(3)9月28日(土)午前9時30分
文字数 6,338文字
「遅刻だ!間に合わない!」
不思議なのは、枕と毛布はソファの下に置いてあったにもかかわらず、ちゃんと白いブランケットをかけて寝ていることだ。枕も白で統一されている。そっと彼がかけているケットを触ってみるが、その白い物体は希空の手をすり抜けた。
「やっぱり、見えるものはしかたない」
と、希空は大きく二回頷いた。
とにかく、朝はコーヒーだ。豆を入れてコーヒーメーカーのスイッチを入れる。ミルの音が響くと同時に、挽いたコーヒーの甘い香りがする。
「ノアさん、カラフェはちゃんとセットしてくださいね」
眠そうな声がした。起こしてしまったか。と思ったが、なんで自分がコイツに気をつかわないといけない。希空は舌打ちをした。
「はいはい、起こしてすみません。ビーカー、確認しましたから」あえて、「ビーカー」と言い直す。
サクラがソファにあがろうとしている。ジャージ姿の希空がダイニングから小声で言っている。
「ダメダメ。クラノスケが寝てるし、それにそのソファはここの家主さんのだから」
「あ、オレの名前、呼んでくれましたね!呼び捨てだけど、オッケーです」
彼が、親指と人差し指でマルを作って嬉しそうに立ち上がった。
「おはようございます。オレ、おきました。さ、サクラ、座って」
彼女が嬉しそうにソファにあがった。ダメだって。それ、家主さんのだし!
「いいですよ。きっと、家主さんも気にしませんよ」
「何でアンタにわかんのよ!」
弁償するのはこっちなんだからと、希空は一人ごちた。今日も天気がいいようだ。日差しが中庭から入ってきて、リビングを明るくしている。
さあ、シャワーを浴びよう。希空はバスルームに急いだ。
しばらくすると「星に願いを」のハミングが聞こえてきた。
※
「ちょっと出てくるわ」
シャワーを浴びた希空は、グラノラバー片手にコーヒーを飲みながら言った。
「え、ボク、一人になるんですか?」
ボクがでてきた。自称天使のくせに気弱なこといってんじゃないわよ、と希空が思っていると、まあ、しかたないですね、とクラノスケが残念そうな表情で頷いた。
「それがそうと、おなかすかないの?」と希空が話題を変えた。
「天使ですからね」
自称ね、と心の中でつけたしておく。
「で、どこへ行くんですか?」とクラノスケが興味ありそうに聞いてきた。
「買い物」
「え、その格好で?」
クラノスケは驚いた。彼女が今着ている、失礼だが「ヨレヨレ」といった表現がふさわしいジャージと襟が擦り切れたグレーの長袖トレーナー、キッチンカウンターの上にあるこれまた年季の入ったバックパックで行くつもりなのだ。相手はきょとんとしてクラノスケを見ている。どうやら、質問の意味がわからないらしい。
「いや、もう少し身なりに気を使ったほうが・・」
クラノスケの言葉に、希空はあからさまに不機嫌な表情になった。
「大きなお世話だから!」
と、立ち上がってバックパックを背負った。
「あ、オレも一緒に行っていいですか?」
「なんで?」
「家に一人でいるの、つまらないし」
「いや、それは困る」
「邪魔しませんから」
「だまっていても邪魔になるの」
見えること自体が困るのに。と、希空は頭を掻いた。
「それに、アンタ、裸足じゃん」
「ああ、そうですね」でも、とクラノスケが両手を前にだすと白いスニーカーが現れた。
「色ものやガラものはないんですけど、自分が望めば、なんでもでてくるみたいで」と、嬉しそうに言う。
「!じゃあ、枕も毛布も自分で出せばよかったじゃん!」と、希空が噛みついた。
「いや、それは借りないと・・・」
自称天使の言動は矛盾しまくりである。
※
30分後、希空は最近オープンした大型ショッピングモールに来ていた。引っ越す前から、メディアでも大きく取り上げられていたから知っていたが、希空が最大の興味をもっていたのは大手スーパーが展開するワインの直輸入コーナーだ。安くておいしいカリフォルニアワインが買えるのは、このうえなくワクワクする。だが、そんな場所に来たにもかかわらず、希空がぶすりとしているのには訳があった。クラノスケが強引についてきたからだ。
「あ、コレコレ」
と、言ったのはクラノスケだ。クラノスケは、1Fのファッションフロアを歩いている希空に手招きして、店先に並べられているボーダーの長袖Tシャツを示した。
「こんな服装したらどうですか?コレ、似合いますよ」コイツはスタイリストか?だが、長袖Tシャツはユニクロに限る。
「こんなもんはワカモンが着るのよ」と、ジャージにクロックスの希空は小声で抗議した。目指すのは前方、大手スーパーのワインコーナーだ。
「ちょっとはおしゃれにも気を配らないと、一生おひとり様ですよ」
