友との別れ・・・

文字数 3,569文字

 出発の日が近づき、僕は大学時代からの友人である上本に別れを告げるべく連絡を取った。大手商社に勤める上本は大抵忙しく、平日はめったに時間が取れなかったのだが、最近は比較的ヒマだということで早い時間から新宿で合流した。僕達が別れの席に選んだのは歌舞伎町近くのチェーンの居酒屋である。平日という事もあり客は多くなく、店員のアルバイト達もドリンクサーバーの付近でお喋りをしているような平和な夏の夜だった。我々は初めから最後までビールを飲み、何度も別れの乾杯を交わした。
「日本脱出おめでとう」上本は乾杯の度にそう言った
「ありがとう」僕もジョッキを合わせながらそう答えた。
 上本は大学からの友人である。高校時代に花園にも出場した事のあるラガーマンで、人生に情熱を持ち、絶えず前と外を向いて生きている男だった。そんな男が何故僕のような、どちらかといえば内を見て、ともすれば後ろも向く人間と長く付き合っているのか不思議だったが、卒業から10年、年々付き合いが薄くなっていく大学の仲間の中で、唯一定期的に連絡をとっている間柄である。
「本当、お前は正しい判断をしたよ」上本が言った。「今の時代、日本にいても何もプラスになることはない。というか、マイナスにならないように頑張るだけで、もう一杯一杯だからな。しばらく外国に疎開してたほうがいいぞ。何年行くんだっけ?2年?3年か?」
「そんな長くない。1年だけだよ」と僕は答えた。
「1年か、そりゃ短いな。しばらく日本の景気は回復しないぜ。求人も無いだろうし、できるだけ長く逃げてたほうがいいぞ」
「逃げるって、何から逃げるんだよ」僕は笑いながら言った。
「閉塞感からだよ」上本は真面目な顔で言った。「本当、このまま日本で暮らしててもロクなことがない。ずっとこんな社会で暮らしてたら、縮んだ猿みたいになっちまうよ」
「なんだ、縮んだサルって」僕は言った。
「なんか背筋が丸まってさ、何かにいつもビクビクキョロキョロしてて、なーんか、ちっちゃく縮こまってるような奴、いない?お前の周りに」
 上本にそう言われて僕は前職の上司を思い出した。肩書きはあるものの、確かにいつも何かに追いかけられているような不安感と、何かを根本的なものを諦めてしまったような諦念が背中から漂っているような人だった。
「うん、いるかもな」そう言って僕はビールをもう一口飲んだ。
「まあもちろん俺達も霊長類で、猿の仲間には変わりないんだけど、同じ猿でもさ、もっとアグレッシブに行きたいだろう。もっと元気よくさ・・・ほら、覚えてるか?日光で、車に入ってきた猿」上本が僕に尋ねた。
「あいつか、あいつは、確かにアグレッシブだった」僕は少し吹き出しながら答えた。

 大学4年の時、後輩の女の子と、その友達の子と我々でドライブで行った時の話だ。秋の紅葉と華厳の滝と宇都宮の餃子がそのドライブの目的だったが、実際は上本が後輩の方の、読者モデル風の梓ちゃんという子を気に入っていて、更なる関係の発展を期待してセッティングされた小旅行だった。梓ちゃんも上本のことが満更ではないらしく、道中助手席に座り、上本が何か冗談を言う度に読者モデル的な笑い声を上げていた。一方梓ちゃんの友人である、前髪を斜めに切りそろえた専門学校生はあまり友好的な様子はなく、僕が何か話しかけても言葉少なく返事をするだけだった。また僕が一度「その髪型面白いね」と言ったら更に機嫌が悪くなり、それ以後ずっと窓の外を見ていた。
 いろは坂のカーブを越え、華厳の滝近くの駐車場に到着した時にその猿は現れた。上本がうかつにも運転席のドアを開けっぱなしにしながらトランクの荷物を取りに行ったのだ。車内に侵入してきた黄金色の意外と大きい物体を見て、女性達は悲鳴を上げてすぐさま車外へ脱出した。車内に残された僕と猿は一瞬互いの顔を見つめ合っていたが、次の瞬間猿は梓ちゃんのヴィトンのポーチを掴んで飛び出した。梓ちゃんが「私のポーチ!」と叫ぶと同時に駐車場で上本の体が飛んだ。フランカーが本職の上本らしい、疾走するウィングの足首に後ろから飛び込むような、ためらいの無いタックルだった。
 猿から取り返したカラフルなポーチと、アスファルトへのダイブでこしらえた顔の擦り傷が功を奏し、二人はドライブの後交際を始めた。(一方専門学校の女の子は小さい頃に猿に追いかけられた経験があったとのことで、更に無口に、不機嫌な顔になった)
しかしそんなドラマで始まった彼らの恋も、他の多くのカップルと同様、大学卒業後しばらくして終わってしまった。あの時10代だった梓ちゃんも、今では30間近の女性となってどこかで 暮らしているはずだ。そんな事実は、少し想像がつかない。一方上本は同じ会社の事務職の女の子と結婚し、4歳になる女の子がいる。
 上本は一しきり臆病なサルと日本の閉塞感について熱く語っていたが、またジョッキを持ち上げて言った。
「まあいいや、とにかく今日は船出の祝いだ。なんだっけ、お前が行く国、サマルトリア?」
「サルキア」僕は訂正した。
「そう、この終わりつつある日本を捨て、サルキアへと脱出する景浦裕太に乾杯!」
「ありがとう、行ってまいります」
 僕もそう答え、我々は再び乾杯をした。

