勇気を出して・・・

文字数 3,359文字

それからモスクワのホテルに到着するまでの記憶は断片的である。タニアに手伝ってもらって車の中で服を着替えた事、どこかの空港に着き車から降りた事、飛行機に座っている記憶、夜のモスクワについてタクシーに乗り込んだ事などはそれぞれの節目で覚えている。しかしその節目を越える毎に誰かに背中をつかまれ、再び眠りの世界に引きずり込まれてしまった。いくつか夢を見たが、覚えているのは一つだけ。小さい頃の夢だった。僕は冬の小学校の凍ったプールに石を投げていた。氷の上を滑る石の音がきれいで、何度も何度も石を投げ続けた。キーンという澄んだ音が、何度も耳の奥に響いた。

ホテルで目を醒ました時、僕は医者の手当てを受けていた。ロシア人の医者が僕の腕に包帯を巻き、タニアに何事か言っていた。「手を開いたり、握ったりしてください」とタニアに言われ、その通りに動かしてみた。上腕部に痛みが走るものの、指はちゃんと動くので神経は問題無さそうだった。「弾は貫通しているし、血管や神経も大きく傷ついてないので、肉が取れただけだ、と言っています」タニアが通訳してくれた。それから医者がまた何か言った。「ただし、痛みがしばらく続くのと、傷は一生残るでしょう、といっています」僕は黙って頷いた。一通り診察が終わり、医者は僕に向かって「お大事に」というような意味のロシア語を言った。僕はなんて言って良いかわからず、とりあえず「ミシャラク」と答えた。医者はタニアと一言二言交わしてから部屋を出た。そしてタニアと僕はまた二人きりになった。
「今は、何時?」と僕は聞いた。窓の外はまだ明るかったが、それが朝なのか昼なのか夕方なのか、僕には判断がつかなかった。
「夕方の6時ですよ」とタニアが答えた。
「6時・・・僕はいったい何時間寝たんだろう」僕は言った。
「昨日ホテルにチェックインしたのが夜の8時過ぎでしたから、20時間は眠っていたことになりますね」
「20時間か、すごい。最高記録だよ」僕は欠伸をしながら言った。
「食欲はありますか?」タニアがぼくに尋ねた。服を着替えたらしく、黒の半袖のニットに黒のパンツという、いつものタニアの格好に戻っていた。
「そんなに無いけど、食べようと思えば食べれる」僕は答えた。いつの間にか僕も清潔な白いTシャツにスエットという服装に変っていた。寝ている間にタニアが換えてくれたのかと思うと、少し気まずく感じた。
「じゃあとりあえず何かご飯を買ってきますね。それから、色々と相談しましょう」タニアがバッグを肩にかけてそう言った。
「分かった。ありがとう、タニアさん」僕はベッドに寝たままタニアを見送った。寝返りを打つと全身くまなく痛みが走った。撃たれた腕、蹴られた肩、あばら、殴られた頭、頭突きされて腫れた鼻、階段から落とされたときの腰と背中の打撲・・・この2日間で10年分ぐらいの怪我をした気分だった。もっとも拳銃で撃たれる傷なんて、今まで自分の人生に存在するなんて想像もした事がなかった。不意にトイレに行きたくなり、小便をした。尿が出るにまかせて体の芯に残っていた緊張も消えていくようで、僕は声にならないため息を漏らした。

