コンスタンチン・ミハイロビッチ・ニキーチン・・・

文字数 4,608文字

 僕らはその家を出てしばらく路地裏を歩いた。「路面電車で西の城門に行きます」と小さな声でタニアが言った。「わかった」と答えるとタニアが人差し指を唇に当てたので、僕はあわてて口をつぐんだ。それから「もう少しかがんで歩いてください」と言われ、僕は背を丸めた。
路面電車に乗り込むなり、乗客の目線が僕に集中するのに気付いた。あからさまに侮蔑の表情を浮かべる者、自分のところに来ないでくれと背を向ける者、哀れみだか同情だかのまなざしを送る老婦人、さまざまな感情の動きが自分に寄せられるのを感じた。最初は外国人が変装しているとばれてしまうのではと不安に感じていたが、窓ガラスに映った姿を見てみると、自分でも本物の乞食にしか見えず少し安心した。電車が西の城門に着く頃タニアに促され、降りる準備をした。なるべく本物の乞食に見えるよう、車内をゆっくりと動いた。すると先ほどの老婦人が来て、「気をつけてお帰りなさい」と丸めたリフ紙幣を僕に手渡した。僕は思わずミシャラクといいかけてしまい、誤魔化すために小さく奇声を立てながら僕は何度も頭を振った。代わりにタニアが「ミシャラク」と老婦人に答えた。電車が西の城門につき、僕らは電車を降りた。

 幸い城門は終バスに乗り込む行商の農民でごった返しており、その中に入ると自分達も周りに溶け込んでいるのが分かった。兵士に身分証明証を見せるように言われた時は心臓が止まるかと思ったが、タニアがちゃんと2人分の証明書を用意しており、事なきを得た。タニアの受け答えも聞いたことのないような、農民風のアクセントだった。タニアがそんな話し方も出来ることに僕は驚いたが、それは当たり前の事である。元々はこれがタニアの母語だったのだから。
手続きが終わった時、また一人の兵士が「お前、本当に口をきけないのか」と言ってきた。
「まさか嘘を付いて・・・○×△・・・」何か下品な事を言われているようだったが、彼の話すスラングらしきサルキア語は本当に僕には分からず、ぽかんと彼の顔を眺めていた。よほどその仕草が自然だったのか、もう一人の兵士が「やめろ、くだらない」と言い、僕らに「言っていいぞ」と言った。僕はまた大げさに何度もお辞儀をして検問所を通り抜けた。

 農民達を詰め込んだバスはまだうっすらと明るい国道を走り続けた。市街部を抜けると街灯も殆どなく、まるで夜明けの街を走っているような錯覚にとらわれた。階段で落とされた背中と腰が痛んだが、サルキアの農民に成りすましている都合、また張り紙をしている手前一言も話せず、黙って硬い木のシートに座り続けた。他の農民達は僕が口の利けない乞食である事を疑っている様子は無かった。それよりも仕事を終え家に帰る開放感からか、お喋りをする者、食べ物を分け合うもの、酒を飲むものそれぞれで、バスの中はちょっとした宴会のようだった。途中回りの乗客に何か話しかけられたが、笑顔だけを返した。
普段カスミアでじっと息を潜めて暮らしている農民達のこんな賑やかな姿を見るのは初めてだった。都市では性別も名前もない一人の労働力にしか見えない彼らが、今は皆僕の前で一人一人生き生きと動いていた。それぞれの人間に、それぞれ考えている事、感じてる事がある。その通りだった。タニアは眠っているのか、それとも考え事をしているのか、バスに乗っている間目をつぶったままだった。最初の停留所にとまり、タニアが降りましょうというような意味の方言を言った。 
 停留所の周りは小さな商店と古い団地が立ち並んでいたが、人影はまばらだった。タニアは地図を取り出し、再び何か方言でつぶやいて歩き始めた。僕もその後を追った。団地を抜けてしばらく歩くと粗末な平屋が続く地区に出て、タニアは紙を見ながら一軒一軒表札を見ていた。家はどれも空き家のようだった。何軒目かの表札を見たときに、僕にも分かる声で「あった、よかった」とタニアが言った。タニアの標準語を久々に聞いた気がした。

