第37話 荒神山のケンカと猪之吉の覚醒

文字数 10,182文字



 代官から派遣された討伐隊を御坂(みさか)の山中で撃退したことによって幕府を激怒させ、勝蔵はまたまた甲州から逃亡せざるをえなくなった。

 逃亡先は例によって東海道だが、もう駿河あたりでは甲州から近すぎて幕府の捜査網から遠ざかったとはいえない。もっと西へ行く必要がある。
 それでやはり、また伊勢古市(ふるいち)の大親分、丹波屋伝兵衛を頼ることになった。
 以前しょっちゅう世話になっていた三州(三河)平井の亀吉を避けたわけではない。
 実は亀吉も勝蔵を助けるどころではなくて流浪の身となっていたのだ。
 亀吉は、あの次郎長との死闘のさい、仕返しとして形原(かたはら)の斧八を襲撃して子分七人を斬殺した。その(とが)で亀吉はお上から厳しく追及されるようになり、勝蔵同様「国を売って」各地を放浪していたのだ。主に岐阜の水野弥太郎や名古屋の兄弟分のところを渡り歩いていたのだが伝兵衛とも付き合いがあるため、この時は勝蔵と一緒に伊勢の古市にいたのだった。

 そして慶応二年(1866年)四月、勝蔵と亀吉が伊勢国にいる時に、たまたまそこで大きな事件が起こった。
 幕末の博徒史の中では最後の大事件となる「荒神山(こうじんやま)のケンカ」である。
 事件の舞台となったのは広重の五十三次「庄野(しょうの)白雨(はくう)」で有名な庄野宿のあたりで、現在で言えば三重県鈴鹿市の加佐登(かさど)駅(JR関西本線)のあたりになる。
 庄野宿の少し北西に観音寺という寺があり、ここの山号は本来「高神山(こうじんやま)」といっていたのだが、のちに講談などで度々「荒神山」と呼ばれてこちらの呼び名のほうが有名になってしまった。
 この荒神山観音寺の少し東にヤマトタケルの白鳥伝説で有名な加佐登神社があり、その中間に、現在は「鈴鹿フラワーパーク」になっているあたりがその地域と思われるが、当時はここに簡易な敷居で仕切った二百件近い賭場が並んでいた。むろん賭場の開帳は違法なので年がら年中開かれていたわけではなく、この荒神山の祭日にあたる四月六日前後の六日間のみ「神事」ということで盛大に賭場が開かれていた。この六日間は一日のテラ銭の上がりが千両あったという。それを目当てに東海道の博徒を中心に、遠くは甲州、信州からも博徒たちが押し寄せていた。

 で、問題はここからである。
 この荒神山を縄張りとして持っていたのは「神戸(かんべ)長吉(ながきち)」という博徒だった。
 本名は吉五郎といったが顔が馬のように長かったので長吉と呼ばれた。神戸(かんべ)とは鈴鹿の古い呼び名のことだ。織田信長の三男神戸(かんべ)信孝(のぶたか)が昔ここを支配したことがある。つまり長吉は鈴鹿の博徒である。
 その長吉が、荒神山の縄張りを穴太(あのう)徳次郎に奪われてしまった。
 徳次郎は桑名で大勢の子分を抱えている親分で、勢力は長吉よりもはるかに大きい。なにしろ桑名は、このとき京都所司代を勤めている松平越中守定敬(さだあき)の城下町である。石高十四万石。
 徳次郎が荒神山の縄張りを故意に狙ったのかどうかは定かではない。が、この二年前に桑名で長吉の子分が徳次郎の子分熊五郎などといざこざを起こし、それをきっかけとして両者の間で小さな衝突事件があり、数名の死傷者が出た。この騒動は広沢虎造の次郎長浪曲では『血煙荒神山、(はまぐり)屋のケンカ』として、「その手は桑名の焼き蛤」で有名な蛤屋の娘を取り合ったのがいさかいの原因となっている(むろん創作である)。
 この騒動があったあと長吉は伊勢から三河へ逃亡した。子分の数では徳次郎にかなわないので兄弟分の吉良の仁吉(にきち)に泣きついたのだ。
 仁吉は以前少しだけ名前が出たことがあるが寺津の間之助の弟分で、次郎長とも深いつながりがある。前に次郎長が三河で亀吉の屋敷を襲撃した際も、形原の斧八らと一緒に亀吉の屋敷を襲い、大岩たちを殺すのに加担していた。
 ちなみに穴太(あのう)徳次郎は丹波屋伝兵衛の弟分である。
 つまり、ここで対立構造を少し整理すると、この話は以下の二つの勢力によるぶつかり合い、ということになる。
<丹波屋伝兵衛・黒駒勝蔵・雲風亀吉・穴太徳次郎>
<清水次郎長・寺津の間之助・吉良の仁吉・神戸の長吉>

