第22話 石松、激走。遠州、閻魔堂(一)

文字数 6,265文字

 次郎長は市川大門で勝蔵と別れたあと、甲州塩山の三日市場でしばらく潜伏し、そのあと大菩薩峠を越えて武州高萩(たかはぎ)へ行った。
 ここには関東で有名な博徒「高萩の万次郎」という男がいる。
 万次郎は「二足の草鞋(わらじ)」であった。すなわち、お上の目明しと博徒を兼業している。次郎長に殺された久六もそうであったし、祐天仙之助もそうだ。この当時の博徒としてはありふれた姿と言える。
 ただし厳密に言うと万次郎の場合は「八州廻りの道案内」という職分だ。“道案内”とは八州廻りの役人が犯人を捕まえる際にその手足となって現場で働く人間のことだ。要するに目明しと立場は同じであり、ここでは話を分かりやすくするために両者を一くくりに“目明し”と呼んでおく。

 万次郎は高萩で名主役もつとめている。家の名前は清水という。つまり本名、清水万次郎。歳は六十。
 そういう名前だから「清水から来た清水次郎長」をかばった、という訳でもないだろうが、次郎長は二十代の頃から何度かこの万次郎の世話になり、いっぱしの博徒として仕込んでもらった。
 次郎長が何かやらかして「長い草鞋(わらじ)を履く」場合、西であれば三河の寺津、東であればこの武州高萩へ逃亡する、というのがお決まりの形だった。
 尾張にいた時の次郎長は、目明しの久六から「目明しに追われている犯罪者(次郎長)をかばうことはできない」と(うと)んじられたものだった。
 とすれば、同じ目明しの万次郎から疎んじられてもおかしくはない。
 が、万次郎は八州廻りに仕える身であり、関八州の外、つまり尾張と甲州で目明しを殺した次郎長は管轄外の犯罪者ということで、直接手配書でも回って来ればともかく、敢えて弟子筋の次郎長をお上に突き出すつもりはなかった。

 そんなわけで次郎長は高萩でしばらく潜伏生活を送ることになった。
「高萩の親分、いつも世話をかけてすまねえ」
「いいってことよ。気にするな。だが、そろそろお前も少しは丸くなったらどうだ?そう目明しを敵に回してばかりいては遅かれ早かれ、いずれ縛り首にされるのは目に見えている。お上に逆らっても得なことは一つもないぞ。お前もぼちぼち、身の振り方を考えろ」
「それはつまり、私にも『二足の草鞋を履け』とおっしゃるんで?」
「そうだ。別にお前は何か御公儀に不服があるわけでもあるまい?今、流行りの“尊王攘夷”など、お前にはまったく無縁な話だろう?」
「はて……。何ですか?その“ソンノージョーイ”とやらは」
「いや、知らんのなら別に知らんままでいい。ちょうど今、お上がその連中を厳しく取り締まっている最中だ。どうせ近い内に消滅するだろう。とにかく、お上の後ろ盾があれば我々博徒にとって何かと好都合なのは、お前も知っての通りだ。確かに世間の一部では“二足の草鞋”を冷たい目で見る奴らもいるが、そんな奴のことなど放っておけ。取るに足らんことだ」
「いや、案外、世間の目というのは恐ろしいもんで、あまり甘く見るのもどうかと思いますぜ」
「また、らしくない事を言いやがって、次郎長。お前がそんな細かい事を気にするようなタマか?」
「いや。そうじゃねえんですよ、親分。ケンカする時のコツは、なるべく多くの味方を周りにひきつけて、敵の応援はなるべく減らしたい。これが鉄則だ。だから世間の目も、できれば味方につけといたほうが得だ、ってことです」
「じゃあ、お前はやはり二足の草鞋を履くつもりはない、というのか?」
「いや、そうは言っておりません。もし二足の草鞋を履くとしても、なるべく世間の目をはばかるに越したことはない、と」
「ふん。都合の良いことばかり言いおって。それが出来れば苦労はないわ。……ところで、お前はここへ来る途中、甲州を通ってきたはずだな。実を言うとワシは今度、八州様のご命令でしばらく甲州へ行くことになった。そこで、今の内になるべく甲州の事を知っておきたい。お前が甲州で見聞きした事をワシに詳しく聞かせてくれ」
 それで次郎長は甲州で見てきた事を万次郎に語って聞かせた。もちろん、安五郎、勝蔵、祐天仙之助といった博徒たちのことも詳しく話した。

