(7)10月6日(日)13時
文字数 4,080文字
特別個室病棟エリアを通りかかったとき、専用ラウンジに設置された大型液晶ディスプレイにテロップが映しだされていて、希空は足を止めた。今週の「サンデーニュースレポートニッポン」は、防衛総省の予算がテーマらしい。
防衛総省の次年度計画予算は6兆5千億円と報道されている。今年度より1兆円程度の増額要求だ。憲法のもと、他の国々の脅威となるような軍事大国にならないことを基本方針としたうえで、宇宙・サイバー・マイクロ波といった新たな領域の防衛整備を図るための増額だとしている。画面が、現職の村山防衛総省大臣の紹介に変わった。音声は聞こえないが、スクリプトが出てくるため内容は理解できる。
希空は来る途中、1FコンビニのATMで3万円を引き出したところだった。1万円札3枚は、防衛総省の概算要求の額に比べたら無いに等しく、われわれ庶民には考えられない金額だ。結局のところ、予算が国際的平和追及のためだとか言って、この金額があっているのかどうか誰もわからないのではないか、と希空は思う。村山大臣は民間出身で防衛費拡大派ではなかったはずだが、国家組織は大臣一人で変えるのは難しいのかもしれない。それは一介の社会人でも言えることだと、希空は妙に納得した。
こんなこと考えるより、コーヒーでも買ってオフィスで早く仕事を片付けよう。家だとクラノスケの邪魔が入って進みやしない、と歩きだしたときだった。
「あの大臣、ここで手術したらしいわ」
ラウンジソファに座っている付き添いサービスのスタッフと見られる中年女性が、後輩スタッフらしき女性に話す声がした。村山大臣は8月下旬に急性心筋梗塞でこの東都総合メディカルセンターに運ばれた。東都医科大学の加藤教授がサージカルロボット「パナケイア」で心拍動下バイパス手術を行い、驚くべき速さで退院させたことをテレビ局がこぞって報道した。希空はその時、聖ガブリエル病院で勤務していたが、院内はこの話題で持ちきりだった。希空が研修医だった頃の指導医は、今やトップドクターとしてメディアが取り上げる医師の一人となっていた。
※
ゴージャスエリアと呼ばれる特別個室病棟を通り抜けたところに、職員のオフィスフロアがある。希空が使っている部屋は広くはないが、個室なので集中できる。簡素だが接客用のソファもあり仮眠もできそうだ。コーヒー缶を机におくと、救急科専門医研修で使う資料作成を再開する。第1回は緊急IVR(画像下治療)がテーマだ。交通事故などでどこが出血しているのかわからない場合は、X線投資や造影CT等で出血箇所を特定し、カテーテルを使って止血をする。外科手術をしなくても、臓器や血管の出血と止めることができる低侵襲な治療法だ。だが、搬送されて1時間以内に止血しないと救命率は下がるので、可能な限り早い段階で止血をする必要がある。救急科専門医の資格を持つ希空は、救急・災害医学の博士課程も取れと言われてセンターに来たのだが、研修医を指導することも仕事に入っていた。正直いうと、指導するのは得意ではない。何か他によい資料はなかったかと考えを巡らせていたところ、聖ガブリエルで使っていた資料があったことを思い出した。確か、ここに移ってきたとき、片袖机の二段目に入れたはずと、引き出しに手をかけた。が、開かない。思い切り力を入れてひっぱっても頑として動かない。
片づけが苦手な自分にとって多々あることなので、この状況には慣れている。たまに机の中を整理することがあっても、少し時間がたつと中はノートやらボールペンやらが混沌としている。ただ、記憶力はいい方なのでどこに何があるかはわかるほうだ。ま、自慢できるようなことではないが。
1センチほどあいた引き出しの隙間を覗いてみたが、何がひっかかっているのかはわからなかった。揺さ振ってみたが、ビクともしない。もの差しを差し込んでみても、複数の書類が重なりあっているようで変化はなかった。しかたなく、3段目の引き出しをひっぱりだすことにした。だが、これは結構大変だ。3段目には重い書類が入っている。希空は、「よいしょ」と言いながら、片袖机の一番下にある引き出しを引き出し、2段目の引き出しを揺すると、引き出しが開いた。やった!と思った時、奥に無残に折り重なっている書類があるのが見えた。手を伸ばして取り出すと東都医科大学の学内情報誌「TMS liaison」だった。「TMS liaison(リエゾン)」は東都医科大学(Toto Medical School)の学生と医局員向けの情報誌で、研修医に役にたつ情報が掲載されており、希空も研修医時代によく読んでいた。取り出した情報誌は6ケ月くらい前の号だったが、懐かしくなって数ページめくると、「生物学と電子工学の融合 バイオエレクトロニクスの未来」という見出しの記事が目に入った。東都医科大学は神経再生医療にも力を入れており、携わっている佐久間という准教授が取材されていた。この研究開発は産官学連携プロジェクトとして進められており、情報誌の写真には佐久間准教授のほかに加藤教授や研究メンバーと思われるスタッフ達が笑顔で映っている。記事によると佐久間教授は希空より5期上だとわかったが、医局員時期に面識はなかった。もしかしたら、自分が研修医だったころ、どこかですれちがっているかもしれないと思ったとき、ノックの音がした。
