サルキア(カスミア)・・・

文字数 4,684文字

 飛行機が日本海を越え、ロシア領土に入った。しばらくは緑や茶色の耕地の景色が眼下に広がっていた。しかし時間が経つに吊れ、その景色は次第に白い部分が増え、気づけば真っ青な空の下に凍りついたシベリアの大地へと変っていった。地表に無数の湖畔が浮かび上がり、幾筋もの川が蛇や龍の様に大地を蛇行していた。地球の誕生以来、人が踏み入れた事のないと思われる景色が眼下に広がっていた。僕はスチュワーデスが作ってくれたブラディマリーを飲みながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。タニアは少し離れた座席に座り、眠っているようだった。僕は今回の退職から、タニアやアニヤとの出会い、友人や家族との別れのことなどをぼんやりと思い返した。この数ヶ月、数週間に起きたことが、何年も昔のことのように感じた。それこそつい数時間前までの日本での時間が、なんだか現実感の無い、古い夢のような時間に思えた。少し気分が落ち込みそうになったので、僕はリュックの中からタニアにもらったA4のサルキア基礎情報を読み返した。
「地理的にはロシアと中央アジア、コーカサス諸国に囲まれた地域に位置しており、かつてはソビエト連邦の一国であったため、今もロシアとの結びつきが強い。元来はギリシア正教圏であったが、社会主義革命を経て教会の影響力は弱まり現在では無宗教の人が多い。首都はカスミア。政治や経済、文化の中心地である。主要な産業は農業と鉱業。特に鉱業分野ではレアメタルが近年発掘され、貿易で利益を上げている。国の総人口は1000万人。その大多数が農業と工業等の第一産業に従事している。治安は全国的に良く、外国人にも危険は少ない・・・」
 特別魅力的な国とはいえないが、まあありがちな小国の雰囲気である。一方インターネットで自分で調べた情報では、こんな情報があった。
「友好国であるロシアや中国とのレアメタル貿易で近年経済成長を遂げているサルキアだが、国民全体の暮らしは決して裕福ではなく、生活レベルは後進国といえる。一方で首都であるカスミアの富裕層は豊かな生活水準を維持しており、年々一部の人々に富が集中する傾向にある。そのため農民や鉱山労働者が東欧、中央に亡命するケースも多く、カスミア政府も人口流出対策に頭を痛めている・・・」
 あまり充分とはいえない情報を咀嚼しながら、そしてこれから始まる異国での生活に対し依然として漠としたイメージを抱きながら、機上の時間は過ぎて行った。時折まどろみ、覚えていないこまごまとした夢を見た。そうしてトータル10時間のフライトは思いのほか早く完了し、僕は無事モスクワ空港に到着した。その後トランジットを経て、我々は定刻通りにサルキアのカスミア首都国際空港へ到着した。

 カスミアの空港はいかにも旧共産圏といった風情で、照明は暗く、人はまばらだった。イミグレーションも予想通り無愛想で機械的なものであった。乗降客も少ないようで、国際空港というより日本のさびれた地方空港といった印象を覚えた。無事荷物の引き取りも済ませ、僕らは迎えの車に乗り込んだ。我々を出迎えてくれた中年の男性ドライバーもタニアやアニヤのような薄い白人の風貌をしていた。ぱっと見は欧米人のように見えないこともなかったが、決定的に違うのは日本では滅多にお目にかからないようなくたびれた半袖のシャツを着ていたこと、そしてそのシャツに負けないくらい粗末な帽子を頭に載せていたことであった。タニアが紹介してくれるとドライバーは帽子を取って僕に手を差し出した。僕も手を差し出し、何かサルキア語で挨拶しようと思ったが、自分がさよならの挨拶しか知らない事に気付き、ただ笑顔でその手を握るしかなかった。

