そして旅立ちへ・・・

文字数 2,896文字

 いよいよサルキアへの出発が目前へと迫る頃、時々タニアから連絡が入るようになった。内容はフライトスケジュールの確認だとか、パスポート期限の確認といった事務的なものだった。変化といえば、時々同じような風体の男が僕のアパートの前に立っていた。何度かその姿を認めたところで、思い切ってタニアにその話をしてみた。すると彼女はあっさりとそれは彼らが雇った興信所の人間だと認めた。
「ごくまれに、連絡が取れなくなる方もいらっしゃるので」と彼女は言った。確かに50万円を持って行方をくらますことは可能なので、僕もその監視を受け入れた。

 いよいよ出発を翌日に控えた前日に、僕は荷物をスーツケースやリュックに詰めながら、ある事を思い悩んでいた。最後の最後で昔の恋人に電話をするべきかどうか、迷っていた。妹のアドバイスが引っかかったわけではないが、確かに一時は最も親しかった相手に、日本を離れる事ぐらいは伝えておきたくなったのだ。
 彼女と僕は1年前まで恋人同士だった。彼女はWEBの制作会社に務めるデザイナーで、年は僕のほうが3つ上。数年前に取引先の設立パーティで僕達は出会った。お互い一人ぼっちで参加しており共通の知人はいなかった。似た者同士の空気を感じ取った我々はどちらからともなく近付き、打ち解け、また二人で会う約束をした。付き合うことを決めた秋の日を、僕は今でもよく覚えている。

 金色の紅葉に包まれた代々木公園で僕達はバドミントンをしていた。空気はすでに肌寒かったが、よく晴れた日で、陽の光は紅葉に染められたように輝いていた。シャトルを思い切り振りぬくと、その向こうにドコモタワーと透き通った青空が見えた。僕達は時々休んで、魔法瓶に入った紅茶を飲んだ。それから僕達はベンチに移りお喋りをした。荷物を詰め込んだリュックには2つのバイク用のヘルメットがくくりつけられていた。その日は代々木公園で遊んだ後、僕のアパートでご飯を食べながら映画を見る予定だったのだ。彼女がどんな料理を作ってくれるのか、少年のように僕は楽しみにしていた。バイクで出発する時、彼女が僕の腹に手を回したときの感触と、信号待ちで振り返ってみた時の、ヘルメットをかぶった少し緊張したような彼女の顔を、僕は今でも覚えている。

 そんな美しい思い出に彩られた僕達の付き合いも、2年後には終わっていた。その原因は世の多くのカップルの別れと同様これといって他人に説明すべきほどのものはない。幸いな事にお互いを憎みあって別れたということはなかった。ただ一つ言えるのは、思い出せる楽しい思い出は付き合う前のやりとりや、付き合い始めたばかりの日々だということである。しかし一年前に別れて以来全く連絡を取っていなかった彼女と、今更何故話をしたいのか。自分でもよく分からなかった。電話をかけたところで何を話そう。そもそも相手にとっては、僕が何処に行こうと知った事ではない。そもそも今向うが自分をどう思ってるのかも分からない。ひょっとしたら、ただ迷惑なだけではないか。
 本当のところは、僕は何か暖かい言葉をかけてもらいたかったのだと思う。日本を発つ直前になって感じ始めた不安やら寂しさやら、そんな気持ちを和らげてくれるひとふりの優しさを僕は求めていた。一時は最も近い存在同士であったからこそ話せること。そして与えてもらえる何かがあると、考えていた。都合のいい話だとは分かりつつ、そんなことを僕は求めていた。
「遠い国に行くのね。頑張ってね。体に気をつけてね。また帰ってきたら会おうね」
 そんなやりとりを考えたり、荷造りをしているうちに、最後の一日の午後が過ぎて日が暮れた。セブンイレブンで和風炊き込み弁当を買い、日本の最後の夕食を食べ終え、350mlの発泡酒を2本空けたときに僕は覚悟を決めた。最初の一言目も大体決めていた。大体5分ぐらい、長くても10分以内に電話を切ろうと決めていた。まだ残っていたメモリを呼出し、番号を押しては切り、押しては切り、を繰り返し、ようやく最後に勇気を出してダイヤルを押した。何度かコールの後、「もしもし!」と男の声が聞こえた。
「あ・・・」僕は言葉に詰まった。
「もしもーし!」どこかにぎやかな場所にいるようだった。
「どちらさまですか!山川ですけど!」その声は一段と大きくなった。僕は電話を黙って切った。それから新たな発泡酒の蓋を開け、大の字に寝転んだ。

 7月の旅立ちの朝は、夏の朝特有の青い日差しが溢れていた。スーツケースとリュックを提げ、通勤客の白い視線を浴びながら何とか新宿駅のホームを移動し、他のホームから離れた湘南新宿ラインのホームにたどり着いた。駅のコンビニで食料を買い込み、成田エクスプレスから見慣れた山手線の景色を眺めながら朝食を取った。
 人生を変える旅に出る、見知らぬ異国の地に赴く僕に対し、街は全く無関心な様子でいつもと変わらない1日を始めようとしていた。もっとも僕もつい最近まで、駅からオフィスへ向かうあの人波の一部だったわけで、今でもそっちの自分の方が本当の自分のような気もしていた。しかし現実的には僕の体は幽体離脱のように人波を離れ、成田行きの電車の座席に座っている。帰国する外国人や出張のビジネスマンと一緒に、もう成田空港まで止まらない電車に乗り込んでいる。そしてそのレールはモスクワを越え、サルキアの地までつながっている。そう一度走り出したら、もう止まらない電車に乗って・・・。そんなことを考えているうちに僕は眠っていた。次に目を開けると窓の外には一面に山間の田園風景が広がっていた。農家のおばあさんが一人、山の迫る田んぼで一人作業をしていた。その後ろには緑の山が広がり、白みがかった日差しが辺りを照らしていた。それを見て、僕は何故だか涙が出そうになった。

 アエロフロートのカウンターの前にタニアが立っているのが見えた。姿を見るのはパーティ以来だが、今日も黒いジャケットを着て、黒のスカートに、黒いヒールを履いていた。辺りをきょろきょろと見回している。僕の姿にまだ気づいていないようだ。時折腕時計に目をやっている。たった今、待ち合わせの時間になったぐらいだろう。そんなタニアの姿を見ているうちに、ふと頭にある言葉がよぎった。
 今なら、まだ引き返せる。
 タニアは引き続きまわりを見回している。そうしてまた時計を見た。待ち合わせの時間から少し経過した。少し焦っているようだ。鞄から手帳を取り出し、何かの情報を探そうとしている。電話が鳴ったらしく、携帯を取り出した。アニヤとしゃべっているのだろうか、大きな身振りで何かを説明している。電話を切り、再び手帳をめくり始めた。それから携帯で番号を打ち始めた。少しして、僕の携帯のバイブが振動した。僕は電話には出ず、カウンターに向かって歩き出した。そうして声が届く距離まで近づいてから、大きな声で「タニアさん!」と呼びかけた。タニアはこちらを向き、満面の笑みを浮かべて大きく手を振った。僕もスーツケースを引いていない方の手を大きく振った。こうして人生を変える旅が始まった。
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