格闘・・・

文字数 2,581文字

 僕はその時、まだ手錠もされていなければ、縄で体を縛られてもいなかった。若い兵士に腕をつかまれていたが、そんなに強い力ではなかった。時間にして、ほんの0.5秒ぐらいのことだっただろう。僕は若い兵士の腕を振り払い、眼鏡の男の背中めがけて駆け出し、後ろから思い切りタックルを浴びせた。眼鏡の男の体は前のめりに吹っ飛び、僕は勢いよく男の背中に倒れこんだ。「貴様!」男が叫び、僕達の体が二転三転した。動きが止まり、僕は男を腹に乗せる格好で、 男の首を下から締めた。タニアの悲鳴が聞こえた。「離せ!」という若い兵士の声も聞こえた。僕の上に乗った眼鏡の男は何か言葉にならないうめき声を発した。「景浦さん、やめて、やめて!」再びタニアの声も聞こえた。僕は本気で殺すつもりで眼鏡の男の首を渾身の力で締め付けた。「離せ!」もう一度若い兵士の声が聞こえた。眼鏡の男が首を振り、僕の鼻に頭突きを食らわせた。僕の腕が少し緩み、男と僕の体が入れ替わった。僕が背中から男に覆いかぶさるような体勢になった。「離せ!」また若い兵士の声が聞こえた。それから何か固いもので後頭部を殴られたのが分かった。それでも僕は両腕で男の首を締め続けた。「離せ、離さんと撃つぞ」兵士の声が聞こえた。僕は離さなかった。眼鏡の男がまた首を振り、また僕の鼻を強く打った。口の奥に血の味がひろがった。それからパンという音が聞こえた。同時に今までの人生で経験した事のない痛みが僕の左腕に走り、タニアの悲鳴が聞こえた。痛みは一瞬で僕の体を支配し、全身の神経が麻痺したように、僕はだらんと床に仰向けに倒れた。眼鏡の男が荒々しく息をつき、血走った目で僕を見下ろすのが見えた。意識はあったが、体が動かなかった。恐怖は無かった。ただ信じられないような焼けるような激痛が僕の体を駆け巡っていた。
「この野郎!」眼鏡の男の叫び声が聞こえてブーツが僕の肩やあばらを蹴った。衝撃が体に走るの分かったが、しかし不思議と痛みは感じなかった。男の蹴りを受け続けていると、ようやくもう一つの声が聞こえた。
「貴様ら!」どこかの部屋から出てきた男が立っていた。「国境管理所内で発砲するとは、軍法会議ものだぞ!」男は叫んだ。
「司令官、これには事情がありまして!」眼鏡の男が興奮した口調で事情を説明し始めた。言葉はもう聞き取れなかった。タニアが泣いているのが見えた。他の兵士も何人か出てくるのも見えた。
「出入国局本部とつなげ」司令官らしき男は苛立った口調で指示を与えた。それから僕は他の兵士に肩を担がれ、医務室らしきところに運ばれた。腕は焼けるように痛んだ。そのあまりの圧倒的な痛みに、僕はしばらく何も考える事が出来なかった。脳も、心も、全身も、全てを痛みに支配されていた。軍医らしき医者は僕のロシア人風セーターを脱がせ、機械的に僕の傷をチェックした。僕もその時初めて自分の傷を初めて見た。左腕の力こぶのあたりが血まみれになっていた。出血はおもったよりひどくなかったが、その部分の肉がえぐり取られているのが見え、急激に顔のあたりの血が引くのを感じた。
「弾は抜けた。動脈もそれている」そんなような事を医者は言った。それから無言で傷口を消毒した。ほとんど痛みは感じなかった。それよりも眩暈がひどかった、医者は上腕部をきつく締め上げ止血をし、「死ぬ事はない」というようなことも言った。それから注射を一本打ったところで、違う兵士が来た。
「こっちに来い」僕はなんとか言葉が分からない振りをしたが、実際分からないも同然だった。傷の痛みが、圧倒的過ぎたのだ。兵士は苛立たしげに僕の手を取った。連れて行かれた先はテレビ会議室だった。部屋にはすでにタニアがいた。彼女は頬に涙の跡を残したまま、今まで僕が見たことのないような表情を浮かべてテーブルの端の席に座っていた。僕もその横に座るよう促された。部屋に入った瞬間、僕は突然猛烈な吐き気に襲われ、そのまま床の上に吐いてしまった。司令官は舌打ちをし、他の兵士を呼んで始末をさせた。続いて急激に寒さを覚え、全身が震えだした。再び椅子に座ったものの、震えが止まらず、歯がガチガチと音を立て、何度も椅子からずり落ちそうになった。兵士達は僕の様子を意に介することなくテレビ会議システムを起動させた。彼らがモニターの正面に、我々は丁度後ろ側の画面の見えない位置に座らされた。司令官がカメラを調整し、「見えますか?」と呼びかけた。
「見える。報告せよ」という声がモニターの裏側から聞こえた。
司令官はそれを聞いて席を立ち、報告を始めた。横に眼鏡の男、僕を撃った若い兵士も並んだ。
「こちら北部第*地区第××国境管理所。ロシア人の夫婦と名乗る男女を2人組の身柄を確保。不審な点があるため、ご指示を仰ぎたくご連絡いたしました。」
 しばらくの沈黙の後、モニターから回答が聞こえた。
「局長決済になるため、しばし待機せよ」
それから気の遠くなるような時間が過ぎた。実際には5分かそこらだったのかもしれない。それでも僕には途方もなく長い時間に感じた。司令官始め3人の国境警備隊の兵士は直立不動でモニターの前に立ち続けた。途中、僕は何度か気を失い椅子から落ちた。その度兵士に乱暴に起こされ、椅子に座らされた。それが何度か続いたため、最後は兵士がロープを持ってきて、僕の体を椅子に縛り付けた。何度かタニアの顔を見たが、ずっと下を向いていた。左腕の傷が勢いを増し、僕は何度かうめき声を漏らした。しかし、何も考える事はなかった。僕は痛みと寒気と吐き気に苦しむ一つの物体でしかなかった。そしてようやく局長の声がモニターから聞こえた。
「不審者の映像を出せ」
 兵士がビデオカメラを回転させ、僕とタニアの前で固定した。局長はしばらく黙っている様子だったが、司令官に質問をした。
「何故負傷している?」
 聞き覚えのあるような声だった。司令官はビデオカメラを自分に戻し、緊張した様子で報告を始めた。不審な点があり取り押さえたところ、男の方が暴れだし、軍曹に対して攻撃を加えたため、やむなく国境管理兵が発砲した。不測の事態であり、軍曹の安全を確保するためには致し方ない処置であった・・・そんな事を早口に、かつ真剣な口調で伝えていた。報告を受けて、しばらく間をおいてから局長が話し始めた。
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