 長吉が三河へ逃げている間に荒神山の縄張りは徳次郎が奪い取ってしまった。
 そもそも長吉と徳次郎は同じ黒田屋勇蔵という博徒の子分だった。荒神山の縄張りはその黒田屋勇蔵から長吉が引き継いだもので、徳次郎としても引き継ぐ権利がないわけではなかった。しかもその長吉が二年間も不在にしていたのだから、徳次郎としては自然とその後釜に収まったようなものだ。
 ところがこの年の四月、二年ぶりに伊勢へ戻ってきた長吉が「俺の縄張りを返せ」と徳次郎に主張した。
 確かに小勢力の長吉としては、この「ドル箱」の荒神山がないと一家が立ち行かず、どうしても取り戻したいと思うのはもっともだろう。
 とはいえ、せっかく手に入れた荒神山を、二年も留守にしていた長吉に今さら大人しく返すほど徳次郎もお人好しではない。
 そこで長吉はとうとう実力行使に出たのだった。
 四月六日、三河から船で乗りつけてきた長吉一行は庄野宿の隣りの石薬師宿に入った。総勢二十数人の手勢である。吉良の仁吉の手勢と、さらに次郎長一家から大政や法印大五郎など四名が援軍として加わった。かたや同じ日に、徳次郎の手勢も庄野宿に集まっていた。

 例年であればすでに荒神山で賭場が開かれている頃なのだが、この両者のいざこざによって賭場はまだ開かれていなかった。
 「一日千両」のテラ銭を目当てに各地から集まってきた博徒たちは、この状況をいらいらとした気持ちで眺めていた。
 勝蔵と亀吉もその博徒たちの中に混ざって様子を眺めている。
 本来であればこの二人もここで自分の賭場でも開いて一稼ぎしたいところだが、この流浪の身では賭場を開くための人員も資力もない。
 仕方がないので世話になっている伝兵衛の賭場の仕事でも手伝うか、と思っていたところ、その賭場さえ、まだ開くことができないでいる。
「伝兵衛親分も含めて、ここに集まっている親分たちには気の毒だが、こうなってしまったら身軽な身分の俺たちは気楽なものだな、黒駒の兄弟」
 と亀吉が勝蔵に語りかけた。
「ああ。もし大勢の子分と大金を用意して乗り込んで来ていたら、この空振りでえらい大損を抱えることになっただろうな。ところで、平井の兄弟は穴太(あのう)一家の助っ人に加わらないのかい?敵の神戸(かんべ)一家には兄弟の宿敵、吉良の仁吉がいるんだぜ」
「それを言うなら黒駒の兄弟も同じだろう。兄弟の宿敵、次郎長一家から大政たちがやって来ているそうじゃねえか。まあ大政は俺の屋敷を襲った一人でもあるから、俺にとっても憎い(かたき)だが。しかし、伝兵衛親分が事を穏便に済ませようとしている以上、俺たちは指をくわえて見ているしかねえだろう」
「まあ、残念ながらそういうことだ。別に次郎長が直に出張(でば)って来ているわけでもないしな。だが、もし次郎長が目の前に来ていたら、伝兵衛親分が止めても、俺は一人で斬り込んで行ったかもしれねえ」
「そうやってすぐ熱くなるのが兄弟の悪いところだ。もうちょっと次郎長を見習って、ずる賢く立ち回らないといつまで経っても、この流浪の身から抜け出せないぜ。とにかく、伝兵衛親分には気の毒だが、おそらくあの連中がケンカになるのは避けられないだろう。聞いた話じゃ、また次郎長は清龍とかいう講釈師をここへ送り込んでいるらしい。どうせ今度の件もある事ない事、面白おかしく話をこしらえて、いろんなところで自分に都合のいい宣伝をするつもりなんだろうぜ」

