過ちは一度だけ・・・

文字数 2,201文字

「諸君も承知の通り、我が国は現在鎖国状態に入ったばかりであり、国際的な立場は非常に不安定な状況といえる。特に隣国であり、今後我が国の国家戦略において極めて重要な役割を持つロシアとの関係構築は、サルキア国家として大命題の一つであり、かつ最大限の注意を払わなくてはならない事項である」
司令官、眼鏡の男は直立不動のまま、局長の話に耳を傾けていた。
「従って、仮に出国が遅れた不審な行商人がいたとして、100%亡命農民との確証がなく、実際にロシア人であった場合、諸君らに責任を取ることは不可能である。また、仮にその男を射殺していた場合、サルキア政府及び大統領の立場は極めて不利なものとなる。諸君らは果たしてロシア政府から正式な抗議を受けた場合の我が国のリスクを理解してそのような行動を取ったのか。私は今ここで、諸君らに熟考を要求する」
 3人の兵士はみな両手を腿の脇に置き、直立不動を続けていた。眼鏡をかけた軍曹は僕に負けないくらい青い顔をしていた。しばらくの間を置いて、局長が続けた。
「今回は私の方からロシア当局へは連絡を取っておく。男の傷についても。私の方から状況を説明しておく。まずは速やかにその2人を通過させるように」
「了解いたしました」司令官が敬礼をして答えた。軍曹と若い兵士も続いて最敬礼をした。
最後にモニターの中の局長が「女の方を呼べ」といった。タニアがテーブルを回り、テレビモニターの見える席に座った。
「あなたのビザは1週間過ぎているようですな」モニターの中からタニアに話しかけるその声は、明らかに、聞き覚えのあるものだった。
「はい」タニアの声が聞こえた。
「次回からは気をつけるように。そうしないと、あなたの国に迷惑がかかりますから」その声は言った。
「はい、気をつけます」棒読みでタニアが答えた。
「あなたがロシア人であれ、またはそのほかの国家の国民であれ、自分の国家にとってマイナスになるような行動をとってはいけない。分かりますね」
「はい」
「人は祖国に迷惑を掛けたり、不利益をもたらしたり、ましては裏切るようなことは、決してしてはいけない。違いますか」
「はい」タニアはもう一度答えた。
「過ちは一度だけです」とその声は言った。
タニアは黙って頷いた。
「あなたが、今後道を踏み外したり、不適切な行動を取る事の無い様、私は願っています。それでは、お気をつけてお戻りください。あなたと、あなたの国家に幸があらんことを。マクシミセス」
「マクシミセス」小さな声でタニアが答えた。
局長とタニアの会話が終り、テレビが切られた。兵士は僕の縄を解いた。それから立ち上がらせて、「歩け」と命じた。司令官が無言で僕らをエスコートした。タニアが側に寄って来て僕の体に手を回し、撃たれていない方の手を強く握った。僕もその手を握り返した。
医務室で傷をもう一度確認し、注射を何本か打たれてから、僕らは改めて自由の身となった。医務室から出口までの廊下を、僕らはゆっくり、ゆっくりと歩いた。そして今度こそ、誰にも何も言われる事なく、ドアノブに手をかけ、外界へと復帰した。真っ青な空と入道雲が僕らの帰還を祝っていた。古ぼけた白いサーブが僕らの帰りを待ちわびていた。僕はあたり一面に広がる緑の匂いを大きく吸い込んだ。そうして僕らは鉄条網の長城を超えた。

「最寄りの空港からモスクワに飛びます」ロシアの道を運転しながらタニアが言った。それから「腕、痛いですか?」ちらっとこちらを見た。僕のセーターは血で固まっていた。「なんで、あんなことしたんですか」タニアが言った。
「賭けをしたんだ」僕は答えた。「普段は競馬もパチンコもしないんだけど、今回は、うまく行ってよかった。まさか、撃たれるとは思わなかったけど」
「本当危なかった・・・」タニアが搾り出すような声で呟いた。「もし腕ではなくて、頭や心臓を撃たれていたらどうするんですか。本当に、危ない・・・」その声は本心から発されているようだった。一方僕の方は無事サルキアを脱出した事、ピンチを自分の判断で行動し、結果的に切り抜けたことで誇らしくて一杯だった。腕の痛みも殆ど感じなかった。「予想通りだったよ」と僕は言った。「星が二つだったから、思いついたんだ。三つ以上が将校だって聞いてたから・・・」
窓の外にはサルキアと変らない丘陵地帯が続いていた。しかしそれがロシアである事は間違いのない事実だった。流れる車窓を眺めていると、ふと目がぼやけるような感覚があった。
「ほかに、誰か上の人間が、いると思って、騒ぎを起こせば、何か、なんとか・・・なるかなと・・・思って・・・あれ・・・?」
呂律が怪しくなっていた。それから突然まぶたが落ち、目が開かなくなった。
「おれ、すごい、ねむいんだけど・・・」。
「注射を打たれたからですよ」タニアが答えた。
「そうか・・・でも、良かった。まさか最後の最後で助けてもらえるなんて・・・」
「ええ」とタニアが言った。
「まさか・・・ここでアニヤさんに・・助けてもらうなんて・・・」
「ええ」
 そこから先は自分が何を言ったのかも覚えていない。車の振動に溶かされるように、僕の意識はますますあいまいになっていった。それでも気分は良かった。酔っ払って眠る時のような感覚だった。眠りに落ちる直前、タニアが僕にサルキア語で何か言ったが、僕にその言葉を聞き返す余力は無く、深い闇に吸い込まれていった。
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