苔のむすまで・・・

文字数 2,684文字

 一人で先に帰ろうかと考え出した頃、司会者がマイクで何かを話した。完全なネイティブなサルキア語なのでよく分からないが「交流大使」という単語が聞き取れた。ステージの近くにいたアメリカ人のサムやイタリア人のトッティが何やらはしゃいでいた。僕の事も目に入ったようで、こっちへ来いというジェスチャーをした。また司会者が何かを言うと、出席者からひときわ大きな歓声が上がった。
「なんて言ったの?」僕は慌ててサムに近づいて聞いた。
「これから簡単な挨拶と、それぞれの国の伝統的な歌を披露してくれと言っているらしい」サムが楽しそうな様子で答えた。突然の展開に僕の頭は凍りついた。挨拶すら覚束ないのに、ここで何を歌えと?そんな僕の狼狽など全く気にせぬ様子でサムが颯爽とステージに上がり、マイクを取り先陣を切った。
「皆様シャバル!アメリカのサムです。今日はとても幸せです。私はこれから、とても、頑張ります!」そんな適当なサルキア語の挨拶の後に、サムは上機嫌で僕も聞いた事のあるアメリカ民謡を歌いだした。電話の保留音でよく耳にするようなメロディだった。3番まで大きな声で歌い上げ、深々とお辞儀をすると出席者から拍手喝さいが起きた。続いてすかさずフランスのドミニクが続いた。
「シャバル、私はフランスから来たドミニクです。素晴らしい国、素晴らしい人々、素晴らしい酒と料理。最高の夜になりました」多少気の利いた挨拶の後にドミニクはシャンソンを歌い、手堅く拍手喝さいを浴びた。次はイタリアのトッティだった。
「シャバル!私はトッティ。サッカーのトッティ。同じ。私は皆さんを愛しています」トッティの唐突な内容の挨拶は、サルキアの紳士淑女をやや戸惑わせたが、その後披露したゴンドラ乗りの民謡と思われるコミカルな歌と、身振り手振りのオーバーアクションはサルキア紳士淑女の心を掴み、一段と大きな拍手を受けていた。
 その後も各人テンションの高い挨拶が続いた。同じアジア系ということでシンガポールのスティーブンが場を少し盛り下げるのではと期待したが、一番流暢なサルキア語の挨拶を済ませた上に、何故かビートルズのヒット曲を歌った。やけに、素晴らしい歌声だった。何フレーズか歌ってから、「私の父と母が一番初めに私に教えてくれた曲です」と言った。また一段と大きな拍手が沸き起こり、スティーブンは身体を折ってお礼した。
「他にもまだ歌っていない方、どうぞ!」司会者が英語で僕らの方に来た。僕は逃げようと決意し、さりげなくトイレに行こうと瞬間にサムの大きな手で両肩を掴まれた。
「ユウタ、何見せてくれんだ?楽しみにしてるぞ」
「ポケモン!ニンジャ!」トッティが手裏剣を僕に投げる真似をした。スティーブンとドミニクは僕の方を見ながら、涼しい顔でワインを飲んでいる。瞬間的に考えをめぐらせた結果、思いつくネタは一つしかなかった。僕は深呼吸をして、テーブルにあった誰かのウォッカを2杯空け、覚悟を決めてからステージに上った。

「皆さん、シャバル。私は日本から来たカゲウラユウタです」そうして一息ついた。「私は、サルキアに、希望を求めて、来ました」
 発音が悪かったのか、全く聴衆の反応がなかった。背中に冷たい汗が流れた。もうこのままありがとうございましたと消えようかと思ったが、ウォッカとサルキアビールの酔いが僕を踏みとどまらせた。
「すいません。私のサルキア語、とても下手。もう一度言います。私は、サルキア、希望、求めた」
 緊張で発音がバラバラになっているのが自分でも分かった。再び静寂が訪れた。一番手前のサルキア紳士が不安そうに僕を見ているのが分かった。僕はめげずに続けた。
「私は歌を歌います。これは私の国の歌です」
 僕は大きく息を吸い、慎重に歌いだした。
 きみがよは・・・
 予想通りの沈黙だった。何か取り返しの付かない事態になっている気もしたが、僕は続けた。
ちよにやちよに
引き続き静寂。しかし開き直りの心境に達し、恥ずかしさはあまり感じなくなっていた。僕は大声で次のワンフレーズを歌った。
さざれ! いしの! みなおとなりて!
 ここまで歌うと大分気が楽になった。僕は最後のクライマックスで一段と声を張り上げた、
こーけーの! むーすーまーで!
 歌い終わった時、会場は依然として静寂に包まれていた。しかし不思議と焦りは感じなかった。仕方がない。やるだけのことはやったんだ。お礼を言って終ろう・・・。
「皆様、ミシャラク・・・」そこまで言ったところで、もの凄く大きな拍手が起きた。信じられないほどの拍手が会場に響いていた。目の前のサルキア紳士も両手を叩いて何か叫んでいた。ステージの横を見ると他の大使達も大きな声でブラボーと言っているのが聞こえた。
「ミシャラク、ミシャラク、皆様、ありがとうございました」
鳴り止まぬ拍手の中、僕は適当にお礼を言ってカナダ人のクリスと入れ違いにステージから降りた。いろんな人たちが握手を求めてきて、一人の退役軍人らしき老人が、いたく感激した様子で何か僕に話しかけた。「自分の国の歌を、立派に歌って、すばらしい」そんなような意味の事を言っていたと思う。

 交流大使の席に戻ると「良かったぜ、君の歌」とサムに握手を求められた。やはりアジアの音階は独特だとサムが言うと、ドミニクが他のアジアとはまた違う、日本が独特なんだと意見した。トッティもミヒャエルも妙に素直な様子で、「国歌が盛り上がるとは知らなかった。俺達も歌えばよかった」と残念そうに言った。シンガポールのスティーブンは、シンガポールにも国民の歌はあるが、皆知らないと思ったからビートルズにしたんだと、聞かれてもいない弁明をした。僕はとりあえずの大仕事を終え、急ピッチでウォッカを呷った。
 それから先はあまりよく覚えていないが、安心感で気持ちよく酔っ払った記憶がある。 しばらく我々は飲み続け、アメリカ人のサムが何故だか革靴にビールを入れて一気飲みしようとしたところで会はお開きとなった。帰りはアニヤが宿舎まで送ってくれた。車の窓から満月がよく見えた。窓を開けると湿り気のある涼しい空気が流れ込んだ。いい夜だった。アニヤは何故だか窓の外を見ながら神妙な顔をしていた。宿舎に着き、今日の興奮を誰かに伝えたくなって酔っ払ったまま日本の上本に電話をした。しかし電話は不調で繋がらなかった。仕方が無いので部屋に戻り、ベッドに一人倒れこんだ。窓からもきれいな月が見え、白い光がカーテン越しに床に落ちていた。僕は朦朧とした頭でそれを眺め、自分が一人異国にいることを痛切に感じた。
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