 このあと、さっさと賭場を開帳してほしい親分衆の中から何人か有力者が調停に乗り出してきたり、騒動を未然に防ぎたい目明したちも両者を調停しようとしたが長吉も徳次郎もそれを受け入れず、徳次郎側は鉄砲隊を組んで荒神山の高台に陣取り、長吉側は加佐登神社の近くに陣取った。
 両者はおよそ十町(約一キロ)の距離で対峙したのだ。その頃には両者ともに助っ人が加わって人数がふくれ上がり、徳次郎側は百五十人ほどに、長吉側は五十人ほどになった。
 荒神山の祭礼に来た参詣客たちは賭場で遊べないのを残念がる反面、この騒動を遠巻きながらも興味津々な様子で見物していた。
 そして四月八日の朝五つ(午前八時)から両陣営が対峙してにらみ合い、とうとう正午頃、ののしり合いをしていた両者の前線部隊が何かのはずみで衝突。そこからあれよあれよという内に戦闘が始まり、パンパンパン!と徳次郎側の鉄砲が鳴り響いたかと思えば、ウワー!という吶喊(とっかん)の叫び声とともに長吉側が激しい斬り込みをかけて大乱戦となった。

 この戦いの名場面として、大政が得意の槍で徳次郎側の角井門之助という浪人を討ち取る場面がある。
 角井は二年前、桑名での衝突のさいに熊五郎と一緒に長吉たちを打ち破る立役者となった剣豪だが、実際のところは、この荒神山の戦いで大政に討ち取られるために出て来る「かませ犬」のような役回りで、大体講談などでも良く描かれることはない。
 この戦いによって徳次郎側は角井を含めた五人が死亡。長吉側は法印大五郎など四人が死亡。そして吉良の仁吉が鉄砲の弾に当たって負傷し、吉良へ帰る途中の船内で死亡した。虎造の次郎長シリーズのトリを飾るこの「荒神山のケンカ」においては、
「吉良の仁吉は荒神山の花と散る」(実際は帰路の船中での死亡だが)
 と(うた)われた吉良の仁吉がほとんど主役をつとめる形となっており、仁吉の女房が徳次郎の妹で、この決闘のために女房を離縁する、という設定になっているが、これもやはり創作である。
 さらに言うと虎造の次郎長シリーズが種本(たねほん)としている『東海遊侠伝』では、この戦いで法印大五郎が死亡したことになっているが、実は死なずに甲州へ帰ってカタギに戻っていた。
 大五郎が元は甲州人で、かつて勝蔵に坊主にされて甲州から追放された、というのはかなり前に書いた。甲州へ帰ってからの大五郎は普通に所帯を持って子どもたちと平和に暮らした。ただし家の前に住んでいた若後家に手を出してその女性との関係も長くつづけたらしい。女好きで有名だったようである。大正八年まで生きたという記録が残っている。
 ケンカは最終的に徳次郎側が退却し、一応長吉側が優勢なかたちで締めくくった。とはいえ両者ともに五人ずつ死者を出しており、結果的には痛み分けというべきだろう。むろん賭場は開かれず中止となった。

 勝蔵と亀吉はこの荒神山のケンカには加わらなかった。世話になっている伝兵衛が戦いを好むような性格ではなく、仲介役を得意とする人物だったのでその邪魔をするわけにはいかなかったのだ。
 ところが五月十九日、次郎長が二隻の船に百人以上の手勢を乗せて伊勢へやって来て、古市の伝兵衛のところへ押し寄せた。
 盟友の仁吉を徳次郎に殺されたことで激怒し、徳次郎の兄貴分にあたる伝兵衛のところへ攻めて来たのである。
 が、伝兵衛側に戦意がなく、ひたすら次郎長に謝ったため戦いにはならなかった。次郎長も別に伝兵衛と殺し合いをするつもりはなかったであろうし、これはおそらくただの示威行動だったのだろう。結局空振りのようなかたちとなった次郎長は、そのまま清水へ引き返していった。
 ちなみに勝蔵や亀吉はすでに古市から去っていたので、この騒動には巻き込まれなかった。

