(2)10月4日(金)米国 イリノイ州シカゴ 中部標準時間 午前8時
文字数 3,110文字
ジェームス ブレナンは紺のメルセデスを役員専用イーストエントランス前に駐めた。設置されたカードリーダーにIDをかざすと、車は自動運転で地下駐車場に移動する。このオートヴァレットシステムは、我が社がIoTとAIを融合する先端技術で開発したもので、すでに商用化が始っている。インターフューチャー社の融合技術(フュージョンテクノロージー)は、無限の可能性とパワーを持ち、これからの世界経済と人々の暮らしに無くてはならないものになるだろう。
今朝の気温は華氏50°(10℃)だ。ブレナンは高層ビル群の合間から空を見上た。快晴だが、この2、3日でめっきり冷え込んだ。そろそろ厚手のコートが必要になるだろう。ラサールストリートに面したシカゴ市庁舎とパレス劇場の先には環状線の高架が見える。シカゴ交通局(CTA)の「L」と呼ばれる電車が走っていた。鉄のレールと車輪が立てる音。京都の情景とは全く異なるが、この景観が自分の日常だ。
ブレナンは視線を朝日を受けて輝いているビルに戻した。ジョン・ハンコック・センターとウィリスタワーのようなランドマークとまではいかないが、インターフューチャー社の45階建の自社ビルは有名だ。美しいガラス張りビルは「クリスタルタワー」と呼ばれている。もっとも、本当の名称は「IF(アイエフ)クリスタルタワー」だが。「IF」はインターフューチャー社の略だ。
そうだった、とブレナンは足を止めた。西側1階にある「ハイディズ」で、カイザーサンドイッチを買うつもりだったことを思い出した。「ハイディズ」はクリスタルタワーのテナントで、この界隈では名の知れたサンドイッチショップだ。10数種類のサンドイッチがあるが、中でもパリっとした焼きたてのカイザーに挟んだアボカドエッグとチェダーチーズが一番人気だ。朝7時から開いているので朝食を家で取らずにオフィスで食べる社員も多い。この時期の「ハイディズ」は、スターバックス同様に包装がハロウィン仕様となる。女性が喜びそうなデザインで、少し遠くのオフィスに勤務する人も目当てに買いにくるほどだ。リースやオーナメントが飾られた店内は今日も何人かが並んでいる。香ばしいカイザーロールの香りが漂ってきた。さあ、お目当てのサンドイッチを買うとしよう、と店のドアに手をかけた。次の瞬間、ブレナンのスマートフォンが振動した。
ディスプレイに表示されたのは秘書の電話番号だった。
※
西側エントランスのセキュリティゲートは、出社する従業員達で少し混んでいた。もうすぐ一般用エレベータはラッシュアワーとなる時間だ。ブレナンは役員専用エレベータを利用するので、自分のオフィスがある40階までノンストップで25秒で行ける。だが、サンドイッチはあきらめなければならなかった。
エリートたちの朝は早い。この時間だと遅いほうだ。朝型ワーキングスタイルがステータスだとばかり、役員達は競うように早朝出勤する。お抱え運転手をつけ、デキるビジネスパーソンを演出して出勤する役員もいる。だが、仕事は部下にまかせ、彼等達があげた成果は自分のものとし、暇さえあればオフィスで居眠りする役員が少なからずいるのだ。ビジネスの世界も不条理このうえない。
※
執行役員室の前で、秘書のアンナが待っていた。ブレナンの顔を見て、ほっとした様子になった。VIPがアポなしで、しかも朝一番でやってきたのは想定外だったようだ。支配者層にいる人間達は、彼等のスケジュールを最優先する。それは自分達の利益を最優先にするためだ。
「エスプレッソとピーカンクッキーをお出ししましたわ。ブレナンさんにもお持ちします」
ブレナンのためにドアを開けた秘書が明るく言った。ブレナンはギリシャ系移民の祖先を持つ彼女の不機嫌な顔を見たことがない。子どもも独立し、夫と二人暮らしのアンナの楽しみは焼き菓子を作ることだ。それが原因かどうかはわからないが、彼女は標準体重を十分超えていた。今日も秘書デスク横のビバレッジステーションに置かれたバスケットに、彼女の手作り菓子が入っている。
「いや、ここでいただくよ」
ブレナンは自分でサーバーからカップにコーヒーを入れ、朝食にぴったりとは言えないが、甘い香りのクッキーを2枚取ると、大事な話があるから応接室には誰も入れないでほしいとアンナに伝えた。
「もちろんですとも」
秘書は褐色の瞳を大きくして3回頷いた。
※
「少し、早かったかな?」
ソファに深く座ってコーヒーを飲んでいたフレデリック エバンズは応接室に入ってきたブレナンを見ると、右手をあげてにっこり笑った。カシミアのタートルネックにキートンのジャケットを上品に着こなしている彼は、グレイヘアを考慮しても60代後半には見えなかった。
「いいえ、私が遅かったようですね。お待たせして申し訳ありません」
知っていたら、早く来ていたのだが仕方ない。恐らく、副社長のハドソンとのブレックファーストミーティングのあとに自分のところに寄ったのだろう。ブレナンが応接テーブルにコーヒーと紙ナプキンに包んだ菓子を置いて、エバンズの向いに座った。
「朝から甘いものを食べのは体によくないぞ」
「朝食を食べ損ねたんです。妻が出張で」
アデルはキルト作家で、作家仲間の友人と昨日からスコットランドに生地の買付けに行っている。そう、いつもなら彼女がバランスのよい朝食を用意してくれる。ただ、今朝は昼前には売り切れる人気のサンドイッチを楽しみにしていたのも確かだ。ブレナンはクッキーを口に入れてコーヒーを飲んだ。エバンズがコーヒーカップをソーサーに置いて言った。
「トラブルはうまく対応できたのか?」
私もできる限りのことをしたがね、とエバンズは付け加えることを忘れなかった。
「ありがとうございます」とりあえず、ブレナンは礼を言っておくことにした。
「ニッポンのトモダチは作れたのかい?」彼は笑みを浮かべながら次の質問をした。
「ええ、仲良くなりました。まもなく、その成果をお見せできるでしょう」
ブレナンにとって想定内の質問とはいえ、温厚な表情に時折見せる鋭い目の相手に平静を装わなければならなった。
「よろしい。このまま進めてくれ」
エバンズはアンナが出したクッキーを紙ナプキンで包んで立ち上がった。
「イエス、サー」ブレナンも敬意を表して立ち上がった。
「それから、」と、エバンズが声のトーンを落とした。
「多少の犠牲を払っても、流れを変えることのないように」
「すべては計算どおりです。ご安心ください」
ブレナンは応接室のドアを彼のために空けた。
※
「持って帰っていいかな?朝食をさっき食べたあとでね」
応接室を出たエバンズは、紙ナプキンに包んだクッキーを手のひらにのせ、秘書デスクにいたアンナに声をかけた。
「まあ、私としたことが気づかずに。お気になさらず、残しておいてください」
秘書が申し訳なさそうに言った。
「いや、午後のティータイムにいただくよ。甘いものには目がないんだ」
「光栄ですわ。Senator(セネター)」
彼女は両手を頬にあてて少し恥ずかしそうに笑った。
「おいしいコーヒーをありがとう」穏やかな笑顔でエバンズが言った。
ブレナンはエバンズがそのクッキーをどうするのか知っていた。イリノイ州選出上院議員はオフィスを出たあと、悪態をついてゴミ箱に捨てるのだ。
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