(5)10月5日(土)午前8時 東京
文字数 1,421文字
稲垣邦弘は上半身を起こすと、辺りの明るさに順応していない目を隠すため両手で顔を覆った。見慣れている景色なのに、今日は澄み渡った空が無機質な建築物を殊更に際立たせている。せっかくのトレッキング日和なのに今週も行けそうにない。
30代前半でも2日連続の徹夜はさすがに堪える。顔に当てた手のひらがザラザラした。そういえば、一昨日の朝からヒゲを剃っていない。濃い方ではないが、朝の忙しい時間帯のヒゲ剃りは煩わしい。いっそのこと、エステサロンで脱毛したいくらいだが、あいにくそんな時間はない。
家に帰ったのは3日前。とにかく時間が足りない。一人の検事が担当できる案件は限られているのに、情報通信技術の進化は事件をより複雑にして件数も増加させた。帳簿やデータ等の証拠品をチェックする「物読み」だって、過去と比較できないほどの専門知識が必要だ。勤務時間は必然的に長くなるが、超過勤務手当は支給されない。この状況は改善されるべきだろうが、気にしていなかった。A庁検事として大阪地方検察庁に2年在籍したあと、去年の4月に東京地方検察庁特別捜査部に異動となった。任官7年目で初めての大きな事件に関わろうとしている。
稲垣が手をつけようとしている案件は、多国籍企業の贈収賄事件だ。匿名で送られてきた告発文は、医療機器が絡んでいる可能性が高かった。受託収賄罪なら公務員7年以下、贈った側は3年以下の懲役だが、現時点では決定的な捜査ができない。相手が米国企業で国際捜査となるからだ。在米日本大使館に出向している先輩検事にも問い合わせてみたが、返答が来たのは「情報なし」だった。米国企業は、サンシャイン法で寄付や研究費や助成金等の一般開示が義務付けられていえる。この情報開示法には最大年間 100万ドルを超える罰金規定があり、病院関係者、教育研修医療機関も対象だ。だが、あくまでも米国内での行為に対する開示義務であり、日本国内の行為は範疇から外れる。日本法が適用されるからだ。しかし、我が国における医療機器企業向けガイドラインには法的な強制力はない。
告発文を送った人物とはその後、連絡がとれていない。相手は匿名で証拠を次に会ったときに渡すと記されていた。病院と医療機器業界の贈収賄事件から、政府高官を巻き込んでいると記されていた内容は、証拠が十分ではなかった。これだと、外為法違反で起訴するのが限度で、黒幕までは辿り着けないだろう。だが、こうしている今も、首謀者達は政界、財界、そして世界を巻き込んで自分達の利益のためだけに動いているのだろう。他人のことなんか、これっぽっちも考えずに。
検察の捜査能力は低下している。そう世間から言われて久しい。本来、我々には目指すべき方向を見失しなわず,公正誠実に真相を明らかにする使命がある。振り返ってみると、自分も「検察の理念」どおり職務に取り組んできたとは言えなかった。立件できる案件を上司からの圧力であきらめたことは一度や二度ではないし、出世を気にする先輩検事達の行き過ぎた行動も見てきた。それに耐えられず去って行く同僚もいたが、自分はそうしなかった。現状に不満はあるが、だからと言って他にやりたいことがないからだ。
家に帰ってシャワーをあびるかと、稲垣は伸びをしながら立ち上がった。
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