 ところで、この荒神山のケンカは結果的に誰が得をしたのだろうか?
 長吉と徳次郎、両者ともに五名ずつ死者を出したものの、得るところは何もなかった。そして荒神山の賭場自体も、この騒動が原因で幕府からの取り締まりが厳しくなって祭礼博打は禁止となり、しばらくするとその幕府自体も倒れてしまい、結局これ以降、祭礼博打が復活することはなかった。
 要するに関係者全員が損をして、ウィンウィンならぬ全員ルーズルーズという形になったわけである。



 勝蔵と亀吉は古市の伝兵衛のところを去ったあと、岐阜の矢島町に来ていた。
 二人の盟友である岐阜の親分、水野弥太郎の世話になっていたのだった。

 この頃、世間の人々は激しく動揺していた。
 世情を騒然とさせる出来事が多発していたのである。
 ただし世情が騒然となる、などといったことはここ数年、まったく常態化していたといっていい。二年前にも関東では天狗党の乱が、さらに京都では禁門の変が起きて日本中が大騒ぎになった。
 が、今回は、それに輪をかけるかたちで大騒動となっていた。
 ちょうどこの頃、中国地方では第二次長州征伐(幕長戦争)がおこなわれていた。
 当初の予想をくつがえし、大軍勢の幕府軍が少数の長州軍に負けつづけた。
 のみならず、その背後の関西、さらに関東でも大規模な一揆や打ちこわしが広範囲で発生していた。これは長州征伐の影響によって米価が著しく高騰したことが原因だった。
 あげくの果ては、将軍家茂が大坂城で病没した。
 これで幕府軍の敗北は決定的となり、幕府の権威は致命的に失墜した。
 後世の目から見れば「この時がまさに歴史の転換点だった」と誰もが納得できるほどの大異変である。
 とはいえ、この当時の人々からすれば先のことなど何もわからない。
 将来の見通しも立たず、「この先、一体世の中はどうなるんだ?」という不安に駆られて、人々は激しく動揺していたのである。

 そういった話を勝蔵は弥太郎から聞かされた。
 米価高騰という生活に直結した出来事は勝蔵も実感していた。なんせ勝蔵たちは居候(いそうろう)の立場で、そのうえ綱五郎という大飯食らいもおり、「居候、三杯目にはそっと出し」という肩身の狭い思いもしているからだ。
 しかし政治(まつりごと)に関する話などは、博徒を生業(なりわい)として、しかも一年近く山中にこもっていた勝蔵にはまったく縁遠い話で、弥太郎から聞かされて初めていろんな事情を知った。
 弥太郎は博徒らしからぬ学者肌の人物で政治のことにも詳しい。そのうえ政治の中心地である京都へ時折り通っており、京都に知人も大勢いる。またこの弥太郎の屋敷を京都から訪ねて来る者も何人かいる。弥太郎が尊王攘夷主義者であるため、訪ねて来る人物も大体そういう人物である。

 この日、勝蔵は久しぶりに防具を付けて剣術の稽古をした。弥太郎の屋敷には剣術道場が隣接しており、そこで猪之吉を相手に竹刀で打ち合った。
 こういった形で博徒の屋敷に剣術道場が隣接しているのはよくあることだった。腕っぷしが頼みのヤクザ連中なので時々こうやって剣術の稽古をするのだ。弥太郎はむかし鈴木長七郎という人に一心流を習っており、それなりに剣術の心得のある人物だった。
 実は勝蔵たちが以前いた戸倉の屋敷にも小さな剣術道場が隣接していた。そこで勝蔵は時々、かつて千葉道場や武藤道場でやっていたように剣術の稽古をやっていた。勝蔵の場合は自身が北辰一刀流の師範並みの腕前なので自ら子分に剣術を教えることもできるが、大体の博徒の親分は浪人などを雇って剣術を教えてもらうことが多かった。
 猪之吉は武藤道場のころから勝蔵に剣術を習っており、剣の腕前はそこそこある。そしてやはり、勝蔵直伝だけあって北辰一刀流のクセが身についている。