「ですが親分。甲州へ行って一体、何をなさるおつもりなんで?」
「それは言えん。八州様の極秘命令だからな。だが、大まかなことは教えてやろう。なんせ、お前にとってもこれは重要な話だ。いいか、よく聞け、次郎長。お前は祐天仙之助と和解しろ」
「えっ?!」
「やはり不服か?」
「そりゃあ、あの男にはいろいろと遺恨がありますんで」
「では、その遺恨は水に流せ。お上はワシに『何としても島抜けの極悪人、竹居安五郎を捕まえろ』とお命じになった。そうなると、どうしても甲州の目明しである祐天の協力が必要だ。だからお前は今後、祐天に手を出してはならん」
「親分。一つだけ伺いたいことがあります」
「何だ?」
「黒駒の勝蔵は、どういう扱いになるんでしょうか?」
「そいつは安五郎の右腕のはずだな。安五郎の側近であれば当然、厳しく処分されることになるだろう」
「なるほど。分かりました。この次郎長、祐天への遺恨は一切、水に流しましょう」
 これで、甲州博徒の力関係に大きな変化が生じることになった。

 この数日後、次郎長一行は高萩を去って上州の草津温泉へ行った。そして草津でしばらく休んでいる間、例によって博打好きの石松が賭場へ足しげく通った。次郎長は高萩を出る時に万次郎から餞別(せんべつ)として百両もらっていたのだが、その百両を石松がまるまる賭場ですってしまった。
 それで石松が「今日こそ、すった分を取り返して来る」といってまた賭場へ行こうとしたのを、次郎長が止めた。
「バカ野郎。石松、てめえじゃ無理だ。俺が代わりに行って取り返してやる」
 といって次郎長が代わりに賭場へ行った。
 そこの賭場は壺を振る胴元役が持ち回り式の丁半博打だった。そこで次郎長は胴元役の時に得意のイカサマサイコロを使って勝ちまくり、およそ三百両も稼いできた。賭場でのイカサマは次郎長の得意技なのである。
 そういった旅の一コマもあったが次郎長一行はそれからも長らく逃避行の旅をつづけ、上州から信州、そして越後、越中、加賀、越前と北陸路を進んだ。そこから更に近畿、四国と回って十二月、ようやく清水へ帰り着いた。
 その頃にはもう、ほとぼりも冷めており、甲州や尾張から次郎長を追ってきた追手も清水からいなくなっていた。

 それは、幕府の役人や目明しが次郎長ごときに構っていられなかった、ということであったかもしれない。
 この頃ちょうど「安政の大獄」の嵐が吹き荒れており、十月には(らい)三樹三郎、橋本左内、吉田松陰が処刑されていた。こういった「政治犯」の取り締まりに幕府は忙殺され、博徒同士の殺し合いといった「小事」に力を割いている場合ではなかったのだ。


 年が明けて安政七年(1860年)。
 この年の一月十九日、幕府軍艦の咸臨丸が浦賀を出港してアメリカへ向かった。
 周知の通り、咸臨丸は初めて太平洋の横断に成功した日本の船である。そしてこれも周知の事かと思われるが、この船は遣米使節の随行艦としてサンフランシスコへ行ったのであって、正規の遣米使節は別のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗ってサンフランシスコへ行き、そこからパナマ経由で東海岸のニューヨーク、ワシントンへ向かったのである。
 などといった幕末外交の話は、この物語にはまったく不釣り合いな話であるが、この咸臨丸は後々重要な場面で登場することになるので紹介した次第である。

 そして三月三日、桜田門外で大老の井伊直弼が殺された。季節外れの雪が路上に残る、その路上での出来事だった。
 尊王攘夷派を弾圧した井伊直弼が、その尊王攘夷派によって報復されたのだ。やられたらやり返す、という力の論理は博徒の世界も政治の世界も同じである。
 これ以降、幕末の混乱は更に拍車がかかることになる。当然の帰結として、博徒を取り締まろうとする幕府の力は、弱くなりこそすれ、強化されることなどあり得るはずもない。

