ごはん食べさせてもらうことです」
クラノスケのそばに座っていたサクラが心配そうに顔をあげた。
「ホラ、あってるじゃん!あんた、ここで寝泊まりしてるじゃん」
「ごはんは食べてません!」
「寝泊まりしてるじゃん!」
サクラが立ち上がって、二人の間を行き来した。どうやら、不穏な空気を察知したらしい。
「居候というのは、寝泊まりして寄食することです。ボクは寝泊まりはしていますが、ごはんは食べません。だから・・・」
自称天使が得意そうに続けるのを遮って、希空がぶすっとして立ち上がった。
「もう寝る!」
※
ああ言えば、こう言う!そして堂々巡りになる!希空は言い負かされた感いっぱいでベッドに座っていた。やっぱり、アイツとは一緒に住めない。どうやったら、ヤツを消せるんだろう。と、そのとき、ある考えが浮かんだ。希空はベッド横にあるラックから白い装丁本を取り出すと、医者らしからぬ不敵な笑みを浮かべた。
「ノアさん、もう寝ました?」
ドアの外からクラノスケの声がした。
希空がドアを開けると、
「あの、気を悪くしたなら謝ります・・・」
クラノスケが立っていた。ちょうどよかった、と、希空はさっきの表情から打って変わったニコニコ顔で、クラノスケを招き入れて白い本を見せた。本にはNew Testament(新約聖書)と書かれている。
首を傾げたクラノスケの後ろで、サクラが尻尾を振っている。ホント、薄情な相棒だ。希空は新約聖書をクラノスケの前に突き出して言った。
「あんた、聖書を読みなさいよ。早く天国に帰れれるように」
希空の出向元である聖ガブリエル病院はキリスト教系だったので、入職時に聖書が配布されたのを持っていたのだ。ただし、もらいもんだけど、と言うのはあえて言わなかった。次の瞬間、聖書が「万有引力の法則」を破って空中に浮かんだ。
「オレ、天使ですよ」呆れ顔のクラノスケが言った。
「そんなのわかってる」と希空。でも、自称でしょ?と心の中で付け足す。
「天使って漢字、どう書くか知ってますか?」
「天ぷらの『天』に、お使いの『使』じゃん」
と、希空は人差し指で空中に「天」と「使」を書いた。
「なんで例えが『天ぷら』なんですか?」
「どうだっていいでしょ?あってりゃ」希空がふくれっつらで答える。
「天使は『天の使い』です」
だから何、と希空が眉間に皺を寄せた。
「天に帰ったら、『使い』じゃなくなるでしょう?」
自称天使はドヤ顔で言うと、聖書をラックにふわりと戻した。それから、右手をわずかに上げた、と、クローゼットの扉が少し動いた。
何の意味があるのよ、と希空は言い返そうとしたが代わりに他の言葉が出た。
「何よ、コレ!!」
別の言葉が出たのは、クローゼットからスーツが空中に勢いよく飛び出してベッドの上に着地したからだ。
「スーツはこれしかないんだ・・・しかたない、明日はそのスーツで行ってくださいね」
「イヤダ、ゼッタイ!」
3年前、救急医学シンポジウムに出席するためだけに購入したパンツスーツを目の前にして希空はきっぱり言った。それに、もうサイズが合わないかもしれない。
「サイズ、チェックしておきました。ほんのちょっとキツイかもしれないけど、大丈夫です。あ、それからスニーカーはNGですよ」
クラノスケは右手の親指を立てると同時に、黒のローファーがクローゼットから希空の足元にぴょこぴょこと進んできた。どうやら、クラノスケは希空の聖書の仕打ちに仕返しするつもりらしい。
「なんなら、朝、着るのをお手伝いしましょうか?」
両腕を胸の前で交差した希空を見て、自称天使がにっこり笑った。
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