第66話 東北戦争、徴兵七番隊

文字数 7,214文字

 ここで一応、北越戦争と東北戦争の概要について触れておきたい。

 新政府が討伐の標的としていた徳川慶喜が一命をとりとめたことによって、新たな「血のいけにえ」が必要となった。
 その新たな標的は、やはり、幕府を守るために必死で働いた会津藩しかいなかった。
 桑名藩も一応その一つとして選べないこともないのだが、すでに城は落ちており、しかも東国の雄藩として名が轟いていた会津藩のほうが、より「血のいけにえ」にふさわしい。
 このいけにえの儀式によってようやく自分たちの「正義」を全国民に知らしめることができる、と新政府は目論んだのだ。
 最初、新政府は仙台藩を使って会津藩を討たせようとしていた。そして仙台藩も当初は新政府の命令を受けいれる姿勢を見せていた。

 しかし仙台藩は途中で会津藩の味方につき、新政府と戦う道を選んだ。
 同じ東北の会津藩に同情した、という理由ももちろんあったであろう。
 そして新政府との開戦のきっかけを作ってしまったのは(うるう)四月二十日に起こった「長州藩士、世良修蔵の暗殺」であった。
 世良は仙台藩に会津追討を督促していた新政府の参謀だったのだが、その世良が書いた手紙(十九日付)に「奥羽皆敵」云々といった仙台藩も敵視する文言(もんごん)が書かれていたため、その手紙を盗み読みした仙台藩士が激高し、世良が以前から横暴な態度を取っていたことも相まって彼を殺害してしまった。それで仙台藩は後へ引けなくなって会津藩と共に新政府と戦う道を選んだのだ。
 と一般的には言われている。
「とにかく世良修蔵一人が悪かったのだ。すべては世良のせいなのだ」
 ということにしておけば、薩長びいきの人も、東北びいきの人も、皆が丸く収まる。
 じゃあ、そういうことにしておけば良いじゃないか、とも思うのだが、筆者も勝蔵同様いくぶん天の邪鬼な性癖があり、世間の常識をそのまま素直に受けいれられない悪い病気を抱えている。それで今回も史料をいろいろとほじくり返してみたところ、どうもそんな単純な話とは思えない。

 伊達家仙台藩は東北一の大藩で石高は六十二万石ある。動員兵力は約一万人。
 仙台藩が中心となってすべての東北・北越諸藩が同盟を組み、会津、庄内、米沢、長岡などの強藩が共同戦線を張って戦えば決して勝てないことはない。
 薩長側とて一枚岩ではない。薩長を嫌っている大藩、例えば熊本・福岡・加賀などが状況によってはこちらに寝返るかもしれない。
 こういった現状認識から、
「戦ってもそう簡単に負けるとは思えない」
 と考えて会津藩の味方をしたのではなかったか?
 実は世良を殺害する数日前から開戦を決意していたという内部文書が残っており、さらに言えば世良殺害の当日に会津藩が白河城を攻撃したのも仙台藩と数日前から示し合わせていたとしか思えない。
 そして何より、「奥羽皆敵」の手紙を見た翌日にすぐさま「開戦の決意」すなわち「世良を暗殺する」などといった決断ができるだろうか?
 世良修蔵暗殺は、仙台藩の開戦の決意を示す「血祭りの儀式」であった可能性が高いと思う。

 この段階ではまだ江戸の彰義隊も健在で、上野寛永寺の輪王寺宮の側近覚王院(かくおういん)義観(ぎかん)も盛んに彰義隊を応援し、さらに各地の諸藩へ「薩長を討て!」といったような檄文を送っていた。そして輪王寺宮と義観は上野戦争のあと仙台へ逃れて、列藩同盟は輪王寺宮を「東武皇帝」として擁立しようとするのである。
 ともかくも、こうして仙台藩は開戦に踏み切ったのであった。



