イミグレーション・・・

文字数 2,766文字

「ビザが切れているし、出国申請も出ていませんね」
 先ほどの若い兵士の上官と思しき、眼鏡をかけた年配の小柄な男がコンピューターの端末を操作しながら言った。僕たちは男のデスクから数メートルほど離れた黄色い線の上に立っていた。その後ろには先ほどの兵士が立っていた。我々が通された市役所の窓口のようなスペースの奥にはドアがいくつかあり、サルキア語と英語で「司令官室」と書かれた表札も見えた。
「ええ、つい先日鎖国を知ったものですから、申請が間に合わなくて」とタニアが言った。
「失礼だが、ご主人はどちらの方で?中国から移民されたか何かですか?」
眼鏡の男はそう言って僕の顔を見回した。胸には二つ星が付いていた。恐らく軍曹レベルの階級だろう。「ロシア生まれのロシア人です」とタニアが答えた。
「私はご主人に聞いたのだが」と眼鏡の男が言った。
「すいません、うちの夫は口が利けないので」とタニアが説明した。
「そうでしたか、失礼。ではちょっとお二人とも、こちらに来て座ってください」
そういって眼鏡の男は自分の机の前に椅子を置き。呼びかけた。僕はその意味が分からない振りをしてそのまま立っていた。
「主人は耳も悪く、言葉を理解できません」とタニアが言った。
「なるほど」
 僕はタニアに促され、黄色い線から進んで眼鏡の男の前の椅子に座った。タニアが横に並んで立った。眼鏡の男は僕のパスポートを見ながら言った。
「いやなに、あなた方が本当に外国人なら何も問題はない。ただ、これが仮に亡命しようとしているサルキア人となると、また話が別でしてね・・・あなた、ええと、ガスパジャー・ニキーチン、あなたもロシアの方ですね」と眼鏡の男がタニアに尋ねた。
「ええ」タニアが頷いた。
「サルキア語がとてもお上手ですな」と眼鏡の男が言った。
「小さいころサルキアで育ちましたので」とタニアが答えた。
「ほう、どちらですか」
「カスミアです」
「なるほど、ではご両親は政府関係のお仕事をされていたのですか」
「ええ」
「ふむ」
 そこで質問は終ったが、眼鏡の男は我々を解放しようとしなかった。代わりに僕とタニアをかわるがわるにねめつけるように眺めた。僕は緊張感と恐怖心で眩暈を覚えていたが、不用意にぐらついたりする事のないよう、渾身の力で体を支えていた。音を意識しないようにするとますます敏感になり、奥の部屋から聞こえてくる電話の声やキーボードを叩く音が耳の中で響くように鳴った。タニアは微動だにせず背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。
「セヴォードニャ ニムノーガ ジャールカ?」と眼鏡の男が僕に向かって何か話しかけた。
「ですから、夫は口が利けないんです。もちろんロシア語も分かりません」とタニアが言った。
「そうでしたな、これは失礼しました、ガスパジン・ニキーチン」と眼鏡の男は慇懃な口調で言った。
「いや実はですな、最近サルキアから逃げ出そうとする農民の連中が多くて、我々としてもいささか神経質になっておるのですよ。奴らと来たら外国で金を稼ぐ事しか考えていないから、祖国のために尽くすという事の意味がこれっぽっちもわかっちゃいない。そんな奴らが多いから、サルキアも結局鎖国に踏み切らざるを得なかったと、こういうわけですな。ガスパジン・ニキーチン」
 眼鏡の男はなおもしつこく僕に話し続けた。僕は悪い冗談でからかわれている時のように愛想笑いを浮かべた。
「もしあんた達がサルキアの農民だったら、こってりと骨の髄まで祖国に尽くすという事を教えてやりたいところだが」
 そう言って男は言葉を切り、再び我々をじろじろと眺め回した。その男の表情に、ありとあらゆる種類の不快さが浮かんでおり、吐き気に似た感覚が僕の胸にこみ上げていた。同時に緊張状態に耐えかね、不意に大声を出したくなる感情を抑えるのに必死だった。男がようやく口を開いた。
「なるほど、お二人とも完全なるロシア人だ。確かにビザは1週間切れているが、外国人は速やかに出国させよとのお達しも上から出ている・・・これ以上ロシアの方を引き止めていても仕方ないですな」そう言って男はようやく僕らのパスポートにスタンプを押した。それから若い兵士を呼んでパスポートを渡した。若い兵士はうやうやしくパスポートを受け取り、スタンプを確認してから僕らに手渡した。僕は静かに、大きく息をつきながら、パスポートをジーンズのポケットにしまった。国境を通過したという安堵の気持ちと、一刻もこの場を逃げ出したい気持ちで、複雑な興奮を覚えていた。しかしパスポートを渡したあとも男は何も言わず、僕達を見続けていた。タニアが辛抱強く、丁寧な口調で聞いた。
「これで、よろしいのですか?」
「どうぞ。お気をつけて」少し時間を置いてから、勿体をつけて眼鏡の男が答えた。
 タニアが僕の手を取り、行きましょう、というジェスチャーを見せた。僕はそれに従い、黄色い線を越えて出口に向かった。僕は一歩一歩、ゆっくりと進んだ。最後の最後で怪しまれないよう、駆け出したい気持ちを我慢しながらゆっくりと出口に向かった。距離にして10m程度。まるで断崖絶壁の峡谷にかけられた一本橋を渡るかのように、慎重に足を進めた。にそしてようやくドアに手をかけた時、眼鏡の男の声が聞こえた。
「男のほう、止まれ。止まらないと撃つぞ」
 その言葉に僕は反射的に足を止め、男の方を振り返った。その瞬間、取り返しのつかないことをした事に気付いた。眼鏡の男が嬉しそうに笑い声を上げた。タニアは呆然とした顔で僕を見つめていた。眼鏡の男は痛快でたまらないといった様子で叫んだ。
「こりゃ傑作だ!耳が悪い、口は聞けない、ロシア語は分からない、でもサルキア語は分かる。これはどんな人間だ!」眼鏡の男は子供のような表情ではしゃいだ。
「こんな事だろうと思ったよ。この農民どもが!口が利けない、耳が聞こえないだと?そんな浅知恵でサルキア政府を騙せると思ったら大間違いだ!」
 若い兵士が拳銃を抜き、銃口を僕らに向け、手を上げて奥の部屋に進むように促した。僕たちは両手を上げて部屋を歩いた。タニアは下を向いていた。僕は、何も考える事ができなかった。ただ眩暈だけがひどくなり、貧血の時のようにバランスを崩し、若い兵士に腕を掴まれた。眼鏡の男が席を立ち、こちらに近づいてきた。
「男はそっちにつないでおけ、俺はこの女を尋問する」
 眼鏡の男が顎で奥の部屋を示し、タニアの腕を取った。
「しばらくこんなお楽しみはなかったからな。今日はついている」
 そう言って眼鏡の男がタニアの背中と尻を撫で回した。タニアの顔が一瞬にして凍りつくのが見えた。別室に入っていこうとする二人の後姿を見た時、極限状態の思考で一つのアイデアがひらめいた。眼鏡の男の星の数だ。襟に記されていた星は確かに二つだった。
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