 車はカスミア市街に向かって出発した。窓の外には原野なのか畑なのか区別のつかない、初めて目にするサルキアの大地が広がっていた。空は青く、雲が日本で見るよりも低く浮かんでおり、窓から吹き込む風は乾燥していた。
「いかがですか、サルキアは?」助手席の窓からの風を受けながら、タニアが僕に尋ねた。
「なんか、広々してるね。モンゴルみたいだ」僕は後部座席からそう答え、その後に「行ったことないけど」と付け加えた。
「サルキアの夏は暑いんですよ。乾燥しているし、結構、大変な季節です」そういう言葉とは裏腹に楽しそうな様子でタニアが説明してくれた。
「タニアさんは久々に帰ってきたの?」僕が尋ねた。
「はい、ちょうど一年ぶりです」タニアが答えた。その声は明らかに帰国を喜ぶ調子で、弾んでいた。
 途中、空港から少し走ったところで突然車の渋滞と、人々の群れに出くわした。ドライバーが舌打ちをして車を減速させた。よく見ると車に混じって徒歩やリヤカーの人達もいた。どの人も一様に暗い色のすすけたような背広やシャツを着ていた。
「この渋滞は何?」僕がタニアに尋ねた。
「この先にロシアとの国境があるんです。この人達は、皆東欧の工場に働きに行く出稼ぎの人です」とタニアは答えた。
「へえ、出稼ぎの人たちがいるんだ」
「そうですね、最近多いです」タニアの声が少し曇った。

 やがてあたりは人の手の入った農地が見え始めた。また既に刈り取りを終えた畑では牛があたりを歩き回っていて、その背には日本では見たことのない、くちばしの長い白い鳥が止まっていた。これも僕がはじめて見る光景だった。
 次に目にしたのは巨大な採掘場だった。真四角に切り崩された山に巨大なクレーンがそびえ立ち、ブルドーザーや建機が無造作に停められ、埃っぽい作業場を労働者が行き交っていた。また山のふもとにはいくつものトンネルが黒い口をあけているのが見えた。これが例のレアメタル鉱山かと見当をつけ、タニアに聞いてみた。
「そうです。わが国の多くの労働者は農場か、鉱山で働いています。みなそれぞれの職場で国に貢献しているのです」とタニアは誇らしげに答えた。
 途中鉱山の労働者を満載にしたトラックと何台かすれ違った。祖国に貢献する彼らの顔は無表情だった。映画で見るような光景だったが、実際に見るのは初めてだった。しばらくして、軽く寒気を覚えた。それから工場のような建物が目に付くようになり、続いて集合住宅が増えてきた。どの建物も低い造りで、壁はひび割れた灰色。僕が子供の頃に住んでいた社宅が廃墟になってしまったような光景だった。しかしそれらの路地や中庭にはちゃんと住民達の姿が見えた。男達は中肉中背で、みな黒っぽい服を着ていた。女達は恰幅のいい女性が目立った。あたりを走り回る子供達の姿も見かけた。男の子は坊主かスポーツ刈、女の子はおかっぱといった、懐かしいスタイルの子が多かった。中には上半身裸で遊んでいる子供もいた。車はやがて市街地に入った。ただ市街地とはいっても高い建物や東京で見るような近代的なビルは殆どなく、先ほどのアパートのような建物か、もしくは平屋作りの商店や住宅が並んでいた。信号待ちで止まっていると、横に馬車が止まった。くたびれた様子の老馬が御者と客車を引っ張っていた。僕は現役の馬車を見るのは初めてだったので、少し驚いた。またそれは荷物を運ぶための馬車ではなく、後ろの客車にはそして客車には家族連れと思しき団体がすし詰めで乗っていた。みな馬に負けないぐらいくたびれた様子だった。僕はそのうちの一人の男性と窓越しに目が合い、慌てて目をそらした。
「馬車ですね。サルキアでは良く使います」僕の驚きを察したタニアが説明してくれた。「タクシーもありますが、庶民には高価ですから」
「なるほどね。でもエコでいいかもね」車が走り出し、馬車の客達は後方に消えた。
「なんか、僕が今までに行ったどの国とも雰囲気が違うよ」と僕は言った。いささか、想像以上の非日常的な世界に面食らっていた。
「そうですか、じゃあ、願いが叶ったのではないですか」タニアが答えた。
「願い?」僕は聞き返した。
「見たこともないような世界を見たいとおっしゃってたじゃないですか」
「確かにね」僕は答えた。

