(5)10月9日(水)14時
文字数 3,731文字
今日もノアさんの弁当に入れてしまった。
二回連続だけど、オレに連絡ナシで晩ごはんを食べてきたせいだし、とクラノスケはくすっとした。
日曜日の晩ごはんに作った鳥の天ぷらは、希空がフライドチキンを食べて帰ったのが原因で余ってしまった。月曜日の朝に「とり天」を入れたお弁当を作り、嫌がる希空に「天使の特製弁当だから」と無理やり持たせたが、冷凍庫にまだ余っている。その日、希空は夜勤で戻らず、帰ってきたのは火曜日の夕方だった。夕食に用意した豚の生姜焼きを「おいしい」と言いながら食べたものの、食べ終わると「寝るから」と部屋に行ったきり、朝まで出てこなかった。夜中に冷蔵庫の開く音がしたから、今日予定されていた講義の準備をしていたのだろう。希空のハードスケジュールさは、クラノスケの想像をはるかに超えているようだ。
クラノスケは掃除をすませると、庭でサクラが好きなボール遊びをしてやった。ボールを高く浮かすと、他人には勝手に宙を舞っているように見えてしまう。サクラが自然に追いかけているように見せるため、クラノスケはボールの「向き」と「浮き」に集中しなければならなかった。
たくさん遊んだサクラは疲れて、ソファの下でヘソ天になって爆睡中だ。さて、今から 何をしようか。買い物に行こうか。でも、ノアさんがいないと、お金払えないし、買ったものを持って帰れない。いや、正確に言うと、荷物を浮かして持って帰ることはできるけど大騒ぎになるのが本当だ。何もすることがない時はネットで映画でも見とけばと言われてるけど、今はそんな気分でないし。そうだ! と、クラノスケが思った瞬間、
自称天使はソファの上から消えた。
※
東都総合メディカルセンターのトレーニングラボは、聖ガブリエル病院とは比べ物にならないくらい設備が整っている。IVR(血管内治療)手技の手術シミュレータはフルスペックで最新だ。前の職場と使い方が僅かに違ったのに加え、加藤教授が見学しに来たので少し緊張したが、終わったあと
「まあまあだった。及第点やるよ。ほっとした、ダロ?」と、カトダロに言われて安堵した。ありがとうございますと、希空が礼を言うと、
「ハラ減ったあ、と思ってんダロ?」
やはり、元指導医の加藤教授には見透かされていたか。実は、講義の終盤から胃がぐうぐう言っていた。
「一緒に食いたいけど、予定が入ってるから、またな」と、加藤教授は笑いながらラボを出て行った。教授を見送りながら希空は息を静かに吐いた。加藤と一緒は気を遣う。それに、クラノスケが作った弁当を持たされてきたので、食べずに帰ると「せっかく作ったのに」と、お小言を言われること間違いない。さて、オフィスに戻って自称天使の特製弁当を食べよう。と、希空が資料を片付けていると
「先生、勉強になりました!」
研修医と思われる青年が近づいてきた。
「質問しやすくて、わかりやすかったです」
クルズス(小人数講義)をやれと言ったのは、カトダロ教授だ。「それはよかった」と、希空はあたりさわりのない受け応えをして資料をしまうと、ドアに向かって歩きだした。
「やっぱり、僕のこと覚えてませんよね?」
先回りした青年が、ドアを希空のために開けながら問いかけた。
「?」
希空は彼の顔に見覚えがなかったが、すらりとした長身に涼やかな目をしている。
「前川先生と一緒だったとき、助けてくださいましたよね?」
ああ、貧血で倒れたぽっちゃり医師を診た研修医だと希空は思い出した。
「あの時はありがとうございました」 と、青年は頭を下げた。
希空はあの時、救急搬送された外傷患者のことを思い出した。
「何もしていませんよ」
救えなければ自分にとって意味がない、希空は無表情で答えた。研修医が怪訝な顔をしたので、相手には自分の表情が険しく映ったのかもしれない。しまった、と希空は
「すぐに教授たちが戻って下さったので」慌て言い繕った。研修医が納得した表情になって「僕、永瀬といいます」と自己紹介した。
永瀬准は救急科専攻医プログラムを受けている後期研修医だが、現在は研修医ではなく専攻医と呼ばれている。どうやら希空は、若く見える永瀬のことを前期研修医と思っていたようだ。そんなことを話しているうちに希空のオフィスの前まで来てしまった。
「先生のオフィス、ココなんですね」永瀬がにっこり笑った。
「質問があるならオフィスで聞きますよ」