 少しビールのペースも落ちてきたところで、上本がぽつりと言った。
「実は俺もさ、名古屋に行くかもしれないんだ」
「へえ、転勤?」僕は訊いた。
「まあ、なんていうか、子会社に行くんだけど」上本がどことなくバツが悪そうに答えた。「いや、いまうちの会社も景気悪いからさ、結構リストラとかやってるんだよ。まあ俺達の世代はまだ大丈夫だけど、ただな、結構給料とか、うちの会社いいからさ、それが結構負担になるんだよ」
「うん」僕は上本が最近購入したという都心のマンションを思い浮かべて相槌を打った。
「社員をみんな本社で雇ってると人件費もバカにならないから、まあ何人かは子会社に行くわけよ」上本が続けた。
「じゃあ、出向ってことか。都落ちだな」僕は努めて軽い調子で言った。
「まあ平たく言えばな。もちろん転職とかも考えて、ラグビー部の先輩とか、知り合いとかにも口聞いてもらったんだけどな、やっぱりただの営業だとなかなかツブシきかないんだよな。まあ家も買ったばっかだし、それに来年二人目も生まれるから、まああまり冒険してる場合じゃないってことでな。」
 上本は東京生まれの東京育ち。生まれてからよその土地で暮らした事はないはずだ。上本の奥さんも確か東京出身で、将来は自分の子供も自分が通った有名な私立の女子高に進ませたいと語っていた記憶がある。
「まあ環境を変えるのも悪くないと思ってさ」上本は手元のおしぼりをいじくりながらそう言った。
「いつか本社に戻れるかもしれないんだろ」僕は訊いた。
「まあ、な。可能性は無くは、ない」上本は少し小さな声で答えた。おしぼりの角をあわせながら話す上本の姿は、確かに大学時代の親友の姿だった。それと同時に、居酒屋で古い友人に左遷の報告をする30過ぎの男の姿でもあった。
「まあ、お前もいなくなるんなら、ちょうどいいよ。お互い新生活ってことで頑張ろうぜ」と僕は言った。
「そうだな」と上本も言った。
「男31才、人生これからだ。前向きに行こうぜ」
「その通りだ。お前が言うと似合わないけど」そう言って上本はようやく笑顔を見せた。家族を養う使命感を持ち、不可避の人事異動と、現代の日本の閉塞感と戦う男の笑みだった。僕達はもう一度ジョッキを合わせ、最後の乾杯をした。

 上本と別れた新宿からの帰り道、山手線の車内で酔っ払った大学生のサークルに出くわした。その中の一人が仲間に囃し立てられ、つり革を使って懸垂をしようとしていた。その姿を残業帰りのサラリーマン達が苦々しい目で眺めていたが特に注意する者はいなかった。その風景を見ていて、今度は上本と二人で行った夏の雨の海を思い出した。一緒にやったバイトの夜勤明けに、そのまま上本の車で鎌倉の海に出かけたことがあった。徹夜明けの我々は海に到着しただけで興奮し、浜辺を走り回り、訳の分からないことを叫んで笑いあった。雨の降る平日の午前の由比ガ浜は人もまばらで、それがますます僕達を解放的な気分にさせた。砂浜で遊ぶのに飽きると、僕達は誰もいない海に向かって走り出し、洋服のまま飛び込んだ。灰色の空と海と、雨の中、自分達がとても愉快な事をしているという気分だった。浜辺からは雨の中犬を散歩をさせている住民や、傘を差して寄り添うカップル達が、愚かな二人の学生を眺めていた。我々にとって観客はそれだけで十分だった。
 僕達はこんなに自由で、楽しいことをやっています。何も、怖いものはありません。
 そんなことを、僕たちは言いたかったのだと思う。
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