優しい笑顔・・・

文字数 1,738文字

「明後日から新規業務が始まるので、書類を渡しに来ました」いつもの通り、不機嫌なんだか怒ってるんだかわからない表情でネオミが言った。
「本当ならタニアさんが来るはずだったのですが、今日は彼女は体調が悪いので、私が来たのです」ネオミは書類の中身をデスクに広げながら、僕の方を見ずに言った。
「そりゃどうも。ご苦労さま」と僕は言った。黙々と書類を確認するネオミの後姿を見ながら、ふとタニアが繰り返し「ネオミさんは貴族だから」と言っていた話を思い出した。貴族の出身で、親が軍の幹部なら、日本人を一人、こっそり国に帰すことぐらい出来るのではないだろうか。またいずれにせよ、今後サルキア生活が続くとしたら、彼女と近づいておく事はどちらに転ぶにせよ、無駄にはならないはずだと僕は考えた。
「ネオミさん、よかったらお茶でも飲む?」僕はネオミに声をかけた。
「え?」ネオミが驚いた声を出した。
「日本の緑茶があるんだけど、よかったら飲んでいく?」
「はい、ありがとうございます」少しの間の後、意外にもネオミは笑顔を見せてそう答えた。
僕は湯を沸かし、ティーバッグで二人の分の茶を入れた。それから僕から当たり障りのない話題をいくつか話しかけたが、特に盛り上がらなかった。そこで僕は話題の切り口を思いきって変えた。
「そう言えば、随分前にネオミさんを迎えに来た人、婚約者なんだってね。格好いい人だね」
「ご存知でしたか」とネオミが言った。
「タニアさんが教えてくれたんだ。将校さんなのかな。すごいかっこいい人だったし、BMWなんか乗ってて、すごいね。」そう言うとネオミが不機嫌そうな顔になったので、一瞬余計な事を言ったかと思ったが、ネオミが予想に反する反応を示した。
「私はあの人と来年結婚するんです」
「よかったね」と僕が言うと、「よくないんです」とすかさずネオミが答えた。
「何で?」僕は聞いた。
「別に好きじゃないから」ネオミが答えた。
「え、そうなんだ」僕は何と言っていいか分からず、相槌だけ打った。
「私たちの家と、向うの家は昔から協力関係にあるのです」ネオミがティーカップを両手に持ちながら説明を始めた。「協力というのは、いろんな事です。昔は戦争の事や領地の事。今は、ビジネスや政治の事など・・・カスミアは今でも私たち貴族が政治や軍の事を決めています。だからそれぞれの貴族の家の関係はとても大切。その関係を強化したり、約束する為に、若い人達は結婚をします」
「それは、昔のヨーロッパみたいだね。ハプスブルク家とか、マリー・テレジアみたいだ」僕がそう言うとネオミが頷いた。タニアの言うところの緑がかった貴族の髪がネオミの頬にかかった。
「ネオミさんは、誰か他に、好きな人がいたのかな」僕は尋ねてみた。すると少しだけネオミの顔が明るくなった。
「はい、いました」とネオミが答えた。
「へえ、他の友達とか?」と僕は聞いた。
「いえ、外国の人です」とネオミが言った。
「そうか。そうだよね、ネオミさんなら色んな外国人と知り合う機会も多いだろうしね」
「はい・・・でも、結局はこういうことだから、自分に好きな人がいてもそれはどうしようもないことです」と言い、それから再びいつもの表情になった。
「それは、残念だね」と僕は言った。同時にそのネオミの表情から、ささやかなティーパーティーが終わった事を悟った。

「お茶、ご馳走様でした。私はそろそろ帰ります」と言ってネオミは席を立った。部屋を出る前にトイレを貸してほしいと言うので。僕は奥の洗面所を案内した。ネオミが洗面所に入り、少しして「景浦さん、電気がつきません」という声が聞こえた。
「さっきまでついたはずだけど」そう言って僕が見に行ってみると、洗面所で突然ネオミに正面から抱きつかれた。そして、どうしたの、と尋ねる間もなくキスをされた。長い事忘れていた、恋人同士のようなキスだった。唇を離した瞬間、部屋から差し込む光でネオミの顔がうっすらと見えた。初めて見る、優しい笑顔だった。
「マクシミセス」
 そう言ってネオミはもう一度キスをして、部屋を出て行った。僕はあっけにとられ、しばらく部屋の椅子に腰をかけていた。ネオミの唇と舌の感触が口元に残っていた。それから数分後、最後の客が現れた。タニアだった。
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