後輩は大事にしろ、と指導医だったカトダロ教授に言われたことを思い出し、希空は空腹を隠しながら言った。センターの救急科に出入りを始めたのが最近なので、まだ全員の顔と名前が一致していない。人の名前を覚えるのは得意ではないので特徴で覚えるようにしている。さしずめ、彼は「すらりレジデント」略して「スラレジ」というところか。
「いえ、もう行かないと。じゃあ、これからよろしくお願いします!」と、スラレジは元気よく言うと駆け足で戻って行った。
どんなに慌てていても病院内は走るな、と教えられていた希空はスラレジを呆れ顔で見送ると、オフィスのドアをあけて資料を机に置いた。机の端に置いておいた保冷バッグを持ち上げてソファに座り、バッグから取り出した弁当箱を開けた。ブロッコリやプチトマトの横に、「とり天」が堂々と入っている。日曜の夜ごはんにと作ってくれたものの、お団子ヘアが買ってきたフライドチキンを食べて帰ったため、余った「とり天」はお弁当のおかずになっている。月曜日の弁当にも入っていたから、結構な量をクラノスケは作ってくれていたのだろう。希空は食べ物にはこだわらないのでメニューが同じでもかまわないが、他人には自分が作って持ってきていると思われるので、良心がチクリとするところだ。しかし、家計が助かるという点には勝てない、と箸を持った希空だったが、ふと動きを止めた。
ちょっと汁物が欲しいかな。ミニカップラーメンとかいいかも。クラノスケがいたら止められるけど、今はいないし。ん?これは、チャンスじゃないか?
希空は、オフィスのドアを開けるとゴージャスエリア(特別個室病棟)へ向かった。そこを抜けるとエレベータがある。
足早に進んで、希空はエレベータボタンを連打した。その時、
「ノアさん、ココにいたんですね!」
聞き慣れた声がした。
この声は、と横を見ると通常の人には見えない者がいた。
「探したんですよ」
自称天使が嬉しそうに手を振っていた。
「何でここにいるの?」
希空は、回りを見渡して誰もいないのを確認してから小声で聞いた。
「どんなところでノアさんが働いてるのか見たくて」相手も小声で答えた。
「いや、ここにいたらまずいから」
希空はNOのサインで右手を小刻みに揺らしたが、
「どこに行くんですか?仕事?」
相手には全く通じていないようだ。
「いや、コンビニへ」
「何、買いに行くんですか?」
自称天使は、希空が答えにつまる質問をした。
「ん、ちょっとコーヒーでも」カップラーメンだとはとても言えない。
「じゃあ、一緒に」
「それはダメ」
「なんで?オレ、他の人には見えないでしょ?」
自称天使は不服そうだ。
その時、エレベータが開いた。
「あ、槇原センセじゃないですか」
こんな時にお団子ヘアだ。
「あ、ノアさんの同僚ですか?」と、クラノスケが聞く。希空は頭を少しさげて「うん」のジェスチャーをした。お団子ヘアの椎名有紗には挨拶と思われるから、とりあえず二人同時の対応ができる。
「どこへ行くんですか?」
お団子ヘアの質問は自称天使と全く同じだ。
「あ、ちょっとコンビニへ」
と、答えた希空は急いでエレベータに乗った。
「あ、それならワタシも行きます。コーヒー買いに」
えー!それは困る。
お団子ヘアは、希空を気持ちなど理解するはずもなくエレベータに戻った。
「ボクも行きます」とクラノスケもエレベータに乗った。
いや、もっと困る!
お団子ヘアがいる手前、クラノスケに返事する訳にもいかず、希空は頭を横に振った。
「え、コンビニ行かないんですか?」と、お団子ヘアが怪訝な顔で聞く。
「いや、ちょっと肩が凝ったなと」と希空は首を回した。
エレベータはコンビニのある3階で止まった。
「さっきの講義、勉強になりました」お団子ヘアは話を続ける。
「どうも」とあたりさわりない返事をして、希空はクラノスケに早く帰ってほしいと目配せした。自称天使は「にっ」と笑った。やっぱりヤツには全く通じてない。
「それがそうと、知ってます?」
お団子ヘアが話題を変えた。
「清水のバアサン、ピュアマーケットの会長だったんです」
「え、あの!?」
希空とクラノスケが同じタイミングで言った。
ピュアマーケットは、クラノスケが、品揃えが豊富だからと希空が帰りによく行かされるスーパーである。
「そうなんですよ」とお団子ヘアがしたり顔で頷いた。
ピュアマーケットは国内売上第1位のスーパーだ。北海道から沖縄まではもちろん、欧米諸国、アジア諸国にも展開している。
「へぇ、そんなVIPが入院する病院なんですね」
クラノスケが目を丸くした。
結局、希空がコンビニで買ったのはコーヒーだけだった。
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