(5)9月30日(月)東京 21時30分
文字数 1,932文字
部長席の渡辺慧子は、机に肘をつけたままの左手で顎をささえ、入庁7年目の稲垣邦紘が広げた資料の中にある1枚の資料を、鷹揚に見つめていた。
1時間前、稲垣は自分のデスクからファイルを持ち上げると担当副部長の制止を振り切って、彼女のデスク前に立ちはだかると、この事件はロッキード事件を超えるくらい大きなものになると説明しだした。もっとも、ロッキード事件は彼が生まれる前の事件だが。
無言のままで15分が経過した。渡辺が時折、思い出したかのように右手の人差し指で机を一定の間隔でコツコツ叩くのが、稲垣の忍耐を侵食した。部長が承認しないならやめるまでだ。若手検事の彼には恐れというものがなかった。
稲垣が所属する東京地方検察庁特別捜査部 特殊直告班は、贈収賄、背任、横領等を主に担当している。稲垣は、日々入ってくる検察庁あて直接告訴(直告)からこの告発事件を取り上げた。表向きは贈収賄、背任のように見えているが、重大な事件が隠れている予感があった。この場合、権力の邪魔がはいることが多々ある。今回の捜査もそうなる恐れは十分にあった。
担当副部長である細川は不満げだ。渡辺のデスク近くに配置された応接セットの革張りソファに憮然として座っている。バーコードに似た髪をなでつけた地肌は怒りで赤くなっていた。通常は担当副部長の権限で捜査開始を決定するのだが、細川は、この案件は勝ち目がないと稲垣を止めようとした。よもや、稲垣が部長の部屋に直接乗り込んでこようとは思わなかったろう。まあ、出世を目指している検事なら普通はこんな事件には首をつっこまない。ひそかに検事総長を目指しているこの小心者の副部長が尻込みするのはあたりまえだ、と稲垣は思った。
稲垣は机の前に立ったままで渡辺の表情を窺っていたが、読み取れなかった。自分は学生時代ラグビーで体を鍛え、検事になってからは、果敢に取り組んできた。何としてもこの事件をあげたい。主任検事として動きたいのだが、担当副部長の許可がおりないとなると、渡辺の承認が必要なのだ。
渡辺は岡山大学法学部4年在学中に司法試験に合格、卒業と同時に司法研修所に入所して検察庁に入庁した。中央大学に一浪して入学し、司法試験に3年もかけた自分とは比べものにならない、と稲垣は思う。今回は焦るあまり、特捜部長を納得させる資料に穴があったらと不安になった。彼は自分を落ち着かせようと、渡辺の背後にある窓が映す大手町や有楽町の高層ビルが立ち並ぶ景色に目を移した。灯りの消えた窓が多くなったビルの上で、航空障害灯が瞬いている。今、何時なのだろうか、とふと思ったが、あえて腕時計を見ることはしなかった。
部長の沈黙はまだ続いている。
「部長?」
ついに我慢できなくなった稲垣は、視線を渡辺に戻した。無造作に一つにまとめている髪は白髪が最近少し増えたようだ。黒革のソファに身を沈めていた細川が身じろぎする。
「これ、」
渡辺が、A4の資料を親指と人差し指ではさんで持ち上げると顔をあげた。
「首謀者特定が難しいと思うんだけど」
告発者が送ったデータだけでも確かに大きな事件だが、その裏にあるのは巨大な黒幕だ。この資料からは首謀者は特定できていない。あげられるのはせいぜい背任だ。
「物証、あげられる?自信ある?」
「はい」稲垣は、大きく頷いたあとに渡辺の視線を捉えた。「協力者が次の証拠を渡すと言ってます」
「それ、いつ?」
「これが受理されたら」受理されなければ、告発者はマスコミに流すかもしれない。部長からどんな返事がくるのか緊張する。
ふうん、と渡辺は頷くと、
「じゃあ、やってみよう」と、あっけらかんと言った。
「担当部長もよろしくサポートしてやって」と細川に声をかけてから、「ただし、」と稲垣に向き直った。
「筋読みは間違えないで。潰されるよ」
稲垣は責任の重さを感じて顔がこわばった。今さらだが、もし、失敗したときは・・・
「ま、そのときゃお互い、ヤメ検するしかないと思わないとね」
稲垣の心情を代弁したように渡辺はにかっと笑うと、すぐに真顔になって付け加えた。
「三流マスコミには気をつけて」
これが筋読みどおりだとしたら大変なことになるだろう。だが、困難が待ち受けていることも渡辺はわかっていた。まあ、それもコイツの勉強になるか。渡辺もかつて稲垣のように情熱を持って難事件を追っていたことを思い出した。「若さ」というものは「無理」ということを知らないものだ。
「ありがとうございます!」
稲垣が嬉しそうに頭を下げた。
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