黒い妖精の代母との出会い・・・

文字数 3,595文字

 彼女が僕に日本語で話しかけてきた時、僕は素直に驚いた。何故ならタニアは顔立ちもスタイルも、明らかに日本人とは異なる、東洋人と欧米人の中間のような容姿をしていたからである。
「こちらの卒業生の方でしょうか」と彼女は言った。
「はい、そうですが」と僕は答えた。
「私が日本語を話せるので驚きましたか?」
 彼女は僕の動揺に気づき、笑いながら言った。僕は正直に認めた。
「そうですよね、外人が日本語話すのは似合わないから、無理は無いです」そう言って彼女は名刺を取り出し、僕に渡した。
「サルキア文化交流基金のタニア・ラムダ・ハンセルと申します」
「タニア・ラムダ・ハンセルさん」僕は名刺を見ながら繰り返した。
「タニアで結構です。それが私のファーストネームです」とタニアは言った。それからタニアが辺りを見回して「すごい沢山の人ですね」と言った
「ええ、現役の学生とOBが集まってますから」と僕は言った。
 ファーストインパクトの動揺から落ち着いて見ると、タニアは実に美しい顔をしていた。一般的な欧米人とは異なる、まるで日本人と欧米人のハーフのような顔立ちだった。年齢は僕と同じか、少し下に見えた。タニアは上下黒のパンツスーツに、耳を少し隠す程度の黒髪、黒のキャミソール、黒のハイヒールと、まさしく黒づくめという格好をしていた。ヴォネガット風に言えば「黒い妖精の代母」というところだろう。危うくタニアの顔に見とれてしまいそうになったので、僕も自己紹介をした。
「すいません、私は名刺が無いのですが、景浦裕太と申します。宮田教授のゼミを取っていました」
「こういった大学のパーティにはよくいらっしゃるのですか?」タニアの言葉は日本語の流暢な外国人のアクセントだった。
「いや、初めてです。現在失業中でして、職のツテを探しに来たのですが、空振りでした。なので、今は一人で飲んで酔っ払っているところです」
 僕が初対面の相手に何故そんな事を言ったのか分からない。美しいハーフのような女性と知り合いになり、心が浮かれていたのか、それまで呷っていたビールが回り始めたのか、おそらくその両方だったのだろう。学生のボランティアが飲み物のトレイを持ってきて、僕はビールを、タニアはワインを取った。それからしばらく我々は話をした。
 話題は主にタニアの母国であるサルキアという国についてであった。僕はヨーロッパとアジアとイスラムの中間に位置するというその国を全く知らなかったし、特に興味も無かったが、タニアと話すのは楽しかったので話を続けた。大学で民俗学を専攻していたのが幸いし、ラテンとかスラブとかワスプといった単語で会話を持たせる事ができた。彼女の属するサルキア交流基金とは、外国人の人材をリクルートする機関であり、彼女はその日本支部の職員という事だった。日本に来たのは1年前。初めての来日だが、毎日新鮮で楽しいとタニアは笑った。
「外国人のリクルートって、何のことですか」僕は尋ねた。
「それは私どもの最も重要なミッションになります」途端にタニアの口調が真剣味を帯びた。
「現在のサルキアは当然日本やアメリカ、EU諸国と比べると後進国です。それだけに経済、政治の交流だけでなく、人的かつ文化交流を必要としているわけです。ただ社会のモデルや産業技術を模倣するだけでなく、先進国としての価値観やウェイ・オブ・シンキング、つまりモノの考え方を理解する事が、わが国の発展には不可欠と考えています。そういうものは非常に皮膚的というか感覚的なものですので、書物や映像などで学べるものではありません。また例え我々が他国に留学しても簡単に身につくものではありません。やはりその国のネイティブの方に実際にサルキアにお越し頂き、伝えて頂くことが最も大切なのです」タニアはそこまで話し、ようやく言葉を切った。
「じゃあ、教授とか、講師とかそういう人を募集しているんですか?」と僕は尋ねた。
「はい、実際にしていただく任務はそのようなものですが、私どもでは『交流大使』と呼んでいます」とタニアが答えた。
「その大使になるのに何か資格は要るんですか?」
「特別に必要な資格はありませんが、最低限の英語能力は必要です。あとは肉体的、精神的に健康である事、自国の文化についてきちんと語ること、そして何よりサルキアについて強い関心を持ってらっしゃることです」
「でも誰でもいいって事はないでしょう。例えば、年齢制限とか」僕はもう少し突っ込んで聞いてみた。
