鎖国1日目・・・

文字数 2,451文字

 その夜ひどい夢を見た。小さい頃に住んでいた団地の中を歩いている。空は灰色で季節は恐らく冬だ。手と足がかじかんでいる。ぐるぐると歩き回り、どれだけ探しても自分の家が見つからない。そうか、ここはうちじゃない。友達の団地だ。そう気づいて出口を探すのだが見つからない。何度歩いても同じところに戻ってしまう。団地には人の気配がない。どの家も空き家に見える。段々とあたりが暗くなる。出口は一向に見つからない。犬の吠える声が遠くで聞こえる。僕はもう少しで泣き出しそうになる。

 目を覚ますと全身に寝汗をかいていた。悪態をつきながら起き上がり、シャワーを浴びた。サルキア語のレッスンが無いのでバルハラ便利店まで行き、パンと牛乳と新聞を買った。いつものおじさんの代わりに奥さんが店に出ていた。サルキア鎖国一日目も素晴らしい青空だった。あまりにも天気がよかったので僕は部屋に戻らず、運河の脇の公園でパンを食べた。戒厳令は解かれたようで、公園には日光浴をする老人達や、幼稚園の園児達がいた。隣のベンチにはスカーフ姿の中年女性が熱心に雑誌を読んでいた。クロスワードのパズルに熱中しているらしかった。その風景に鎖国や大義といったものは見受けられなかった。どの国でも見られる、平和な平日の朝だった。新聞に目を通すと、一面記事は国民の99%が鎖国を支持しているとの報道で、著名な経済学者が鎖国の成功の可能性は高いと語っていた。僕は朝食を食べ終えると歩いて宿舎に戻った。今日も気温は高そうで、街の空気は既に乾燥しており、環境局の清掃車が低速走行で路肩に水を撒いていた。宿舎に入るとき、まさかと思って振り向くと、公園にいたスカーフ姿の中年女性が一つ先の街路樹いた。今度は何もせず、手持ち無沙汰に僕を眺めているだけだった。

 監視がついていることもはっきりしたため、ますます何もやる気がしなくなった。テーブルには外国人向けに配られたと思われる戸籍登録のしおりが置かれてあったが、読む気にもならずそのままにしておいた。それからベッドに寝転がりながら、改めて日本のことを考えた。帰ってやりたかったことは昨日あらかたタニアにぶつけた通りだが、やはり日本にいる人たちに、せめてさよならだけでも言いたかったと思うようになった。
さよならを言うとしたら、なんと言うのだろう。別れの台詞・・・僕は不本意ながらサルキアで生きていく事になりました。いつか日本に帰れることを信じて、頑張ります。皆さんも体に気をつけて頑張って下さい。僕も元気で暮らしていくので、心配しないで下さい・・・そこまで考えてふと、僕は誰にこの言葉を伝えるのかと考えた。そもそも、僕を心配する人間は、日本にいるのだろうか。
 昔の会社の同僚・・・もう退社してから一年以上が立った。既に僕を忘れているだろう。昔の彼女・・・僕自身、彼女が今どこで何をしているのかも分からない。当然向こうが僕のことを思い出すこともないだろう。友人・・・心配してくれるといえば、上本ぐらいか。でも彼自身、転勤などの事情を抱えていて、あまり他人の事を心配する余裕があるとは思えない。気の毒にとは思ってくれるだろうが、転勤先の名古屋での生活や、家族との生活の中でゆっくりと忘れていくだろう。そうなると本気で悲しんでくれるとすれば家族ぐらいのものだが、妹については、兄が日本に帰れなくなったとして、その悲しみに打ちひしがれて生きていくのも辛い、といったことはあるまい。彼女もまた、旦那と小さな息子との生活を守るのに精一杯だろうから。
 そうなると、この事態を本当に悲しんでくれるのは僕の両親だけであろう、という結論に僕は達した。同時に、このような状況になって無性に親不孝という言葉を感じた。自分の甲斐性では親を養うとか、楽をさせてやるということは無理だったが、せめて結婚して親を安心させたり、孫を見せるという事ぐらいは出来たはずである。せめて日本にいる時に、ちょくちょく実家に顔を出すぐらいでも、一応は親孝行になったはずだ。そもそもこのサルキア生活でさえ、両親のことを考える機会はほとんど無かった。そう考え出すと自分が大層薄情な人間に感じた。
ふと小さい頃、両親に甘えて遊んだ時間を思い出した。団地の小さなリビング。誕生日やクリスマスの光景。海やプロ野球の試合に連れて行ってもらった夏休み。今よりもはるかに若い父親と母親、そして僕。それは思い出せば思い出すほど、ひどく美しい時間に思えた。もう会う事も叶わぬ状況となった今となっては。

 そんなことを考えているうちに、またもや一日は過ぎた。緊張に疲れたせいか、意識がやや散漫になり、ベッドで少し眠っては起き、また眠ってを繰り返した。もう明日からの仕事を憂うこともやめた。結局はなるようにしかならないのだ。途中、引越しの業者らしき人間が来て、人が入れるくらいの大きなダンボールを置きに来た。
「なんですか、これ?」と僕は尋ねた。
「明日引越しと聞いてますんで」農村出身と思しき担当者が答えた。僕の運命は確実に固定されつつあるようだった。
 夕食は早い時間に会館の食堂で済ませた。川魚のフライと野菜のスープ、パン、マッシュポテト、羊肉ときのこの煮込み。こんな献立も自然に受け入れている自分がいた。もう諦めてしまえば、本気になれば、サルキアで幽閉されることも、それに適応していくことも、そんなに難しいことではないのかもしれない。食後のバター茶を飲みながらそんな事を考えた。
 
 満腹の腹を抱えて部屋に戻った。まだ外は明るかったがシャワーを浴び、後はビールを飲みながらサルキアのテレビを見た。古いロシアの革命映画をぼんやりと見ているうちに、再び眠りについた。そして昨日と同じく、ノックの音でその眠りは破られた。
「どなたですか」アニヤとタニア、どちらだろうと思いながら声をかけた。返事がない。ベッドから起き、恐る恐るドアスコープをのぞくと、見覚えのある恰幅の良い若い女性が立っていた。ネオミだった。
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