いつか違う人生で・・・

文字数 2,942文字

 その後タニアが旅行会社に連絡し、翌日発の成田行きのアエロフロート便を予約した。チケットが取れるといよいよ日本に戻る事が現実的になり、僕は興奮するような恐れを感じるような、不思議な感情に襲われた。タニアはその知り合いにお金を渡すといって部屋を出た。二人で日本行きを決めた今、タニアと離れるのが怖い気もしたが、仕方ないので部屋で待っていた。
一人でいる間、様々な不安や、煩雑な手続きなどが頭をめぐったが、たかが一度きりの人生、どうにでもなるさと一人胸の中で啖呵を切った。逆にこれからの人生を考えれば考えるほど、清清しい気持ちで一杯だった。恐怖感や茫漠とした不安はなく、澄み切った心情がそこにはあった。京都の山寺でも、隠遁生活でも見つけられなかったものをついに得た気分だった。生きる意味?それは簡単だ。愛する女性と、そして未だ見ぬ子と、自分の好きな、自分の国で暮らすこと。それだけで充分だった。そのためであれば、何でも出来る気がしていた。昔小説で読んだ「100キロだって走れる」という言葉の意味が分かった気がした。一種異様なやる気が、僕の心と体を支配していた。

 激しい興奮の波が過ぎ、再び眠気が訪れた。しばらくソファで横になっているとタニアがホテルに戻ってきた。無事飛行機のチケットは取れたとのことだった。そして、これから明日の準備をするので、先に寝ていてくれと言った。僕は眠る前にタニアにキスをしたいと思ったが、余計な事をすると何か魔法が解けてしまうのではないかと心配になり、その気持ちを抑え、「おやすみ」とだけ言って先にベッドにむかった。
「あ、景浦さん待ってください」タニアが僕を呼び止めた。
「どうしたの?」僕が言った。
「お薬。お医者さんからもらいました。寝る前に飲んでください」と言ってタニアは水と白い錠剤を二つ僕に渡した。僕は「ありがとう」と礼を言って薬を飲み込んだ。それからベッドに入り、再び眠りの世界に落ちるのを待った。しかし待つ必要は無かった。最初は床に底が開いたのかと思った。いや違う。自分の体だけが、どんどんベッドに沈み込んでいるのだ。横になったまま、まっさかさまに落ちていくのが分かった。目を開けようとしたが、開かなかった。なんだこれ、と言おうとしたが口は動かず、僕は意識を失った。

 何一つ夢は見なかった。タニアに体をゆすられて目を醒ました時も、一瞬目をつぶっただけだと思った。先ほどベッドに入ってから、その続きが今であると、朦朧とした頭で考えた。
「私が見えますか?」
タニアの声が聞こえた。サイドテーブルの小さな明かりだけがついていて、大きなカバンを手に持ったタニアの姿のシルエットが逆光に映し出されていた。
見えるよ、と言おうとして、口が動かないことに気づいた。
「大丈夫、体と口が不自由でしょうが、少し眠ったらいつも通りになります」とタニアが言った。「そういう薬ですから、心配しないでください」そう言ってタニアは言葉を続けた。
「飛行機はちゃんと予約できています。19時40分発のアエロフロートです。念のために3時間前には空港のカウンターに行ってください。ロシア語は必要要りません。私のほうからうまく説明しておきましたから、英語で話してください。サルキア語はダメですよ」タニアはそう言って少しだけ笑った。僕は体を動かそうと必死にもがいたが、それは無駄な努力だった。
「さっき、色んな話をして、とても楽しかった。景浦さんと日本に行けたら、本当に楽しかったでしょうね。これは、うその気持ちではありません。」タニアがバッグを床に置き、僕の傍に腰掛けた。
「私は、ご存知のように、今まで祖国に尽くす事だけを信じて生きてきました。それ以外のことを、考えた事がありません。だから国家の道から外れた事をしてしまったのは、今回が初めてでした。それは、個人という存在が、時として国家と同じくらいに重要なものであると、私にも理解できたからです」とタニアは言った。
「あの夜、景浦さんの話を聞いていて、恥ずかしい話ですが私にもようやくそれが分かりました。だから私にできることで、景浦さんの個人の意思を尊重したかったし、何より私がしたことの償いをしたかった。それに、そして、ひょっとしたら、今までと全く違う人生を見つけられるかもしれない。そして自分の意思で自分のために生きることが、本当の幸せなのかもしれない、そんなことを考えて、カスミアを出て景浦さんと一緒にここまで来ました。それは、私の正直な気持ちです」
そこまで話してタニアは大きく息を吐いた。
「でもやっぱりダメでしたね。結局は国境でアニヤさんが私を見つけた。こうなってしまったら、私はもうどこにも行けません。最後の最後で、国家は私を放してくれなかった。実は昨日モスクワのイミグレーションで、サルキア・ロシア交流基金の担当者が私を待っていました。私の帰国と引き換えに景浦さんのアエロフロートのチケットを手配してくれたのは彼らです。つまり」そう言ってタニアは鼻をすすった。「私はやはり、死ぬまでサルキアの人間だということです」
僕はただタニアが話すのを聞くことしか出来なかった。ひっきりなしに睡魔が襲い、油断すると今にも意識を失ってしまいそうだった。ただ事態がもう、どうしようもない状況になっていることだけは理解できた。

 しばらく黙ってからタニアが僕に聞いた。
「景浦さんは、生まれ変わりを信じますか?」
 僕はとにかく何か、言葉を口に出そうとしたが、顎が震えるだけで言葉にはならなかった。タニアは僕の胸に手を置いた。
「私は今までそんなことを考えたことはありませんでしたが、今は少し信じるようになりました」タニアは一人で話し続けた。
「私たちがいつか、全く今と関係のない時代に、関係のない国で出会う事ができたら、きっと本当に幸せなことだと思います」
タニアの指が僕の頬に触れた。
「景浦さんがさっき言ってくれた事は、本当にうれしかったし」
タニアの指がゆっくりと頬を滑った。
「さっきの私は、本当に、幸せでした」
僕は腕を伸ばしてタニアを掴もうとした。当然体は言う事を聞かずなかった。せめて叫び声を上げたかったが、それすらも叶わなかった。
「いつか違う人生で再び会えることを祈って、今回の人生をお互い過ごしましょう」そう言ってタニアは僕の顔を見下ろし「それぞれの祖国で」と付け加えた。
 何者かが、暴力的なまでの力で僕の背中を引っ張り、深い淵に引きずり込もうとしていた。それでも僕はその力に必死に抵抗し、タニアの目を見つめた。最後までその顔を見ていたかった。タニアの顔を見つめ続けていると、両目から涙が流れた。熱い液体がこめかみを伝って、耳の上を濡らすのが分かった。タニアは僕の目じりを指でそっと拭った。僕は全身でその指の感触に集中した。
「さようなら」タニアは日本語でそう言ってから僕の唇に唇を合わせた。その一時はほんの一瞬にも、永遠にも感じられた。それから唇を離し、僕の耳元で「マクシミセス」と言った。その瞬間、僕は背中から淵に引きずりこまれた。届くことのない手を伸ばしながら、タニアの後ろ姿をすぐ近くに感じながら、僕は体ごとスローモーションで闇に沈み込んでいった。
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