国境・・・

文字数 2,377文字

 最初に目を覚ましたのは僕の方だった。タニアは寝たときの体勢と同じまま、僕の胸に鼻先をつけて寝ていた。僕は体をゆっくり動かそうとして、腰と背中に激痛を覚えた。うめき声を押し殺しながらタニアに声をかけた。
「タニアさん・・・起きよう。朝だ」
 タニアは寝ぼけて何か方言で寝言を言っていたが、何度か声をかけたら目を覚まし、それからはまたいつものように手際よく朝の準備を始めた。一方僕は睡眠不足がたたり、鏡を見ると麻薬中毒者のようなクマが目の下に出来ていた。
「もう一度説明しますね、景浦さんは、口の利けないロシア人です」朝食のパンを食べながらタニアは僕に指示した。
「私たちはサルキアに商売に来ていた夫婦です。鎖国の通達を見落として、慌ててロシアに戻ろうとしています」
「了解。服はこれを着るんだよね」僕は寝ぼけ眼でインスタントコーヒーをすすりながら答えた。テーブルには昨日渡された色あせたジーンズと、昔ビートたけしが着ていたような柄のサマーセーターが置かれていた。タニアは牛乳を飲みながら頷いた。
 顔を洗う時に、洗面所の窓から辺りの景色が見えた。昨夜は暗くて分からなかったが、平屋の裏には見渡す限りの畑が広がっていた。小麦だか大麦だかの穂が夏の朝の風に揺れ、見渡す限りの緑の大海を成していた。パノラマで広がる青い空には輪郭のくっきりとした雲がいくつも並び、青々とした畑の様子とあいまって、およそ脱出の朝に似合わぬ爽快な風景であった。
朝食食べて顔を洗い、服を着替えた後では気分も少し良くなってきた。背中と腰の痛みは相変わらずだが、耐えられないほどではなかった。
「それでは行きましょう」
 スパンコールのついた派手なプリントTシャツとピンクのスエットの上下に身を包んだタニアが僕に声をかけ、ドアを開けた。僕もその後に続き、用意されていたロシアナンバーの古いサーブに乗り込んだ。
 
 車は農地をほぼまっすぐ国境に向かって走った。畑には以前見たような、薄汚れた背広を来た農民や、手伝いの子供達の姿が見えた。道端ではロバたちが枯れ草を食べながら、ぼんやりと人間達の営みを眺めていた。僕はふと自分がカスミアから郊外に放逐され、農民に混じって畑を耕している様子を思い浮かべてみた。実際それはかつて僕が夢想した、全く想像の付かない世界だった。僕は昨夜乗ったバスの賑やかな車内を思い出した。金はなくとも、文化的な生活を送れなくても、ただひたすらに自分の務めを果たす生活を、意外と僕は受け入れられるのではないだろうか。少なくとも、僕にはその素養があるように思う。もし車道からカスミア貴族が僕の事を見たら、哀れみの念を抱く事だろう。でもそこまで同情される事はないのかもしれない。どんな人間にも、それぞれの生活があるのだから。それにしても、何故彼女は僕を助けてくれるのだろう。鎖国してしまった祖国を捨て、どこかの国に亡命するつもりなんだろうか・・・。そんな事を考えているうちに、次第に農地と手付かずの丘陵地帯が入り混じるようになり、人の姿は殆ど見えなくなってきた。空はどこまでも青く広がり、日本でもよく見た盛り上がる入道雲があちこちに浮かんでいた。
「ここからロシアの国境はもうすぐです。あと10分もすれば着くでしょう」
 タニアが真っ直ぐ道路を見ながら言った。意識しないようにしていた緊張が蘇った。突然口の中が乾き、冷たい汗が背中を流れた。建物が道路の向こうに見える度に心臓がドクンと脈を打った。僕は深呼吸をして、目をつぶり、これからのアクションのイメージに集中した。検問の兵士、イミグレーション、パスポート、口の利けないロシア人・・・しかしそんな土壇場のイメージトレーニングをタニアの声があっさりと破った。
「あれです」
 牧歌的な緑の丘の上に、無骨なコンクリート作りの建物がぽつんと一軒建っていた。小さな凱旋門のようなゲートが道路をまたぎ、その両端から上部に鉄条網を施したフェンスが左右に延び、その金網は万里の長城のように丘陵に広がっていた。小さく見えていたゲートは次第に大きくなり、僕達を乗せたサーブはイミグレーションの検問所に確実に辿り着こうとしていた。
「焦らないで下さい」
タニアが前を見たまま、僕の手を握った。
「必ずうまくいきますから」
僕は無言で頷いた。
 やがてサルキア兵の姿がはっきりと見えるようになり、タニアは車を減速させ、「止まれ」というサインを持った兵士の前でゆっくりと停車した。

「シャバル」タニアが窓を開けて挨拶した。
「シャバル、パスポートを拝見」ヘルメットを被り、自動小銃を肩にかけた若い兵士が言った。胸には下等兵を表す星が一つついていた。タニアは二人分のパスポートを出した。
「ロシア人?帰国の通達は、受けていますよね?」兵士が言った。
「ええ、ただ在庫の整理をするのに時間がかかってしまって、出るのが遅くなってしまったんです。ごめんなさい」タニアがいつもと少し違うアクセントでそう言った。
「あと、ビザが一週間切れていますね」と兵士は言った。
「いや、入国はちょうど1ヶ月前ですから、明日まで有効なはずですが」とタニアが言った。
「今年からロシア人の観光ビザは3週間になったんですよ。ご存知なかったですか」兵士はそう言って感情のない目でしばらくタニアを見ていたが、それから僕の方を見た。
「そちらは、お連れさん?」
「ええ、私の主人ですが、口が利けないので」
 僕は無表情を装い、軽く会釈した。タニアもあわせて笑顔を浮かべた。兵士は僕らの会釈に反応せず、しばらくパスポートと我々を見比べていた。
「お手数ですが、ちょっとオフィスの方までいらしてください」兵士はそう言ってコンクリート造りの建物を指差した。
「分かりました」
 タニアはそう言って僕の目を少し見た。僕はかすかに頷き返し、車を降りた。
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