温かい光景・・・

文字数 2,489文字

「タニアさん、よかったら、日本に来れば?」
 僕がそう言うとタニアは少し面食らった様子で答えた。
「日本ですか・・・それは行けたら一番いいですけど、もうサルキア交流協会もないから、私を保障してくれるところがありません。不法入国で、ロシアかサルキアに送り返されておしまいです」
 僕は前から用意していた言葉を言った。
「それなら解決法がある。もしタニアさんさえよければ、例えば僕と一緒に暮らすことにする、というのはどうだろう。つまり一時的に僕がタニアさんの保証人になるということ」と僕は言った。
「僕も仕事は無いけど、本気で探せば、次は見つけられそうな気がする。腕もそのうち治るだろうし」
 タニアは僕の言葉に何も答えなかった。
「撃たれたけど腕でよかった。中途半端に小指とか当たってたら、仕事見つけづらいしね」僕は沈黙が続くのが嫌で無意味な言葉を続けた。
「タニアさんにとっても、いい選択だと思うんだ。確かに日本には未来が無いかもしれないけど、暮らす分にはいいところだよ。気候はいいし、便利だし、平和だし・・・安くておいしいもの、可愛いものも沢山あるよ」
タニアは無言のままだったが僕は続けた。
「百円ショップもあるし、デパートの化粧品の試供品も、スーパーの試食もなんでもある」
 僕がそう言うと、ようやくタニアが少し笑顔を見せた。
「景浦さんの提案、ありがとうございます。とても楽しそうです。でも」
「でも?」僕は聞き返した。
「就労ビザを取るのは大変です。私自身仕事が見つからなければ、いずれは日本を出ないといけません」とタニアが言い、「景浦さんの提案はうれしいですけど」と付け加えた。
「それなら」と僕は言った。
「僕と結婚してくれないか」僕はタニアの目をまっすぐに見てそう言った。
「冗談じゃなくて」
 タニアは少し困ったような顔を見せた。それから何か言葉を探す素振りをした。日本語が出てこないのか、それとも本当に言葉が選べないのか、黙ったままだった。
「本気で言ってるんだ」と僕は言った。
「僕は、タニアさんと結婚できたら、本当に嬉しい。仕事はなんでもいい。二人で生きていけるだけの金を、何とか稼ぐから」僕はタニアの両手を取った。
「こんな時に、こんな告白をするのはおかしいってことは分かってる。でも、本当に気づいたんだ。僕はタニアさんと暮らして生きたい。そしていつか、僕らの子供と暮らして生きたい。僕が散々探していたものは、そういうことなんだと思う。会社を辞めて、サルキアに来て、交流大使をやって・・・銃で撃たれて・・・今ようやくわかったんだ。そのためなら、僕は必ず生きていける」
 タニアはしばらく黙っていたが、不意に大きく首を振り、「ああ」とため息を漏らした。それから「ありがとうございます」と言った。目に少し涙が浮かんでいた。
「まずはどこか二人で暮らす家を見つけるんだ。東京か横浜か、どこでもいいからアパートを借りよう」と僕は言った。
「私、横浜好きですよ。海の近くの公園とか、とても楽しかったです」タニアが少し鼻声で言った。僕は立ち上がり、タニアの横に腰を下ろした。
「山下公園のことかな。それか、金沢八景かな、まあいいや、両方行こう。休みの日に弁当を持って、他にも色んなところに。沢山連れて行ってあげるよ」僕は言った。
「でも、東京や横浜は家賃が高いでしょう。私たち、お金ありませんよ」タニアが小さく鼻をすすりながら言った。
「探せばいくらでも安いアパートはあるさ。狭くて古いかもしれないけど。それは我慢しなくちゃ。お金は、実はアニヤさんが振り込んでくれたお金がまだ日本の銀行に少し残ってるんだ。それで敷金と礼金を払えば、アパートは借りられる。贅沢は出来ないかもしれないけど、暮らしていくことはできるさ」僕はそう言ってタニアの肩に、撃たれていないほうの腕を回した。タニアは僕の肩に頭をもたせた。
「じゃあ、私も働かないと。マクドナルドとか、スーパーのレジとか、どこか雇ってくれるでしょうか?」タニアが少し笑って言った。目じりにはまだ少し涙が残っていた。
「出来るさ。最近日本は外国人多いから。それにそれだけ日本語が話せるんだから、何かしら仕事は見つかるよ。いやその前に、少しゆっくりすればいい。今まで、祖国のために自分を捧げてきたんだから、今度は自分の好きなことをすればいいんだ」僕は興奮してまくしたてた。
「私の好きなこと?」とタニアは言った。
「そう、なんでも、タニアさんの好きなこと。あまりお金は無いけど」と僕は言った。
「なんだろう、私の好きなこと・・・」しばらくタニアは黙っていたが、僕の肩に頭を持たせたまま「お花見も行けますか?」と言った。
「行ける行ける。何回だって行ける」と僕は言った。
「花火も?」
「花火も行こう。僕が早く行って特等席を取っておく」
「いいなー」とタニアが言った。そこで僕は初めてタニアの方を見た。そこにいるのは、僕をスカウトしたサルキア交流基金の職員では無かった。サルキアの政府機関に従事する女性工作員の姿ではなかった。てきぱきと作業をこなすガールスカウトのリーダーでもなかった。そこにあるのは、異国での生活を夢見る、不安定で無防備な笑顔を浮かべた、一人の女性の姿だった。
「いつか、子供ができたら、3人で公園に行こう」僕は前を見たまま言った。「山下公園でも、それかどこか近所の公園でも」
「お弁当を持って」タニアが言った。
「そう、タニアさんが作ったお弁当を持って」僕が言った。
「私はセブンイレブンのお弁当好きです」タニアが言った。
「いいよ、セブンイレブンでもローソンでも。なんでもいい」と僕は言った。「きっとそういう日が来るんだ」僕はタニアの肩に回した腕に力を込めた。
「必ず、来る」と僕は言った。
「はい」タニアは僕の肩に頭を載せたまま答えた。
 僕はタニアの肩を抱きながら、タニアと、その子供と一緒に、僕はどこかで暮らしている。3人で、春の花見や夏の花火に出かけている。3人で、正月の御神籤を引いている。そんな夢のようなことを、僕は本気で想像した。それは気が遠くなるほどに、暖かい光景だった。
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