おひとり様の何が悪いと、むっとした希空がクラノスケを無視してワインショップへ体の向きを変えようした瞬間、やわらかい光が現れた。その光が希空を包むと、彼女の体が2cmほど浮いた。希空が足を地面につけようとしても、つかない。体はそのまま店に進んでいる。不格好に歩いているようにしか見えないので他の客は気づいてないようだ。
クラノスケは手から柔らかな光を放ちながら希空の横で微笑んでいる。やめてよ、と希空は声に出したいが、この状況では声も出せない。
クラノスケはインディゴチェックのネルシャツワンピースにニットベストを組み合わせたディスプレイの前で立ちどまった。希空の体もそこで止まる。
「これ買いましょう。ノアさん、似合いますって。そうそう、カーゴパンツもいいですね」
「いやだって言ってんでしょ!早く出ようよ」
周りに誰もいなかったので、希空は少し大きめの声で言うと、クラノスケに背を向けた。ところが、ハンガーにかけられていたディスプレイと同じシャツワンピースとベストが手に飛び込んできた。驚いた希空が叫び声を押し殺したとき、カーゴパンツもとびこんできた。
「サイズは9号ですね」
どうして自分のサイズを知っているのか、希空が問いただしたかったが、服を元にもどす行動が優先だった。だが、服は反対の方向に進もうとして、綱引きのような格好になる。他人が見たら奇妙な光景に違いない。幸い、土曜日でも朝が早かったためお客が少なく、誰も見られていないのが唯一の救いだ。
「ちょっと、やめてよ!」
希空の声が大きくなり、あわてて手で自分の口を押さえる。レジにいる店員はラッキーなことに、別の客の会計をしていて気づいた様子はない。
「じゃあ、レジに行きましょう」
クラノスケが指を動かすとそのまま物体はレジに向かい始めた。これが結構な速さだ。
バレたらやばい!希空は必死に自分が持っているふりをして小走りで進んだ。
「お買い上げ、ありがとうございます」
レジの店員がにっこり笑った。希空が引きつった笑みを浮かべて財布をとりだす。
「次はあの店に行きましょう。靴も買わないとね。あ、お金ありますよね?あんな広い家に越してくるくらいだから」
と、クラノスケがにっこりした。
※
自分が買いたかったのはワインだ!
ワインを3パック買おうとしたら、「まだ、ウチにありましたよ。1パックで十分です」と、クラノスケは2パックを棚に返した。引越し休暇を楽しむためにワインを買いに来たのに意味がないじゃないか!
「もう、帰る・・・」
食材コーナーで希空は独り言を装って呟いた。
「ノアさん、まだ足りないでしょ?」
クラノスケが、希空のショッピングカートを覗き込む。中にはワインが1パック、野菜と果物、無添加ウィンナーと卵と牛乳が入っていた。だが、ワイン以外は全てクラノスケの選択だ。
「これも買って」
と、クラノスケは希空が立っている後ろのパスタコーナーにあった乾麺スパゲティのパックを浮かべてバスケットに落とした。
「いらないから」と、希空が棚に戻す。クラノスケがカゴに入れる。希空がまた戻す。クラノスケがもう一度戻す。客が来たため、希空があきらめる。さっきからこの行動の繰り返しだ。彼女がインスタント食品をかごに入れる度に、片っ端から戻され、彼の姿が見えない客からは、希空が変な動きをしているようにしか見えないから、通りすぎる客からはヘンな目で見られる。希空は、やっとのことでスーパーの支払いをすますと駐車場に急いだ。希空の両手は、さっき買った食材や、いや買わされた服だの靴だので、ふさがっている。これが結構な重さだ。
「持ってあげたいんですけど、みんなが見てますからね」
と、クラノスケが言った。みんなオマエのせいだ、希空は憮然として運転席に座った。とんだ散財をしてしまった。全くツイてない。
※
希空は、サクラの散歩から帰ってきた後、ソファに座っていた。もうじき夕方なのに、何もする気が起きない。昼ごはんも食べ損ねた。それもこれも、コイツのせいだと思うと怒りが収まらない。クラノスケといえば、床に座ってテレビの情報番組を真剣に見ている。どうやら今日の特集は、手早く作れる夕飯らしい。番組が終わったと同時にテレビの電源が勝手に切れた。
「テレビ、見てないですよね?」
希空はクラノスケを見もせず頷くとソファに横になった。気分転換するには寝るに限る。病院で連続シフト勤務しているときだって、空いた時間があれば、どこでもすぐに寝ることができる。クラノスケは、希空を起こさないように立ち上がった。どうやら、希空はすでに眠っているようだ。サクラが嬉しそうにクラノスケの後をついてきた。