しばらくしてタニアが食料品の紙袋を抱えて帰ってきた。テーブルに広げられた食べ物を見た時は特に感じなかったが、一口ニシンの酢漬けを口に入れた瞬間に眠気が吹き飛び、どこかに封印されていた食欲が溢れ出てきた。殆ど口を利くのも忘れ、バターを塗ったパン、ピクルス、魚のフライ、ボルシチのスープ、ピロシキ、巨大なウインナーといった食べ物に食らいついた。考えてみれば昨日の朝に食べたパン以来、水を何度か飲んだきりで何も食べていなかった。僕は無心で食べ物を口に詰め込み続けた。タニアは少しサラダに口をつけただけで、後はコーラを飲んでいた。
「これからどうしようか」一通り食事を終え、満腹のお腹をさすりながら僕は言った。「とりあえず日本大使館に行ったほうがいいよね」
「そうですね」タニアが少し難しい顔をして言った。「今頃カスミアで景浦さんが失踪したことはばれているでしょうから、国内の全ての国境管理所に連絡が行っていると思います。当然我々が捕まった国境にも話は行っているでしょう」
「それは、サルキア政府からロシアに捜索の要請が来るという事かな」脳裏に国境での恐怖が蘇った。タニアが答えた。
「それはないと思います。仮に景浦さんがロシア人と偽って出国したということが判明しても、一度は管理局の局長が出国を許可しているので、サルキア政府がわざわざそのミスを認めるということはないでしょう」
「そうか、じゃあ、また捕まるってことはないわけだね」僕は少し安心して言った。
「それに、サルキアもロシアとの関係に気をつけていますから、コンスタンチン・ミハイロビッチ・ニキーチンの引渡しを求めるという事はないでしょう」
「誰だっけ、それ?」
「景浦さんの今の名前ですよ」そう言ってタニアは笑った。
「そうだった」僕も笑った。
「でも」タニアがまた不安そうな顔を見せた。「日本大使館に行くとなると、景浦さんはサルキアのことを話さなくてはいけませんし、景浦さんのパスポートがカスミアにあるということを証明しなくてはいけません。となると日本大使館はサルキア政府に照会を求めることになるでしょうから、最終的にサルキア政府が日本大使館に対して景浦裕太という日本人の引渡しを求めてくる可能性はあります」
「なんで?拉致されたのに?」僕は少し大きな声を出したので左腕の傷が痛んだ。
「現在の景浦さんの身柄は、正確にはサルキア政府の元にあるからです」タニアは冷静に説明を続けた。
「しかも個人の自由意志で交流大使の契約を結んでいるので、完全な拉致とは言えません。鎖国状態となっても、契約上はサルキア政府に景浦さんの身柄を管理する権利があります」タニアは以前にアニヤが言った事と同じ説明をした。
「でも、日本大使館だってその要求にすぐに応じるとは限らないでしょう?僕がもう日本に戻りたいと言ってるんだから」僕は少し希望を込めて反論した。
「そうですね。ただし国家間のやり取りになりますから、日本帰国の手続きが難航する可能性はあります。そうなると、ある日モスクワの通りを歩いている時に突然車に乗せられて、気づいたらサルキアの国境を越えている、という事態も起こりえます」
「タニアさん、怖いこと言うね」と僕は言った。
「可能性の話です」タニアは言った。
それからしばらく我々は黙り込んだ。タニアは立ち上がり、食事の後片付けを始めた。僕は無償にビールが飲みたくなったが、今の体には間違いなく悪いことは分かっていたので、コーラを飲んだ。
「一番早いのは、このロシア人のパスポートで明日にでも日本行きの便に乗る事ですね」
タニアが紙皿をゴミ箱に捨てながら言った。
「それって、それこそ犯罪の匂いがするんだけど大丈夫かな。だって国籍を偽って日本に入国するんでしょう?偽証罪とか、不法入国とか、何か罪に問われるんじゃないかな」
「さあ。私は日本の法律は良く分からないので」タニアが答えた。それは日本人である僕も同じ事だった。
「ただとりあえず日本に帰れる事は確かです」そう言ってタニアはティッシュペーパーでテーブルを拭いた。
「それはそうだね」僕は言った。それから自然な流れで、僕はずっとタニアに聞きたかった質問をぶつけた。
「タニアさんは、この後どうするの?」
「そうですね」タニアは答えたが、その後の言葉は無かった。
「さすがに、もうサルキアに戻る事は出来ないでしょう?」僕が言った。
「そうですね」タニアはまた立ち上がりテーブルを見回したが、彼女がやる仕事はもう残っておらず、そのままベッドに腰を下ろした。
「ロシアにこのまま住むか、東欧の自動車工場にでも勤めるか、何かしら方法はあるでしょう」
「ロシアは危ないんじゃない?それこそ、サルキア政府に捕まる可能性があるかもしれないし。それに自動車工場なんて、タニアさんが働いているところが想像つかないよ」
「そうですね、まあ考えてみます」そういうタニアの声に力は無く、表情にもいつもの快活さが消えていた。しばらく沈黙が続いたが、僕は勇気を出して以前から考えていた言葉を口にした。
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