オリエンテーション・・・

文字数 2,189文字

 僕の宿舎は3階建ての建物で、1階に会議室とホール、食堂などの施設があり、2階と3階は政府職員の住居となっていた。僕に用意された3階の部屋は古いホテルのような雰囲気で、がっしりした机とベッド、ブラウン管の小さなテレビ、そしてシャワーとトイレが付いていた。エアコンは無かったが、天井に空気を循環させるファンと、冬用のスチームが取り付けられていた。タニアいわく、以前はロシアや東欧の留学生の宿舎として使われていたという事だった。古めかしい雰囲気ではあるものの、僕が今まで住んでいた荻窪のアパートよりもはるかに広く、また窓から通りの並木が見下ろせるのも気に入った。
 一通り荷解きを終え、僕はオリエンテーションが行われる1階の会議室に向かった。会議室にはタニアと、日本のサルキア事務所にいたネオミという女性と、そして僕を面接したアニヤがいた。
「ようこそサルキアへ」アニヤがそう言って手を差し出した。
「ついに来ました」僕はその手を握った。
「長旅で疲れただろう。今から簡単なこちらでの生活について、簡単に説明をするけど大丈夫かな?」アニヤは日本で会った時よりも親しげな様子で僕に尋ねた。
「少し眠いけど、大丈夫です」僕は答えた。
「オーケイ、手短に済ませよう」そう言うとアニヤはタニアに指示を出し、今後の生活に関する決まりごとを書いた何枚かの書類を僕に渡した。この日受けた説明については、僕は次のようなメモを残している。

 明日から早速サルキア語のレッスンを開始。レッスンは原則として交流大使の任期が終わるまで、1年間継続。交流大使の仕事は各大使の語学のレベルが一定に達した段階で開始される。
パスポートと引き換えに「交流大使証明」というIDを渡される。外出する際は基本的に常時携帯しなくてはいけない。(注意!)パスポートはサルキア政府外務省が管理。
生活費はサルキア文化交流基金より月に7000リフ(サルキアの通貨)支給される。1リフは約10円、イコール日本円で7万円程度の換算。ちなみにサルキアの労働者の平均月給は1500リフ(1万5千円)、会社の幹部で10000リフ(10万円)程度。
携帯電話もモトローラの端末が1台支給される。(画面がすごい小さい)機能は通話のみ。メールは不可。国際電話は事前申請制。1分あたり100リフと、物価に比べるとかなり割高。
インターネットも国外のサイトを見る際は事前申請が必要(!)しかもダイヤルアップなので、かなり遅そう・・・
 食事は基本的に宿舎の食堂で取れる。宿舎の近くにもレストランや定食屋はあるが、サルキア語の日常会話が出来るようになるまでは行く事を勧めない。(騙される恐れがあるため)
公務やサルキア生活をサポートする「世話役」はタニアが務める。ただしネオミは「研修生」として、アシスタントを務める。

「何か質問はあるかな」アニヤが一通り説明を終えて僕に聞いた。
「ええと・・この宿舎には、他の交流大使も住んでいるんですか?」僕は質問した。
「ここは君だけだ。交流大使はそれぞれ違う宿舎で暮らしてもらう」とアニヤは答えた。
「分かりました」と僕は言った。
「では続いてタニアの方からカスミアでの生活について説明してもらおう」
説明がタニアに代わり、細かいサルキア生活のレクチャーに移ったところで、僕の集中力ががくんと落ち出した。またアニヤの話を聞いて少し緊張が解けたせいか、急激に空腹と眠気が襲ってきた。タニアとアニヤの顔を交互に見ながら僕は何度か居眠りをした。
「まあ、今日は着いたばかりだからこのあたりにしておこう」僕の異変に気づいたアニヤが言った。その声で僕は何度目かの居眠りから目を覚ました。
「腹も減ってるだろうから、後は食事にして、今日はそれで解散だ。ネオミ、食堂に案内してくれ」ネオミがのっそりと立ち上がり、「こちらです」と言った。
「じゃあ明日から頑張ってくれ。何かあったら連絡するように」とアニヤが言った。
「景浦さん、お疲れ様でした。おやすみなさい」とタニアも言った。
アニヤとタニアに見送られ、僕とネオミは食堂に向かった。僕はネオミが日本語を話せる事に少し驚いて、「ネオミさんも日本語話せるんだね」と話しかけてみたが、ネオミはこちらを見ずに「はい」と答えただけだった。
 高校や大学の学食のような食堂は時間が遅いせいか、一人も食事をしている人はいなかった。僕だけのために待っていたのか、これまた不機嫌そうなおばさんがおたまを片手にじっと立っていた。ネオミは料理の並んだカウンターまで僕を連れて行き、「いくつか料理があるので、好きなのを選んでください。では、さようなら」と言ってあっさりと帰ってしまった。仕方ないので僕は指差しで幾つか料理を選び、席に着こうとするとおばさんが大きな声で僕に何かを要求した。先ほど渡された交流大使証明を見せろと言っているのだと分かり、それを提示すると何か伝票にサインをして、マクシミセスと言って食堂を出て行った。
 がらんとした薄暗い食堂の片隅で、僕は一人ジャガイ モやらパスタやら、よく分からない肉の煮込みをかきこんだ。先ほど到着した時の高揚感と入れ替わりに、ぼんやりとした不安が僕の周りを包んでいた。食事を終えて部屋に戻るといよいよ本格的な睡魔が押し寄せ、服を着替える事も、実家に到着の連絡をする気力もなく僕は寝てしまった。  
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