「そうですね、年齢制限はあります。現在の規定では23歳以上、35歳以下の方にお願いしています」とタニアは言った。 再び学生が飲み物のトレイを持ってきた。僕は既にかなり酔いが回っていたが構わずビールのグラスを取った。
「あの、それはボランティアですか?それとも、待遇とかは、つまりあの報酬的なものはついてるんでしょうか」
 僕は相手に悟られない程度の期待を込めて、少し小さな声で尋ねた。タニアは快活な調子で答えた。
「もちろんございます。1年の期間に対して100万円です。また現地での生活費については現地通貨で大使手当が支給されますので、一般的な生活をされている限りはご自身の負担はないと考えていただいて結構です。」
 僕は酔った頭の中で100万という言葉を繰り返した。キャッシングの借金を返して、それでも充分にお釣りが来る金額である。ただしそれがいつもらえるかが問題だ。前払いでもいくらかもらえるのだろうか・・・。
「景浦さんは、当面就職のご予定はないのでしょうか」
 考え事の途中で質問をされ、僕は言葉に詰まった。「ええ、そうですね、現状、完全に無職です。向うしばらく就職の予定はありません」日々の暮らしにも困っていますと言いかけたが、ささやかに残ったプライドがその言葉を押しとどめた。
「外国には、興味はおありですか」タニアは続けて尋ねた。
「はい、何度か旅行に行った事があります」僕は答えた。
「例えばどちらへ?」
「例えば、エストニアに行ったことがあります。2年ぐらい前に」
「エストニア?珍しい。何故そんなところに」
「全く想像のつかない国に行ってみたかったからです。全く見たことも無いようなものを、見たかったので」そう言うとタニアは笑ったが、それは当時の僕の本当の気持ちだった。
「どうでしたか、何か見たことも無いものが見られましたか?」タニアは尋ねた。
「いや、思ったより、普通でした」僕は正直に答えた。
「そうかもしれませんね。エストニアは今はもうEUに加盟していますし」そう言ってタニアは苦笑のような笑みを浮かべた。
「そうですね、実際のところ、そんな国はもう無いのかもしれません」そう言って僕はビールをまた呷った。さっきからビールは殆ど味がしなくなっていた。
「サルキアはいかがでしょうね」とタニアが言った。
「え?」僕は聞き返した。
「サルキアなら、何か景浦さんの探しているものが見られるかもしれません」
 それから我々はしばらく黙った。パーティは終わりに近づいていた。教授が壇上で挨拶をしていた。皆が拍手をするタイミングを計っている。タニアがメモを取り出し、ボールペンで何か書き込んでから僕に渡した。
「これは私の携帯番号です。もしサルキアの交流大使に興味がおありなら、必ず明日中にご連絡をください」
 タニアはそういって紙を僕の手に渡した。それから突然体を近づけ、僕の頬にキスをした。柔らかいものが頬に触れる懐かしい感触と、嗅いだことの無い香水の香りが僕の顔を包み、それらは僕が確かめる間もなく消えていった。
「マクシミセス」とタニアが言った。
「は?」
「サルキア語でさようならという意味です」
「はい」それ以外に僕は何もいえなかった。
「それではご連絡お待ちしています」
 そう言うとタニアはその場を立ち去った。教授の感謝と締めの言葉が発せられ、会場は拍手に包まれた。僕は一人、頬に残った感触を反芻しながらビールの酔いと突然の出来事に、目の前の拍手の音からひどく遠く離れたところにいるような錯覚に陥っていた。

 翌日、暑さとひどい二日酔いで目を覚ました。だらしなく悪態をつきながら起き上がり、水道からコップに水を汲み一気に飲んだ。窓を閉め切った部屋の空気は淀んでいた。風呂に入らなかったためひどく寝汗をかいていて、アルコールの混じった汗が全身を膜のように包んでいた。テーブルの上には昨日寝る前にスーツのポケットから取り出した小銭やレシートの紙切れと混じって、強い筆圧の携帯の番号が書かれたメモ用紙があった。その紙を改めてみてみると、番号の後にTANIAというローマ字の署名があった。昨日の出来事は、確かに存在したわけだ。部屋の窓を開けると曇り空の日差しとともに春先に嗅いだような、生温かい風が部屋に吹き込んだ。梅雨は明けかけていた。夏休みの始まる季節だった。
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