 こぼれ話を一つ紹介する。
 のちに「天下の雨敬(あめけい)」と呼ばれ、明治の世で「甲州財閥」の一人として活躍する雨宮敬次郎は牛奥村(現、甲州市塩山牛奥)生まれの百姓で、このとき十五歳だった。一応元服はちょうど済ませていた。それで、隣り村との水争いの訴訟を江戸の奉行所へ訴えるための訴人の一人として選ばれ、桜田門外の変当時、まさに江戸の中心部にいた。
「子供心に見に行きたくなって唯一人、裸足で出かけていった。ちょうど桜田門の所まで来ると、雪の中に血のついた草履などが落ちていた。掃部(かもん)(井伊)様の首が斬られたのは八時頃で、私が行ったのは十一時頃であった」
 敬次郎は自身の伝記で、このように語っている。



 この桜田門外の変の直後に元号が安政から万延へ改元された。安政七年は万延元年となった。
 そして四月、石松が讃岐の金比羅(こんぴら)神社へ向かった。
 久六を襲撃する場面で書いた通り、次郎長は襲撃前に敵討(かたきう)ちの願掛けをするために金比羅参りをした。そのご利益もあったのだろう、久六への敵討ちは見事に成就された。それで次郎長は金比羅神社への返礼として、久六を斬った刀を奉納するため石松に代参させたのである。
 酒癖が悪く、酔うとすぐ暴れ出す石松に次郎長が「旅の途中は一滴も酒を飲むな」と命じたので石松が「じゃあ行かねえ」と文句を言い、「てめえ、文句を言うなら斬っちまうぞ!」「面白え。じゃあ斬ってくれ!」と両者が言い合っているのを大政が仲裁し(黙って飲む分には分かりゃしねえよ、と石松に言い含め)結局おとなしく石松が出発することになった。
「またぐ敷居が死出の山」
 などと石松が知る由もなく、清水港をあとにした。

「こんぴらふねふね、追手(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ」
 と鼻歌まじりに金比羅神社へやって来た石松は奉納金と刀を納め、受書をもらった。それから帰路、大坂へ入り、淀川の八軒屋で三十石船に乗って伏見へ向かった。
 その船中で石松は、たまたま客の男が次郎長の評判について語っているのを聞き、その男に酒と寿司をおごった。
「おい、清水次郎長っていうのはそんなに偉い男か?飲みねえ、飲みねえ、寿司食いねえ。お前さん江戸っ子だってなあ」
「神田の生まれよ」
 それから石松はその男に「清水一家では誰が一番強いか?」と聞くと、男は大政を筆頭に次々と子分の名前をあげていくのに石松の名前はまったく出ない。「お前さん、誰か一人、肝心な人を忘れちゃいねえか?」と問い質すと「ああ、そうだった。一人忘れていた。一番強いのは石松だ。こいつは東海道一強い」と男が言うので、
「おい!飲みねえ、飲みねえ、寿司食いねえ、江戸っ子だってなあ」
「神田の生まれよ」
 と再び酒と寿司を勧めた。するとその男はさらに言った。
「だけど石松はバカだからねえ。バカの番付があれば、あいつはバカの大関だ。皆があいつのことを『バカは死ななきゃ治らない』って言ってるよ」
 石松はがっくりきた。
(あ~、こんちきしょう。人のことをバカバカ言いやがって。小遣いやろうかと思ったけど、やんなくてよかったよ)

 このあと船は伏見に着き、そこから石松は近江の草津へ入った。そして次郎長の縁者の見受山(みうけやま)鎌太郎のところへ立ち寄った。すると鎌太郎は、亡くなったおちょうの香典として二十五両、次郎長へ渡してくれ、といって石松に金を託した。
 二十五両を懐に入れた石松は、それから東海道を下って伊勢、尾張、三河と抜けて遠州(遠江(とおとうみ))に入った。
 遠州は石松の地元である。知り合いも多い。
 ここまで来れば、結構大金の香典も預かっていることだし、さっさと清水へ帰ったほうが無難だろう、と並みの神経の持ち主ならそう考えるところだろうが、なにしろ「バカの大関」と異名を取る石松だ。そんな懸念など何のその、「せっかく地元の遠州へ来たんだから」と浜松から北上して小松村の七五郎に会いに行った。
 七五郎は石松の幼なじみで兄貴的な存在だ。やはり石松と同じく博徒ではあるが特定の親分は持たず、いわゆる「半可打ち」と呼ばれる一匹狼の博徒である。小松村という片田舎でおそのという女房と二人で暮らしている。