 新政府軍の進軍ルートは大まかに分類すると三つの戦線に分けられる。
 一つ目は日本海側の越後口。河井継之助のいる長岡藩が中心となって新政府軍と戦っている戦線。
 二つ目は内陸の白河口。宇都宮から奥州街道を北上して白河を抜き会津若松へ向かう戦線。
 三つめは太平洋側の平潟(ひらかた)口。磐城(いわき)(たいら)、相馬中村を抜いて仙台へ向かう戦線。

 この三つ目の平潟口はあとから追加された戦線で、四条隆謌が仙台追討総督に就任した。
 平潟は現在の茨城県の北部にある港で、福島県との県境にある。新政府軍の兵士は船で江戸から出港して平潟で上陸し、それから北を目指すかたちになる。
 一つ目の越後口は河井が派手にガトリング砲をぶっ放しているため多くの人に知られている。二つ目の会津攻めも「会津の悲劇」としてよく知られている戦場だ。
 その一方で、この三つ目の平潟口の戦場はそういった有名なシンボルが無いため、ドラマや映画で取り上げられることは、まずない。

 ちなみに、ここで一応「元御陵衛士たちのその後」についてざっと触れておくと、阿部は勝蔵と一緒に四条の配下にいるので平潟口に参戦する。
 新井と篠原は越後口に参戦。富山も越後口だがこれは探索役で「水野弥太郎の子分」と名乗る博徒に変装して越後に潜入したものの、出雲崎(いずもざき)で敵に捕まって殺されてしまった。
 加納と清原は白河口に参戦して、清原がここで戦死。
 三樹三郎は、おそらく手を負傷していたせいであろう、江戸で新政府軍の仕事を手伝っていたようである。


 新政府軍は五月一日に白河城を攻めて会津藩から城を奪回し、会津藩はこれ以降七回に渡って白河城奪回作戦をおこなうが、すべて失敗に終わった。その間、奥羽越列藩同盟が成立し、越後口でも戦いが始まった。五月十五日には上野の彰義隊が壊滅。
 そして六月に入って新たに新政府軍による平潟上陸作戦が進められ、数回にわたって諸藩の兵が平潟に上陸した。
 ただし四条総督が上陸するのは七月二十二日のことで、勝蔵もその頃ようやく東北戦線に足を踏み入れることになる。
 その前に、平潟から北上した新政府軍が七月十三日に磐城平城を陥落させた。
 この磐城平城は安藤氏の居城で、このころは隠居の身分とはいえ以前老中をつとめていた安藤信正(のぶまさ)が指揮を執って新政府軍と戦っていた。が、敗れて北へ逃れた。
 この磐城平藩には甘田善蔵という武士がおり、その弟に甘田久五郎という十五歳の若者がいた。
 のちに次郎長の養子となって『東海遊侠伝』を書く天田愚庵の若き日の姿である。
 この攻城戦の際に久五郎は父母妹の三人と生き別れになり、明治になってから久五郎と兄の善蔵は三人を探しつづけることになる(三人と再会したという史料を筆者は見たことがないので、おそらく再会できなかったものと思われる)。

 平潟口の列藩同盟軍には仙台藩や米沢藩からの援軍の他に人見勝太郎の遊撃隊などもいた。
「東北諸藩の軍は装備が古かったから新政府軍とまともに戦えなかったのだろう」
 と、よく思われがちだが、全部が全部そういった旧式装備だったわけでもなく、ちゃんとした新式銃を持っている隊もそれなりにあった。ドイツ人のスネル兄弟などが東北・北越諸藩に武器を売り込んでいたからだ。
 しかし列藩同盟軍はそれを有効に使うことができなかった。
 薩摩や長州は外国と戦争した経験もあり、軍事経験が豊富だったが、東北諸藩は(会津を除けば)今回が初めての戦争という藩が多く、うまく兵や武器を運用できなかったのだ。
 そして列藩同盟は、全体を一つにまとめる力に欠けており、お互いの信頼関係も弱かった。この磐城平の戦いも、近くにいた米沢藩軍が力を出し惜しみして援軍に駆けつけなかったことが敗因の一つと言われている。

