エピローグ

文字数 699文字

 アエロフロートの機内から、サルキアに来た時と同じようにシベリアの景色が見えた。黒と緑の世界に点在する無数の湖畔に、大地を這う龍のような幾筋もの川。人類の営みと全く関係なく続く世界が、変らずそこにはあった。僕が1年前に同じ景色を見た時と何も変わらぬ大地が、そこに存在していた。その荒涼たる光景を見下ろしていると、僕はタニアがもう傍にいないことを、改めて感じた。そしてもう、一生会うこともないであろうことも、理解していた。
 また眠気が襲ってきた。最後にタニアに飲まされた薬と、機内で立て続けに飲んだウォッカが僕の意識をかき回し、脳の回転を止め、まどろませていた。腕の痛みすら感じず、半ば浮き上がるような感覚で、僕は機内のシートに座っていた。眠りに落ちそうになる瞬間、僕はタニアと過ごしたサルキアの時間を思い出そうとした。そしてつい昨夜日本で暮らすことを夢想し、交し合った言葉を一つ一つ、思い出そうとした。目をつぶればタニアの笑顔や、泣き顔が浮かんできた。鼻声までも耳によみがえるほどだった。しかしその顔が浮かんでは消え、声は聞こえては遠くなり、最後に見た後ろ姿は薄れていった。

 手を伸ばしても届かないと分かっていながら、僕はその景色の中で、タニアに向かって両手を伸ばした。タニアの背中にかかる黒髪をかすめたような、感触があった。それでもタニアはこちらを振り返らなかった。マクシミセス、という声だけがおぼろげに聞こえた。気づけば、何者かはまた僕の後ろに立っていた。僕は観念し、背中をつかまれる前に、大きく足を蹴って、後ろへと飛んだ。深く、深く、誰の手も届かないところまで。
それから僕は目を閉じた。(完)
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