 その小松村の近くに都田(みやこだ)村があり、そこに以前、勝蔵も会いに来たことがある吉兵衛、常吉、留吉の三兄弟、通称「都田の三兄弟」という遠州きっての博徒がいる。
 このうち次男の常吉はケンカっ早く暴れん坊で、性格の似ている石松と昔から知り合いだった。それで石松は七五郎のところへ行く前に都田村へ寄り、常吉と会った。
「よう、常吉、達者だったかい?」
「おっ、石松じゃねえか。おめえ、懲りずにまた来やがったか」
「何言ってやがる。久しぶりにあった昔なじみにそんなあいさつがあるか」
「バカ。おめえこそ、もう忘れたのか。つい半年前にウチの賭場でおめえが暴れて、ウチの子分たちと大ゲンカになったじゃねえか」
「ああ、そういやそんな事もあったなあ。ハッハッハ。最初におめえんとこの伊賀蔵って奴に俺がやられて、そのあと逆に俺が伊賀蔵をぶっ倒してやったから、あの時はおあいこだったなあ」
「まったくてめえって奴は相変わらずだな。他人(ひと)んチの賭場で暴れておいて、おあいこもクソもあるか。普通なら腕の一本も無くなってるところだぜ。……それで、今日はまたどうした?」
 と常吉に尋ねられた石松は、親分の代参で金比羅神社へ行き、その帰りに見受山鎌太郎から二十五両の香典を預かって、これから七五郎のところへ寄るところだ、という事を話した。

「二十五両の香典?おめえ今、それ持ってるのか?」
「ああ、持ってる。懐ん中にある」
「そうか……、二十五両持ってるのか……」
「……?」
「石松よ。折り入って頼みがある。その二十五両、俺に貸してくれ」
「なんだと?冗談言っちゃいけねえ。こいつは俺の金じゃねえ。親分の金だ。貸せるわけがねえだろ」
「そこを何とか!この通り!」
 と常吉は頭を下げてお願いした。そして、どうしても金が要る、という理由を石松に説明した。
 常吉の事情とは、こうである。
 明日、常吉が世話になっている親分が開く花会がある。花会とは、通常の賭場での博打とは別に、何か祝い事などの際に催される特別な博打会のことだ。そのため規模も大きく、関係者に回状を回して招待し、あらかじめ自分の格にあった資金を用意して皆が集まることになる。
 が、このとき常吉は資金繰りに苦しんでいた。
 これまで各地の賭場でこさえてきた借金が膨大にあり、首が回らない状態なのだ。これ以上、誰も金を貸してくれない。兄の吉兵衛も弟の留吉も自分のことに精一杯で、常吉の世話を焼くつもりはない。それでも常吉は明日の花会のために方々(ほうぼう)へお願いして回って、何とか金をかき集めていた。
 博打を打てさえすれば、勝った金で借金を返すことができる。博打で負けた分は博打で取り戻す。博打狂いであれば誰もが抱く、身勝手な幻想である。
「明日の花会のために前金用として、何とかあと三十両は欲しい」
 と常吉が苦心していたところへ、二十五両持った石松が転がり込んできた、という訳だ。

 常吉からの話を聞いても石松は「ダメなもんはダメだ!」と断りつづけたが、常吉は「頼む!明後日には必ず返す。たった二日借りるだけだ。俺を何とか男にしてくれ!」と執拗に懇願した。
 そうなるとやはり、どこか頭のネジが一本抜けている石松だ。
 なんだかんだと口八丁手八丁で常吉に言いくるめられてしまい、結局、香典の二十五両を貸すことになってしまった。
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