 磐城平を抜いた新政府軍は北上を開始した。そして広野も抜いて次の標的である相馬中村城を目指した。ここまで来れば仙台藩の国境まであとわずかである。
 そして七月二十二日、ようやく勝蔵のいる四条総督の軍も小名浜に上陸して先鋒隊のあとを追った。

 七月末日(二十九日)、二本松城が陥落し、白河方面はこれよりのち会津攻めへと移る。この二本松落城の際に二本松少年隊が犠牲となった。
 そして同じころ越後方面でも長岡城が再び新政府軍の手に落ち、新潟港も新政府軍の手に渡った。北越と東北の戦争は、これでほぼ大勢が決したといっていい。

 さらに翌八月一日、広野から北上した新政府軍が浪江で相馬中村藩軍を打ち破り、米沢藩軍は自国へ退却し、仙台藩軍は相馬中村城の北方にある駒ヶ嶺(こまがみね)まで引き上げた。
 これによって相馬中村藩は抗戦を断念。三日後、新政府軍に降伏して相馬中村城も落ちた。
 あとは仙台藩の国境沿いに展開する仙台藩軍との直接対決へと移ることになる。
 八月七日、四条総督が相馬中村城に入城。その親衛隊である勝蔵たちも一緒に入城した。ただし勝蔵たち徴兵七番隊はここまで一度も実戦の場に出る機会がなかった。

 そこで阿部と勝蔵が参謀本部へ出向いて、
「我々の徴兵七番隊も前線へ出してもらいたい」
 と願い出た。
「後方に控えていたほうが安全だから、わざわざ危険な前線へ出て行かなくてもいいじゃないか」
 と現代人は考えるかもしれないが、当時の軍人にそんな発想はない。戦場へ来たからには手柄を立てずに帰れるか、というのが普通である。
 しかもこの戦争は、どう見ても勝ち(いく)さだ。
 負け戦さなら確かに「犬死にになるかもしれない」といった考えも頭をよぎるだろうが、この勝ち戦さで手柄を立てないでいつ立てるか、といったところだ。
 それは諸藩の兵も同じことで、特に薩長以外の藩は後から戦争に加わってきただけに手柄を立てないと今後の藩の行く末にもかかわる、ということで必死だった。
 中には敵側から寝返ったり投降してきた藩もあり、この直前に投降した相馬中村藩もこれからすぐに、かつての同盟相手だった仙台藩軍と戦うことになるのだ。
 手柄を立てたいのはもちろんのこと、もし戦死傷者が出たとしても「藩が支払った代償」として勘定され、それが藩の今後にかかわってくる。彼ら諸藩は先を争って戦わざるをえない。
 そんな事情もあってこれまで徴兵七番隊は出番がなかった。しかし参謀本部は勝蔵たちの願いを受けいれて久留米藩兵と一緒に前線へ出るよう命じた。これまで連戦につぐ連戦で消耗していた部隊を休ませて、その代わりに出陣することになったのだ。

 相馬中村城から北へ一里半ほどいったところにある駒ヶ嶺という丘が新政府軍の攻撃目標だ。仙台藩領の国境にあたる場所で、そこに仙台藩の陣地がある。そしてその西の菅谷(すがや)にも仙台藩軍が待ち構えており、さらに西の旗巻(はたまき)峠にも陣を構えている。ここは仙台藩の絶対防衛圏にあたる地域なのだ。
 八月十一日、新政府軍は北への進撃を開始した。長州・福岡・広島の藩兵が本隊として正面の椎木(しいのき)方面から、熊本・鳥取の藩兵が右翼の海岸線から、そして久留米藩兵と勝蔵たち徴兵七番隊が左翼の菅谷方面から進軍した。
 勝蔵は出陣前に猪之吉を伝令役として後方に下げておこうと考え、そのように猪之吉に命じた。やはり猪之吉を無事お八重の元へ帰してやりたいという気持ちを拭えなかったのだ。
 ところがそれを猪之吉が拒絶した。
「隊長。そんな余計な気をまわさないでいただきたい。私だって仲間と一緒に戦いたいんだ。私の銃の腕前をご存じでしょう?今こそ天朝様のために、一君万民のために、私も戦わせてください」
「……そうだな、猪之吉。俺が悪かった。じゃあ、一緒に行こうぜ。だが、命を粗末にするなよ」
「そんなセリフ、“黒駒の勝蔵”には似合わないですよ」
「フフ、ちげえねえ」