キッチンに入ると、クラノスケは冷蔵庫の前に立ち右手をあげた。すると、扉が開いた。まず、彼の目に入ってきたのは正面の冷蔵スペースに置かれていた赤ワインのパックと、ミネラルウォーターのペットボトルだった。チルドコーナーのカバーがあくと、さっき買ったトマトにモッツアレラチーズのパック、玉葱とレタスがでてきた。次に、冷凍庫の引き出しが勝手に開いた。ロックアイスパックの上にウィンナーが置かれていた。買ってきたウィンナーを冷凍庫に入れるとは、調理する気がないのと同じだ。調味料と言えば、シンクの上に備え付けられた棚に置かれた塩こしょうと、その横に無造作に放置されていた、開封されていないマヨネーズとケチャップだけだ。クラノスケはしかたないという表情を浮かべて、手をかざした。すると、トマトと玉葱がフワリと浮かんで冷蔵庫から出てシンクに移動した。そして、シンクの蛇口から水が流れ出した。一緒に買ったパスタはどこだ?クラノスケがそう思った瞬間、カウンターに置かれたプラステックバッグの中から、乾麺パスタが1パックふわりと現れた。
鍋はどこだ?とクラノスケが言うと、今度は台所のスペースにまだ積み上げられている一番上のダンボールの中から、ちょうどよい大きさの鍋が浮き上がった。オリーブオイルもその中から現れた。
「サクラ、オレってスゴイかも!欲しいものが勝手に出てくるってさあ」
クラノスケが嬉しそうに言うと、ゴールデンレトリバーは同意するように尾を振った。
※
「ノアさん、ごはんできましたよ」
クラノスケの声がした。
目をあけた希空は、起き上がると、トマトソースのおいしそうな匂いがする方向に体を向けた。
「へえ、寝起きはいいんだ」
緊急時には寝ていてもすぐに呼び出しされる。だから、すぐに目が覚めるのは希空にとってあたりまえのことだ。機嫌がいいかどうかは自分ではわからなかったが。
希空がソファから立ち上がると、テーブルの上には、ナポリタンスパゲティとサラダがのっていた。ミネラルウォーターもおかれている。
「材料がこれしかなかったから。大したものはできませんでしたけど・・・」
「アンタ、魔法使いみたいなことできるんだ」感心したように希空が言う。
「そう、天使ですからね」
テーブルの横に立っているクラノスケが自慢げに言った。
「これ、マジ?幻覚じゃないよね?」食べたら、実は木の葉だったとか。
「食べてみたらわかると思いますけど」クラノスケが少し気分を害したように言った。はいはい、と、希空はパスタを1本だけ食べてみた。確かにおいしい。希空は、目の前におかれたスパゲティを豪快にすすると親指を立てた。クラノスケが笑った。
「アンタは食べないの?」
「おなか、すかないって言ったじゃないですか」
クラノスケは、希空の向かいのダイニングチェアに座った。ふと、クラノスケは疑問に思ったことを言ってみた。
「ノアさん、家族は?」
「いない」希空の顔が少し曇った。
「よけいなこと聞いてすみません。あ、サラダも食べてくださいよ」
自称天使が気まずさを打ち消すように言った。
希空は頷いて、トマトにモッツアレラチーズがのったサラダに手をつけた。塩こしょうだけの味付けだがイケる。
「おいしい!これ、どうやって作ったの?」
クラノスケが大きな息を吐いてにっこりした。
「さっき、テレビで見た通りやってみました」
ふうん、じゃあ、と、希空は立ち上がった。
じゃあ、って、何なのだろう?とクラノスケが不思議に思っていると、希空は冷蔵庫を開けて紙パックワインを取り出した。続いて、キッチンの戸棚からデュラレックスのグラスを出した。ああ、飲むつもりなのか。でも、そのグラスで?
「リーデルなら、もっとワインを楽しめるのに」呆れたクラノスケが言った。
「リンゲル(液)なら知っているけど」と、希空は答えたあとに
「このグラスは安くて品質いいの。ワインは安くても、おいしいと感じればいいの」と、言ってワインを注いだ。
クラノスケは、リーデルがワイングラスメーカーだということを相手が全く理解していないことを理解したが、新たな疑問が浮かんだ。
「最初に聞こうと思ったんですけど、ノアさんは何してるんですか?」
ワイン、飲んでいるのよ、と希空は返したが、「職業です」とまじめな顔をしてクラノスケが聞き返してきたので、
「医者よ」と、希空が現実に戻されたように答えた。
「何か言いたそうじゃない?」と、続けたのは、クラノスケが微妙な顔つきになっていたからだ。
「そのワリには生活態度といい・・・」
身なりも、と言いそうになって、クラノスケは慌てて言葉を飲み込んだ。
「悪かったわね。ビンボーヒマナシ医者で」
※
誰かと一緒に食事をするのは久し振りだ。まあ、相手は自称天使だが。と、希空はソファに座って、何杯目か忘れたワインを口にしていた。
「飲みすぎなんじゃないですか?」希空の横にいるクラノスケが心配そうに言う。明日も休みだから大丈夫、と、希空はソファにもたれたまま言った。床に置かれたワインのパックは半分無くなっている。
「医者の不養生って、ホントなんですね」
クラノスケが感心したように言ったが、返事はなかった。
寝ている希空の手には、グラスが握られていた。
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