 家は農家の造りで、土間には鍬やら鋤やら、肥料の袋やらが散らばっていた。電気が通っていないので、タニアが持ってきていたろうそくを立てて灯りを取った。それから荷物を降ろし、中のものを取り出し始めた。
「後もう一回、変装します」僕が聞く前にタニアが言った。
「今度はカスミア貴族になるのかな?」僕は大きく伸びをしながら尋ねた。相変わらず背中と腰が痛んだ。
「ロシア人になります」タニアはそう答えて僕にロシア人のパスポートを渡した。ろうそくの灯りにかざして見ると、キリル文字と並んで僕の写真がプリントされていた。
「これは、何て名前なの?」と僕は聞いた。
「コンスタンチン・ミハイロビッチ・ニキーチン」とタニアは答えた。
「え?ごめん、全然聞き取れなかった」
「コンスタンチン・ミハイロビッチ・ニキーチンです」
「コンスタンチン、ミハイロビッチ、ニキーチン・・・」僕は復唱しながら、パスポートの中の自分の写真とキリル文字を見つめた。どう見ても、悪い冗談にしか見えなかった。僕がイミグレーションの担当なら決して通さないだろう。
「どう考えても、ロシア人に見えないんだけど」と僕は言った。
「大丈夫ですよ、ロシアの東部には朝鮮系の人が多いですし、そもそも中央アジア寄りの地方は日本人そっくりな人たちもいます」とタニアは言った。
「でも、名前すら発音できないよ」なおも僕は食い下がった。
「大丈夫です、景浦さんはまた口が利けないことになってもらいますから」そういってタニアは新たな服を手渡した。よれよれのジーンズのパンツと意味不明の柄がプリントされたセーターだった。僕が着ようとすると「明日でいいです」といって制された。それから「座ってください」とタニアが言った。「これからの動きを説明します」僕は言われるまま椅子に腰を下ろした。
「我々は国外退去が遅れてしまったロシアの行商人です。ロシアはこれからもサルキアの大切なパートナーですから、そんなに厳しくチェックされることはないでしょう」とタニアは言った。作戦の大胆さに僕は息を呑んでうなずいた。ろうそくの火に照らされながら脱出の計画を相談する我々は第二次大戦下のレジスタンスのようだった。
「もう既にカスミア空港は閉鎖されていますから、陸路で国境を越えます。車を外に用意しています。ただ今の時間国境はもう閉鎖されているから、明日の早朝に出ましょう。それから先は、モスクワまで着けば何とかなります。日本大使館に行ってもいいし、そのままロシア人として日本に入国するという手もあります」
「なるほど・・・でもタニアさん、こんなもの、どうやって用意したの?パスポートとか、農民の身分証とか・・あとこの変な服」僕は聞いた。
「これは、ある人の協力です」とタニアは答えた。
「誰?アニヤさん?」
「いや、景浦さんのことを大好きな、女性からのプレゼントです」そう言うと少しタニアは笑顔を見せた。
「誰?女性って、ダフネ先生?」
「違いますよ」
「じゃあ誰だ?あ・・・」
「そうです」
「ネオミ、さん?」
「ええ。正確に言うと、ネオミさんが資金を提供してくれたんです。パスポートとか服、車、あとあの大きな箱は私が用意しました」
「たった一日で?」と僕は言った。
「はい大変でした」とタニアが言った。「それより、ネオミさん何か言ってましたか?」
「何かって?」僕は聞き返した。
「だって、私が行く前にネオミさんが部屋に行ったでしょう」
「知ってたんだ」
「ええ、今回の協力の条件でしたから」
「別に、何も言われなかったけど」
「キスはされたとか?」
僕が口ごもるとタニアは嬉しそうに笑った。
「ネオミさん、景浦さんのこと大好きだったんですよ」久々にタニアの笑顔を見た気がした。「クリスさんとパーティに行った時、嫌がってたの覚えてます?それに、その後景浦さんがすぐに私の名前書いたのも気に障ったみたいでした」
「なんでだろう。まったく接点なかったんだけど」と僕は素直に驚いて言った。
「初めて東京の事務所で会った時に、一目惚れしたって言ってました。ネオミさん、意外と女の子らしいから」そう言ってタニアはまた笑った。「だから、この計画を話したときは本当に残念そうだったけど、景浦さんが日本に戻りたいなら協力するといって、10万リフ出資して頂いたんです」
「10万リフって、100万円だよね!」僕は思わず大きい声を出した。
「お金があれば、カスミアでも大抵の事は出来ますから・・・それと最後に景浦さんに会いに行くって言う時、ネオミさん本当にうれしそうでした。あんな可愛いネオミさん見たのは初めてです。本当、カスミアのお姫様という様子でした」そういわれて最後トイレでうっすらと見たネオミの笑顔を思い出した。言われてみれば、確かにお姫様のようだった。
「景浦さん、残念でしたね。本当ならカスミアのお姫様をお嫁さんにもらえたかもしれないのに」ロウソクの明かりに照らされて笑うタニアは、レジスタンスの女闘士ではなく、キャンプ中の高校生のようにも見えた。