 この日の戦いは激戦となった。
 新政府軍の死傷者数が仙台藩のそれを上回るという、これまでの戦いでは一度も見られなかった結果となった。新政府軍の戦死者四十、負傷者約百五十。仙台藩軍の戦死者三十二、負傷者七十八。
 ただし新政府軍は果敢に攻撃をしかけて駒ヶ嶺の陣地を奪取した。そのために、これほどの損害が発生したのだ。
 徴兵七番隊からも七人の戦死者と十数人の負傷者が出た。特に阿部が指揮していた部隊に損害が多く、赤報隊の頃から参加していた水口藩士の士官二人が戦死した。ただしその分、敵に与えた損害も多く、阿部の隊はこの戦いで大きな戦功をたてた。
 一方、勝蔵が率いた黒駒一家の部隊はそれほど強力な敵と遭遇しなかったため戦死者は出なかった。負傷者が三人出ただけで済んだ。

 絶対防衛圏にあたる駒ヶ嶺を失った仙台藩は必死になって奪還を試み、十六日と二十日の二回にわたって駒ヶ嶺を攻めた。しかし二回とも惨敗に終わり、いたずらに死傷者を増やすばかりだった。
 新政府側はそれほど死傷者も出さずに勝利を収め、この二回の攻防戦に参加した勝蔵の隊も全員無事だった。

 仙台藩は追いつめられた。
 これまで戦っていたのはすべて他国の領地だったが、とうとう自国領まで攻め込まれてしまった。
 そもそも開戦した動機自体があやふやなものだった。
 幕府を再興するためでもなければ、仙台藩が幕府に取って代わるというわけでもない。そして勝利を得るための長期的な戦略もなかった。ただ単に、
「戦ってもそう簡単に負けるとは思えない」
 といった程度の理由で始めた戦争だったのだ。
 しかし簡単に負けてしまった。
 同じ東北人として会津藩に同情する気持ちはあるにしても、自藩の存亡を賭けてまで義理立てする程のものではない。

 こういった感情が多くの仙台藩士に広がりつつあった。
 そして八月二十六日、列藩同盟内で仙台藩に次ぐ立場だった米沢藩から使者が来て、降伏を勧めてきた。実際、米沢藩は九月四日に新政府へ降伏を申し込んだ。
 このような状況で仙台藩が持ちこたえられるはずがない。
 九月十日、城中で審議をおこない、藩論はほぼ降伏と決まりかけた。

 にもかかわらず、この日、旗巻峠で最後の決戦がおこなわれた。
 新政府軍は前日の夜から各隊を攻撃配置につかせ、この日、夜明けとともに旗巻峠へ攻め込んだ。参加部隊は長州、相馬中村、館林、広島の各藩と勝蔵たちの徴兵七番隊。
 仙台藩軍は峠の高地を押さえていたため、高低差を利用して上から激しく射撃を浴びせて抵抗した。
 その猛射のために、新政府軍はなかなか攻めのぼることができない。
 また仙台藩には細谷十太夫(じゅうだゆう)率いる「衝撃隊」という七十人ほどの遊撃部隊があって正規軍以上に活躍し、新政府軍からも一目置かれていた。博徒、農民などで組織された全身黒装束のゲリラ部隊で、別名「からす組」と呼ばれていた。

