そんなのは嘘っぱちだ・・・

文字数 2,975文字

「電気をつけてもらってもいいかな?」と僕はタニアに聞いた。
「ええ」タニアは電気をつけた。久しぶりに見るタニアは少し顔が青く、痩せて見えた。僕の部屋の明かりのせいかもしれない。
「久しぶりだね」電気のまぶしさに目をこすりながら僕は言った。
「お久しぶりです」とタニアは答えた。
我々はしばらく黙っていたが、僕の方から切り出した。
「先月、旅行に行った日の土曜日に、帰国の申請をするという通達があったことは、知っていたの?」
 タニアは答えなかった。しかしその沈黙とタニアの無表情な顔が答えの代わりとなった。
「日本に帰りたかったですか」タニアが僕に聞いた。
「それはね」僕は答えた。するとタニアはすぐにこう続けた
「でも、今の日本は、辛い事が多いです。景浦さんの仕事だって見つかるか分からないし」
「そうかもしれないけど、やっぱり自分の国だから、ね」と僕は言った。
「私は、今の日本人が、日本の将来に希望を託することは難しいと思います」タニアは真剣な表情で話を始めた。
「日本はこれから老人が増え、総人口も労働人口も減ります。世界でのポジションはどんどん下がるでしょう。アジアでも経済活動のプレゼンスは既に中国に抜かれています。東アジアの経済圏にも、完全にフィットしているとは言えません。今後デフレも進み、失業者が増える。つまりどの点から見ても、希望的な観測は出来ません」
「そうかもしれないね」僕は言った。
「失礼ですが、景浦さんは、そんな国で暮らすべきではないと思います」とタニアは言った。
「暮らすべきではない?」僕はタニアの言葉を繰り返した。タニアは椅子に座り、脚を組んだ。
「ご存知の通り、サルキアは鎖国を始めます。これは大いなる実験の始まりです。より良い国に生まれ変わるための、壮大な試みです。グローバリズムに飲み込まれる事無く、独自に国を存続させる戦いです。苦難は当然待ち受けているでしょうが、それでも我々には未来があります。景浦さん、どうか良く考えてみてください。我々の未来に手を貸してください。景浦さんにとっても、よい人生が待っていると思います。冷静な判断をすれば、サルキアに残られるべきでしょう。いかがでしょうか?」とタニアが尋ねたが、僕は黙っていた。
「これから景浦さんは日本関係の情報機関で働いて頂きます。もちろん生活の保障はいたします。5年たてば永住外国人として一般のサルキア人とほぼ遜色のない権利が得られます。また政府機関の職員に昇進した場合は国家公務員と同様の給与体系と、住宅補助が適応されます。そうなると年金保障や住宅資金の長期借り入れにおいても国家公務員の優遇措置が受けられます」タニアは保険外交員を思わせる無感情さで僕の未来について説明をした。
「その他の保障については後日書類をまとめますので、ご一読ください」そこまで話してタニアは一息つき、また脚を組みなおした、
「一つ聞いていいかな」僕は尋ねた。
「どうぞ」タニアは言った。
「タニアさんは、本気で、僕がサルキアに残るべきだと考えているの?」
タニアは少し考えてから、次のように答えた。
「その通りです。正直に言って、景浦さんが今から日本に帰るメリットは、無いのでははないでしょうか?」
「メリット?」僕は聞き返した。
「国家としての未来も見えず、個人としての未来も描けない状況に、何故自ら進んで戻る必要があるのでしょうか?」タニアは真剣な表情で僕に問いかけた。僕は答えなかった。タニアは続けた。
「確かに日本は便利で、何でもあります。しかし、未来がありません。サルキアは何もない国ですが、少なくとも未来があります。どちらかを選ぶかは、聡明な日本人であれば、明白と思います。少なくとも」そう言ってタニアは言葉を切った。
「客観的に見ても、今暮らすべき国ではないと、私は思いますが」
「ふざけるな!」発作的に大きな声が出た。タニアが体をビクッと震わせた。
「未来が無いとか、メリットが少ないとか、誰がそんなことを決めるんだ!」と僕は言った。
「確かに今の日本は調子悪いよ。景気悪いし、仕事も少ない、未来も明るくないかもしれない。だけど、よその国の人に、暮らすべき国ではないとか言われたくない!」タニアは脚を組んで座ったままこちらを見ていた。僕は立ち上がって続けた。
「タニアさん、君はさっき日本に住むメリットがないといったね?じゃあ僕にとってのメリットを話そうか。僕は日本に帰って、美味い寿司と、ラーメンと、牛丼が食べたい。肩までゆっくり風呂に浸かりたい。日本の友達や家族と会いたい。学生時代の友達と居酒屋で飲みたい。甥っ子を連れて水族館に行きたい。一人でコンビニのお弁当やデザートを買い込んで、一日部屋でDVDを見たり、本や漫画を読んでいたい。ドライブもしたい。プロ野球の試合も見たい。博物館や映画館にも行きたい。北海道や沖縄にも行きたい。新宿の人込みを歩きたい。どうでもいい地元の住宅街を散歩したい。あとは、春夏秋冬、日本の季節を楽しみたい。花見に行きたいし、海に遊びに行きたい、花火大会を見たい、紅葉が見たい、大晦日に紅白を見てから、初詣に行きたい!」
 僕は息を切らせて言った。タニアは何も答えなかった。
「タニアさん、分かるだろう?僕は日本人だからさ、日本で暮らす事が楽しいんだよ。自分の国で暮らす事が。例え国の未来が暗かろうが、僕に職がなかろうが、そんな事は関係ない。これは、年越しパーティの時に、君がサムに言った事だよ」
そこまで言ってもタニアは何も言わなかった。顔は無表情で、僕の言葉を一つ一つ受け止めているようにも見えたし、または何も聞いていないようにも見えた。僕は大きなため息をついた。
「もういいや、言って余計むなしくなった。そういうなんでもない事が、永久に失われたと思ったら、少し悲しくなっただけなんだ」そう言って僕はベッドに腰を下ろした。
「もう、何でもいいんだ。競争原理、弱肉強食。いい年して甘ったれてたツケが回ってきたんだ。この一年だけでもいい夢見させてもらえたし、よかったよ」僕は続けた。
「大きな声を出してごめん、でも僕にも怒る権利はある。国に未来がないなんて、誰にわかるんだ。確かに日本は今はひどい状態だ。それでもみんな生きている。今まで通り、人々がそれぞれ色んな事を考えて暮らしている。これも君が言った言葉だよ。それぞれの人に、現在も、未来もあるんだ。当たり前じゃないか」
 タニアは何も答えずに、視線を僕と彼女の間の床の辺りに投げていた。
「後もう一つ、これだけはタニアさんにもわかってほしい」僕は下を向いたままのタニアを見つめて言った。
「国家のためだからと言って、若い女の子に、好きでもない男と寝させるような国は、絶対に間違っている」と僕は言った。
「君は、いや誰だって、人は一人の人間として、自分の人生を生きるべきだ。大義は個人に勝るなんて嘘っぱちだ。人間は国家の道具じゃない」
 タニアは脚を組み、床を見たまま、黙っていた。もう少しで涙が決壊しそうな、張り詰めた顔だった。僕は言いたい事を全て言ってしまうと突然疲労を感じ、背中からベッドに身を投げた。タニアはそれからも口をきかずに座っていたが、やがて立ち上がり、部屋を出て行った。マクシミセスもさようならもなく、無言のままドアを開けて出て行った。
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