マクシミセス

文字数 1,585文字

 面接から数日経ち、しばらく天気のはっきりしない日が続いた。他の就職活動の進展もなく、再び僕は6畳間のリビングに沈みこんでいた。サルキア行きの件もほぼ諦め、横浜の実家で暮らすことを考え始めた頃、アニヤから携帯に連絡があった。いつもの通り午後まで寝ていた僕は半分寝ぼけたまま携帯を取り、相手がアニヤと気づくまでしばらく時間が掛かった。
「厳正なる審査の結果、景浦さんが今回の交流大使に選ばれましたので、ご連絡いたします」
 あまりにも淡々とした口調だったので、僕は夢の続きかと思ったほどだが、慌てて礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「おめでとうございます。それでは、条件をもう一度確認させて頂きますね。」アニヤは続けた。
「交流大使の任期は1年間。報酬は日本円で100万円。職種は日本に関する『文化交流大使』。  現地での住居と食事、医療、ビザ等については当方で手配いたします。また任地への移動につきましてもこちらで負担いたします。何かご質問はありますか?」
僕の頭はまだ眠気と、そして意外な結果の驚きに支配されていたが、辛うじて頭を整理して尋ねた。
「あの、報酬の件なんですが、これはどうなんでしょうか、やはり任期を終えてからの支払いとなるんでしょうか?」
「支度金として半額の50万円を赴任前に、それから任期終了後に残りの50万をお支払いします。また既にご存知と思いますが、現地での生活については大使の手当が支給されます」アニヤが答えた。
「あ、ありがとうございます」僕は再び礼を言った。
「それでは出発期日ですが、本日から2週間後でよろしいでしょうか?」とアニヤが言った。
「2週間後ですか」僕は咄嗟にアパートの引き払いの事を考えて少しためらったが、時期を延ばすとこの話も流れてしまいそうなのが怖くて「大丈夫です」と答えた。
「出発は成田空港です。ただしサルキアへの直行便はありません。アエロフロート便でロシアに入り、そこから乗り継ぎでサルキアの首都カスミアに向かいます。出発当日はアエロフロートのカウンターでタニアがお待ちしています。何か不明な点があれば彼女の携帯までご連絡ください。番号はご存知ですよね」
「はい、先日頂いています」と僕は答えた。
「結構、そこに書いているはずです。それでは当日はお気をつけてお越しください」そう言ってアニヤが電話を切りそうになったので僕はあわてて尋ねた。「すいません、あの」
「何か」とアニヤは言った。
「交流大使になるにあたって、何か準備する事はありますか。資料とか・・・」
「特に必要ありません。日本について、ご自身の見解を確認しておいていただければ、それで結構です」事務的な口調でアニヤは答えた。
「あの、私、歴史とか政治とか、特別に詳しいほうではないのですが、大丈夫でしょうか」
「政治や歴史、民俗学については以前お招きした講師の方にご教授いただいております。景浦さんは現在の日本について、ご自身の感じてらっしゃる事を、そのまま伝えていただければそれで結構です」とアニヤがは言った。
「わかりました・・・」と僕は言った。
「では後日任命書をお送りしますので、内容をご確認ください。それでは失礼します。マクシミセス」
「了解です。失礼します」

 電話を切った後、しばらくベッドに座ったまま状況の理解に努めようとした。しかし1Kのこのアパートにいる自分が2週間後、誰も知らないような中央アジアだかロシアだかの異国に旅立っている姿はとても想像が付かなかった。そして自分が日本の姿を伝える交流大使になることも、想像できなかった。もっともあのサルキア人の女性と再び会うことすら、現実的には受け止められなかった。それからアニヤが電話を切るときにタニアと同じ挨拶をした事に気付き、ふとあのパーティの夜を思い出し、何か久しく忘れていた甘酸っぱい感情が胸に広がるのを感じた。
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