 勝蔵たち徴兵七番隊も小銃を背負って伏せた姿勢のまま山肌をじりじりとよじ登っている。
「敵さんもなかなかやるじゃないか。今日はいつもと違ってずいぶんと踏ん張ってるぜ」
 と綱五郎が隣りの猪之吉に声をかけた。
「後がないから必死なんでしょうよ。この峠が落ちたら、もう、一気に自分たちの領地に攻め込まれますからね」
「猪之吉よ。戦さってのは案外、人が死なねえものだな。俺たちの仲間は一人も戦死してねえもんな」
「まあ勝ち戦さですからね。ここから我々が負けるってことは、まずないでしょうよ。戦死者が出ないで勝てるなんて、それこそ結構な話じゃないですか」
「まあな。武士は死ねば『名誉の戦死』といって藩から褒められるだろうけど、俺たちの場合は、どうなるんだろうな?親分……、いや隊長から褒められるのかな?」
「いや、別に褒められはしないでしょうけど。多分、泣くでしょう、あの人は」
 こうして二人がしゃべっている時も敵の銃弾が時々ぴゅうぴゅうと近くをかすめていく。そして綱五郎と猪之吉もむやみやたらと撃ち返し、それからまたじりじりと前進していく。
「でも、こうして

までやって来て戦さに加わるなんざ、一生に一度あるかどうかの大事件だぜ。じじいになった時、自慢話ができるな。子どもたちによ」
「あんまりくっちゃべってると敵に狙い撃ちされますよ。そうでなくても、綱五郎さんの図体はでかくて目立つんだから」
 峠の頂上に近づくにつれて仙台藩軍の抵抗はますます激しくなった。綱五郎と猪之吉も、岩陰に身を隠しながら時々小銃を撃ち返すのが精一杯だ。
 両軍は互いに銃身も焼けよとばかりに激しく弾を撃ちつづけ、一歩も引かない構えをみせた。
 旗巻峠の戦況は膠着(こうちゃく)状態となった。

 そのとき新政府軍の別動隊が、ここから少し南にある羽黒山の頂上に登り、そこから尾根づたいに進んで旗巻峠の後方へ回り込んだ。そして仙台藩軍の背後から小銃で撃ちかけた。
 この攻撃によって仙台藩軍に乱れが生じた。
 これ以降、戦況は一気に新政府軍の優位へと傾き、新政府軍の本隊は敵に猛射を浴びせながら峠へ向かって駆け上がった。
 午前十一時、仙台藩軍は多くの死傷者を頂上に残したまま、旗巻峠から撤退していった。
 そこへすかさず新政府軍が頂上まで登ってきて峠を占拠した。徴兵七番隊もそれに加わっている。
 綱五郎と猪之吉も小銃を抱えて坂を駆け上がり、峠の頂上に着いた。
 敵はいろんな物を置き去りにしていったようだった。戦死者も何人か、そこかしこに倒れている。
 綱五郎が、
「勝ったな」
 と猪之吉に語りかけた。
「ええ」

 勝利の油断があった。
 このとき逃げ遅れた仙台藩の負傷兵が一人、薮の中に隠れていた。
 バン!
 と、その男が一発、猪之吉たちに撃ちかけた。
 綱五郎がドッと倒れる。
 すかさず猪之吉が銃を構え、硝煙があがっているところにいた敵兵を見定めて撃ち抜いた。おそらく死んだであろう。
「綱五郎さん!」
 と猪之吉が声をかけた。が、返事はない。
 頭を打ち抜かれて即死していた。

 一瞬の出来事であった。
 猪之吉はしばらく呆然としていたが、やがて勝蔵と玉五郎のところへ行き、涙ながらに綱五郎の戦死を報告した。
 すぐに勝蔵たちは綱五郎のところへ駆けつけ、黒駒一家の仲間たちも次第に集まってきた。
(バカ野郎、綱五郎……。せっかく博打に勝っていたのに、最後の最後でしくじって、すってんてんになっちまいやがって……)
 勝蔵は目に涙を浮かべながら綱五郎の髷を切り取って、懐に収めた。黒駒へ持って帰って、かつて埋めてやった子分たちの墓の隣りに綱五郎の墓を建てて、そこにこの髷も埋めてやろう、と思ったのだ。
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