 あたりが暮れ始めた頃、我々の車は街の中心部に入り、城壁のような壁に突き当たった。バンは壁沿いに進み、兵士が立っている門で止まった。ドライバーが車から降りて兵士に何やら書類を見せた。少し時間がかかり、途中タニアも降りて説明に加わった。兵士はしばらく何かを行っていたが、突然バンに乗り込んできて、僕の前に立ち、サルキア語で何かを質問した。当然僕は何も答えられずに座っていたが、タニアがまた何かを説明し、兵士はようやく納得した様子で門を開けた。
「びっくりしたよ。突然兵隊さんが入ってきたから」僕は言った。
「この城門を抜けるとカスミア市街です」とタニアが言った。
「カスミアは中世から城壁で都市と農村を隔ててきました。今でもその区分は生きており、その間の通り抜けは警備が厳重なのです。また本市街はカスミアの中心なので今まで景浦さんがご覧になった景色とは大分異なるでしょう」
 確かに門をくぐってからは街並みも大分整理された様子になってきた。建物も新しくは無かったが、先ほど見たような粗末なものではなかった。ところどころに公園のような緑地も見えてきて、レンガ造りの建物とあわせて落ち着いた風情をかもし出していた。
「このあたりは、なんかヨーロッパみたいだね」と僕は言った。
「その通りです。カスミアは18世紀に当時の皇帝がヨーロッパ留学から戻り、北欧やドイツの街をモデルに作られた街ですので」とタニアが答えた。途中大きな公園の横を走り、車からは深い森と湖が見えた。それから古い建物をそのまま利用したデパートやホテルなどの並んだ繁華街らしき区域を通り過ぎたところで、白樺の並木と立派な建物が立ち並ぶエリアに入った。道路と平行して大きな運河、そして路面電車が並行して走っていた。
「ここは『政府街』です。サルキアの政府機関や外国の大使館などが集まっています。景浦さんはこの地区の政府公務員宿舎に住んで頂きます」タニアがまた説明した。車は大通りをそれて細い路地に入り、それからしばらく右折や左折を繰り返したところで、赤と白のレンガ造り建物の前で止まった。
「景浦さん、お疲れ様でした。到着です」
 タニアが助手席から振り返ってそう言った。時刻は夜の7時を回っていた。僕の時計は朝の5時を示していた。成田を出発して20時間以上が経った計算になる。僕は車から降り、大きく深呼吸をした。それから大きく伸びをしながら「ついに来たな」と一人で呟いた。昨日まで全く関係の無かった異国の街角に、僕は立っていた。今まで見たことも無い人達が、聞いた事も無い言葉を話しながら目の前を通り過ぎる。所々に見える商店のような建物にはアルファベットのようなキリル文字のような、見たことのない字の看板がかかっていた。僕はそれらの風景を眺めながら、眠気と興奮、そして緊張の入り混じった不思議な感情がこみ上げてくるのを感じていた。久しく感じたことの無い、少し笑いが出てしまうような感覚だった。ドライバーがスーツケースを僕に手渡してくれた。「ありがとう」と言おうとして、また言葉がわからないことに気づき、仕方なく「サンキュー」といって手を差し出した。ドライバーはまた帽子を取って僕の手を握った。深い皺が刻まれたには日本ではしばらく見たことのないような、素朴な笑顔が浮かんでいた。
「景浦さん、行きましょう。ここがこれからの景浦さんの住まいです」タニアが言った。
「了解です」そう言って僕はスーツケースを引きずり、タニアの後に続いた。
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