さよならにっぽん・・・

文字数 2,003文字

 いくら現実味がないとはいえ、確実に2週間後はやってくる。僕はひとまず日本を離れるための身辺整理に取り掛かった。一番気がかりだったのは部屋の引き払いだった。2週間前に突然退去の申請をして違約金などを請求されたらどうしようと悩んでいたが、その心配は杞憂に終わった。大家は失業による家賃の延滞を危惧してか、すんなりと退去を受け入れたのだ。それから水道やガス、電気を止める手続きを済ませ、締めくくりに杉並区役所へ行って住民票を抜いた。海外転居の届けは想像以上にあっさりと済み、拍子抜けした。僕の戸籍謄本には横浜市から東京都杉並区に転入という記述に「サルキア国カスミア市へ転居」という記述が加わり、その下は空欄となった。これで僕の住所はもう日本には存在しない。今現在自分が日本のどこにいるという公式な記録はなくなってしまったわけだ。

 報酬はアニヤとの最終面接の日から丁度1週間後に振り込まれていた。それを僕は自宅近くのセブンイレブンのATMで確認した。金額はきっかり50万円。とりあえずこれで最近のキャッシングのローンは返せる。そう考えると重い荷物をようやく降ろしたような気分になり、僕は心の底からほっとし、店内で安堵のため息をもらした。
 現金はキャッシングの分を差し引いても残る計算だが、サルキア生活の準備については、住む所は用意してくれているということなので、考えてみるとそれほど準備するものはなかった。医療についても、先日送られてきた「交流大使任命書」の注意事項の欄に「無料で政府機関の病院の利用が可能」とあったので海外旅行保険に入る必要もなさそうだった。
任命書の裏には保険会社の約款のような内容が細々と書かれていた。インターネット通信や郵便については「通信状況により変動あり」という記述があった。恐らくあまり期待できないという意味であろうと理解した。また「国内外への移動」という項目では、任期中はサルキアより出国できない旨が書かれていた。また「天変地異、政治的変動」の項目では「有事の際はサルキア国により身柄及び安全を保障される」と書かれていたので一安心した。ただしサルキア国には常設されている日本の大使館や領事館が無く、モスクワの日本大使館が管轄しているといる点に一抹の不安を覚えたが、今回もモスクワ経由でサルキア入りする予定であるため、いざとなればロシアに行けばよいと自分を納得させた。

 唯一サルキア行きに備えて特別に買ったものは、防寒具である。サルキアの地理関係をまだ把握していなかったが、ロシアの近くということは寒い事は間違いない。しかしこの真夏に冬物の防寒具などあるのかと不安になったが、新宿のビクトリアで無事毛皮の着いた頑丈そうなパタゴニアのダウンジャケットを見つけることが出来た。
「どちらまで登りにいかれるんですか?」と小太りの女性店員が僕に尋ねた。山ではないが、とても寒い国に行くんですと答えた。
「それなら保温用のタイツも必ず持って行ったほうがいいです」インナーとアウターで重ね着をする上半身に比べ、普段パンツとズボンしか履かない下半身は無防備すぎる。特にトランクスを履いていると冷気が睾丸にも悪影響を及ぼし、不妊症の原因にもなると女性店員は真顔で説明した。僕は実際トランクス派だったので未体験の寒さが怖くなり、進められるまま2枚のタイツも買った。また荷物を運ぶための大きな登山用のリュックも買った。
「寒い国って、ヨーロッパとかアラスカとかですか?」バーコードを読み取りながら店員が尋ねた。
「ヨーロッパと言うか、アジアと言うか、その真ん中辺りなんです」僕は答えた。
「どれくらい行かれるんですか?」と店員は言った。
「1年ぐらいです」と僕は言った。
「お仕事ですか」
「ええ、まあ」
「いいなあ、私外国行った事ないんですよ。実はアラスカにすごい登ってみたい山があって、いつか行ってみたいと思ってるんですけど」商品を袋に入れながら彼女は言った。
「アラスカですか、すごいですね」と僕は言った。
「でもそんなに長い間仕事休めないし、第一お金も無いから、お客さんみたいに外国に仕事でいける人とかすごい羨ましいです」
「いや、そんな。でもいつかチャンスがあるんじゃないですか」
「あるのかなー、全然具体的じゃないですけど、まあただの夢なんで・・・はい、こちら商品になります。ありがとうございました」
 アラスカ行きの夢を語る彼女の顔は先程男性の冷えの恐ろしさを説いた時よりも幾分明るく、若く見えた。
 そうして僕は出発までの数日間、冷蔵庫もテレビもベッドも無い部屋で、タオルケット一枚に包まり床の上で寝た。梅雨明け間もない夏の夜は何日かは涼しい夜もあり、早速パタゴニアのダウンジャケットが活躍した。公園では昼間から小学生の喚声が響いていた。日に日に夏の日差しと匂いが強く、濃くなる中、日本を立つ日は刻々と迫っていた。
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