「前川です」
希空は情報誌を机の上に置いてドアをあけると、ぽっちゃり医師が立っていた。彼の手には、金色とブラウンの2色リボンがかかった箱が載っており、「今日、いらっしゃってたんですね。よかった!」と、そのシックなデザインの箱を差し出した。希空が受け取るべきかどうか迷っていると、
「槇原先生にお世話になったことを奥さんに話したら、買ってきてくれたんです。だから遠慮しないで」と、まるい顔に笑顔を作った。希空が、それならとソファを勧めると、ぽっちゃり医師はシフト中なのでと言いながらも、「じゃあ、ちょっとだけ」と、ソファに座ってテーブルの上に箱を置いた。
「開けてみてください」と催促され、希空がリボンをほどいてみると、オシャレなグラシン紙にくるまれたチョコレートが並んでいる。おいしそうですね、と希空が思わず言うと
「食べてみてください。ここのチョコ、オススメなんです。あ、コーヒー 飲みますか?」前川医師が、ニコニコ顔で希空の表情を伺っている。
「あります」と、希空が机においていた缶を指したところ、「それだとチョコのおいしさが半減するからちょっと待ってて」と、ぽっちゃり医師は部屋をあたふたと出て行った。
チョコレートは、ココアパウダーがついている定番のトリュフチョコに、色鮮やかなボンボンショコラの組み合わせで見た目も美しい。こんなチョコ、食べたことなんてない。と、希空が思っていると、ドアが開いてぽっちゃり医師が戻ってきた。コーヒーが入ったカラフェの上に紙コップを載せている。
「ちょっと前にドリップしたんで、味は少し落ちてるかもしれませんけど」と、前川が紙コップにコーヒーを注いでくれた。甘い香りが部屋に広がる。希空はコーヒーを口にして、チョコを一つ摘まんだ。コーヒーは天草のジジイからもらったモカ・マタリの味に似ているから、きっと高い豆に違いない。チョコと食べると確かにおいしさ倍増だ。疲れた時には一息入れるのがいいと、クラノスケも言っていたっけ。チョコレートの商品説明を読みながら、今度はカシス色のボンボンショコラをいただこうと、希空が視線をあげると、少しばかり羨ましそうな前川の目と合った。
「先生もどうぞ」と、希空が勧めたが、
「奥さんに止められてるので」 と、ぽっちゃり医師は残念そうに遠慮した。
「コーヒーとこのチョコ、あいますね。おいしいです」と希空が言うと、前川が「そうでしょう?」と嬉しそうに頷く。
「僕ね、医者を早めに卒業して奥さんと一緒にカフェをしようと話しているんですよ」
ぽっちゃり医師が夢見るような表情で言った。
「で、槇原先生は今日お休みなのに何を?」と質問された希空は、IVRの研修資料を作っていると答えると、ぽっちゃり医師は興味を持ったようで資料を見せてほしいと言う。それじゃあと、資料が入ったノートパソコンを希空が持って来ようとすると、僕がそこへ行きますよと、ぽっちゃり医師が机のそばにやってきた。すると、
「槇原先生、その引出し、どうしちゃんたんですか?」と笑い出した。3段目の引出しは床に置いたままだった。希空が、机の引出しが開かなくなって、この状況になったことを説明すると、
「槇原先生もカンペキじゃないってことですね。なんだか、親近感がわきました」と、ぽっちゃり医師が「よいしょ」と太目の体を折り曲げて、本来あるべき机の位置に引出しを戻してくれた。希空が礼を言うと、「これくらい、お任せください」と、前川は「よいしょっと」と言って立ち上がった。
「あれ?この雑誌」と、前川が手を伸ばした雑誌は希空が見つけた学内情報誌だ。
「先生もご存じなんですか?」
「はい。僕も学生の時、読んでました。久しぶりだなあ。どこでこれを?」どうやら、ぽっちゃり医師も希空と同じ大学出身らしい。
「机の引出しの奥に詰まってたんです。前にいらっしゃった先生のだと思うんですけど、ご存知ないですか?」と希空が聞く。
「ここ、佐久間准教授が使ってらっしゃいました」前川の声のトーンが少し落ちたので気になったが、「この方ですか?」と、希空が読んでいた記事の箇所を開いて准教授の顔を指すと、ぽっちゃり医師が頷いた。
「准教授はここで働いてらっしゃるんですね?じゃあ、この雑誌、お返しできますね」と、希空が言うと、
「こんなこと言っていいのか、わからないんですけど」
前川が、困った表情で言った。
「准教授、亡くなられたんです」
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