「もう寝ましょう。明日早いですから」タニアが毛布で寝床を作りながら言った。「お風呂がなくて申し訳ないけど。日本人はお風呂に入らないと寝られないでしょう?」
「今日はそれどころじゃないから」僕は言った。
 そんなことよりも、何故タニアが僕を助けてくれたのか、その理由を僕は聞きたかった。あれほど国を愛するタニアが、何故こんな暴挙に出たのか。そもそもタニアはこの後どうするつもりなのか・・・しかしそれらの問いを口にだすことは出来なかった。明日の脱出への緊張感と、タニアの無駄のない動きが、余計な質問をさせない空気を作っていた。僕も今それを聞くべきではないと思い、自分から触れるのはよそうと決めた。
 僕らは乞食の服を脱ぎ、タニアが用意したTシャツに着替えた。それから変装用に汚した顔を洗い、お互い寝床に入った。しかし目をつぶるものの、明日国境を抜けてサルキアを出国するのかと思うと、緊張が高まりなかなか寝付けなかった。また床に直に毛布を敷いているので、ただでさえ負傷していた僕の背中は更なる悲鳴を上げていた。
 僕の頭は眠りにつく気配も無く、思考がフルスピードで何重にもぐるぐると渦を巻いていた。そもそも、国境で捕まってしまった時はどうなるのだろう?僕は国外逃亡を図ろうとした政治犯として牢獄に入れられるのだろうか。いやまてよ、僕は彼らにとって貴重な日本人である以上、そこまでひどい扱いはされないだろう。うまくいけば軟禁程度で済むかもしれない。でもタニアは・・・タニアは?その先は恐ろしくて考えられなかった。時折眠気が襲ってくるものの、緊張が勝り、寝付ける気配がなかった。何かほかの事を考えて紛らわせようとしたが、何よりも不安と恐怖に心が支配されていた。極限の緊張と疲労の中、眠気は訪れず、そうして暗闇の中で、僕は静かに消耗していた。しばらくして、タニアが起き上がり、トイレに立った。その後、何も言わず、僕の布団に入ってきた。夏だというのに、タニアの体は冷たく、震えていた。その冷たさに僕も一緒になって震えてしまったが、次第に温まり、タニアの震えは止まった。暗闇の中、タニアの寝息が僕の胸にかかるようになり、その音を聞いているうちに、僕も眠りに落ちていた。そして夢も見ずに、脱出の朝がやってきた。
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