壁の外へ・・・

文字数 2,902文字

 タニアは部屋に入るなり「段ボールはどこですか」と聞いた。僕が場所を教えるとてきぱきと組み立て始めた。ネオミとの出来事で頭が鈍くなっていた僕はしばらくその様子を眺めていたが、慌てて「引越しは明日でしょ?」と言った。
「今からやります」とタニアが少し緊張した様子で言った。
「ちょっと待ってよ。まだ何も準備していないし、いきなり来て急すぎるよ。明日にしてください」 自分に残された 最後の自由な一日が奪われる事を恐れ、僕は抵抗した。しかしタニアは僕の言葉に耳を貸さずに作業を続け、人が一人は入れるぐらいの箱を組み立ててしまった。
「だから、何も準備していないよ」と僕は言った。
「何も準備は要りません。景浦さんが入るだけですから」とタニアは言った。
「なんで僕が入るの?」
タニアは僕の問いに答えなかった。しかしその表情から僕は、ただ事ならぬものを感じ取った。
「タニアさん、それはひょっとして」僕は思い切って尋ねた。「僕がここに入って、どこかにいくということ?」
 僕がそう言うと、タニアは無表情な、しかし明らかに緊張感のこもった顔で頷いた。
僕は一瞬悩んだ。その判断が自分にとってプラスになるのかマイナスになるのか、瞬時に判断がつかなかった。タニアが焦った声でもう一度「景浦さん、急いで」と言った。その声を聞いて、結局は自分でも不思議なくらいすんなりと、その提案を受け入れた。時計や財布など、身の回りの貴重品を袋に詰めると、一緒に箱に入った。タニアは他にも何か荷物のつまった袋を一緒に入れ、「空気は入るから心配しないでください」といって箱を閉めた。それからまたタニアの声が聞こえた「長い間ではありません、しばらくの間じっとしていてください」緊張はしているが、優しさを感じられる声だった。僕の好きなタニアの声だった。
 
 それからタニアが出て行って、僕は箱の中の暗闇に一人残された。体育座りをしている状態だったので体勢的には辛くなかった。箱の中は懐かしい段ボールの紙の匂いがした。底には補強のためか、ベニヤの板が張られていた。それから数人の人間が部屋に入ってくる音が聞こえた。
「これです。かなり重いから気をつけて」タニアの声。
「わかりました」男の声。恐らく昼に来たのと同じ男のようだった。男達の掛け声とともに箱が持ち上げられた。底が破けるのではないかと心配したが、無事に何かの上に乗せられた。
「他にはありませんか?」。男がタニアに聞いた。
「ここに全部入れてしまったから、もうないわ」とタニアが答えた。
「この箱、えらく重いですね」違う声が言った。
「日本人が明日から引っ越すんだけど、色んなものを持ち込んでいて困るの。大きな金庫とか、ダンベルとか、本とか、重たいものばかり」
「日本人は金持ちですから」最初の男の声が言うと他の男が笑った。それから僕は廊下をすべるように進んだ。台車か何かに乗せられているようだった。しばらく行って、「ここからまた持ち上げるぞ」という声が聞こえて再び体が宙に浮いた。「畜生、何でこんなに重いんだ」という声も聞こえた。箱が少し斜めになり、階段を下りていくのが分かった。頼むからここで落っことすなよ、そう思った瞬間一人の男の悲鳴が聞こえて、僕を入れた箱は階段を転げ落ちた。暗闇の中で自分の体が回転し、背中と肩と腰を続けざまに強打したところで回転が止まった。
「気をつけて!」タニアの悲鳴が聞こえた。
「すいません」リーダーの男が謝った。
「中のものが壊れたらあなた達が弁償しなくちゃいけないのよ。気をつけて!」タニアが強い口調で言った。僕は箱の中で心臓が破裂するかと思ったが、それよりも箱が破れなかった事、そして自分が一言も悲鳴を発さなかったことに驚いていた。それよりも落ちた後、激痛を感じながらも一言も発する事ができないほうが辛かった。再び台車に乗せられ進んだが、その時間は永久に続くかと思うほど長く、もう我慢の限界だと思ったとき。台車が止まった。
「そこの馬車に積んで」再び僕と箱は持ち上げられ、荷台らしきスペースに置かれた。ダンボールの隙間から馬の匂いが鼻を突いた。
「すんませんでした、10リフになります」というリーダーの男の声が聞こえた。それからようやく馬車が動き出し、僕は大きく息をついた。それから小さな声で「いってえ・・」と呻き、暗闇の中で背中と腰をさすった。数分ほど進んだところで馬車が停車し、タニアが荷台に乗り込んできて箱を開けた。
「景浦さん、さっきは大丈夫でしたか?」とタニアが聞いた。
「うん、すごく痛かったけど・・・まあなんとか大丈夫。頭を打たなくて良かった」僕は答えた。
「そうしたらまず先にここで下りて、目の前の家に入って待っていてください。鍵は開いています。私もすぐに行きますから」とタニアが言った。
「御者に見られないかな」
「前で待っているように言ってますから、早く」
 僕は悲鳴をあげる体を何とか起こし、箱から出た。ダンボールから出ると馬臭い荷台の空気すらとても新鮮に感じた。それから幌の内側から外を見渡した。馬車はどこかの路地裏に止まっていた。言われたとおり、目の前に古びたアパートが建っていた。僕は辺りを窺いながら荷台を下り、極力自然な様子でドアを開けて家に入った。タニアを乗せた馬車はそのまま去っていった。
部屋の中は暗く、ひんやりとしていた。電気もつけずに僕はそのあたりの椅子に座り、肩と腰をさすった。タニアが湿布でも持っているといいのだがと期待した。それから数分後にドアを開ける音がしてビクッとしたが「私です」というタニアの声が聞こえた。
「大丈夫ですか、体は」タニアが部屋に入ってきて言った。
「なんとかね。タニアさん、湿布とか持ってないよね」と僕は聞いた。
「もっていません」タニアは無感情な声で答えた。それから電気をつけ、テーブルの上に袋を置き、中身を開けた。そこから出てきたものは、またしても僕の予想のつかないものばかりだった。継ぎのあたった古いカーテンのようなスカート、汚れで何色か判断のつかないズボン、雑巾のようなスカーフ、使い込んだ野球のグラブのようなハンチング・・・。
「これは、これに着替えるということかな?」
「ええ」そう答えるより早く、タニアが服を脱ぎ始めていた。僕はタニアがためらいなく下着姿になるのをあっけに取られてみていたが、「景浦さんも、急いでください」と言われて、慌てて服を着替えた。それからタニアは何か黒いクリームのようなものを取り出し、自分と僕の顔に塗った。タニアの顔が間近に近づき、僕が反射的に首を引いたら「動かないで」と言われ、顔を固定された。そうしてこの納屋に二人の農民夫婦が出現した。それからタニアは家の中にあったガラクタを袋に詰め込み、僕には一枚の紙を差出し「これを胸に貼ってください」とガムテープを渡した。紙には「私は口のきけない哀れな農民です。家に帰る費用をお恵み下さい」と書かれていた。
「農民のフリをして、壁を出るという事?」僕は尋ねた。
「その通り。それが一番安全ですから。ほら、急いで。もう7時です。郊外行きの終バスがでてしまいます」
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