 その二人が打ち合っている道場へ、不意に一人の男が入ってきた。
 身なりは武士の格好をしており、かなり年が若い。おそらく猪之吉よりも若いだろう。二十代前半ぐらいに見える。小柄だが、端正な顔立ちで眉間(みけん)に目立つ刀傷がある。
 その男は静かに二人の稽古を眺めていた。
 年若とはいえ武士からじっと稽古の様子を見られるというのは、どうにもやりにくい。それで勝蔵は稽古を取りやめて、その男に声をかけた。
「水野の旦那の客人とお見受けしますが、我々に何かご用ですか?」
「いや。お邪魔して申し訳ない。まさか水野さんのところで、北辰一刀流の稽古をしている人がいるとは思わなかった」
「はあ。よく我々の流派が北辰一刀流とお分かりで。ひょっとすると同門の方ですか?」
「左様。私は深川の伊東道場で北辰一刀流を学んでいた。その前には少しだけお玉が池の玄武館に通ったこともある」
「ははあ、なるほど。私はその二ヵ所に足を運んだことはありませんが、その昔、新材木町にあった、たぶん今は桶町というところに移っているはずですが、千葉定吉先生のところで修行しておりました」
「ほお。そのようなお方がなぜ、今この岐阜に?美濃の方ですか?」
「いえ。甲州の者です。今はしがない博徒の身で、水野の旦那の厄介になっております」
 相手が武士ということは幕臣であれ諸藩士であれ、役人ということになる。勝蔵はお尋ね者として手配されている身なので、名前を明かすわけにはいかない。
 こうして二人が話しているのを脇で見ながら猪之吉は、若年のくせに武士ということで勝蔵と対等以上の口をきいているこの男のことが気に入らず、大胆にも男に剣術勝負を挑んだ。
「ぶしつけながら、せっかくですからお武家様の北辰一刀流をぜひ拝見したいと存じます。なにとぞ私に一手、ご指導いただけませんでしょうか?」
 すると男は猪之吉の方へ向きなおり、
「まことに相済まぬが、私はこれから水野さんとの面談があるので、ご辞退申し上げる」
 と静かに答えて一礼し、そのあと道場から出ていった。

「親分。あいつは武士といっても見かけ倒しですよ。俺と勝負するのを恐れて、逃げていきましたもん」
「いや。あれは相当な使い手だ。体全体の雰囲気と身のこなしを見れば分かる。お前じゃ相手にならないだろうよ」
 猪之吉はぷっと頬をふくらませ、憮然(ぶぜん)とした表情になった。

 それから二人が母屋へ戻ると弥太郎から呼ばれたので座敷のほうへ行ってみた。
 すると、そこに先ほどの男が弥太郎と一緒に座っていた。部屋へ入ってきた二人に対して弥太郎が説明した。
「おお来たか、二人とも。こちらは京の都から来られた新選組の藤堂平助殿だ。せっかくだからお前たちも、いま都で起きている話を聞いておくと良い」
 江戸で伊東甲子太郎に新選組へ加入するように説いた、あの藤堂平助である。この当時、新選組で八番隊の組長をしていた。歳は二十三。
 弥太郎は父が西本願寺で典医をつとめていた縁で西本願寺との関係が深く、そこに屯所を置いていた新選組とも関係をもつようになったのだった。
(新選組か。ということは佐幕派の武士だな……。危ねえ、危ねえ。名前を明かさないで良かったぜ……)
 と勝蔵は心中で思った。
 なにしろ勝蔵は「名うての凶悪犯」としてこの年の四月十八日、幕府の勘定奉行から正式に指名手配されていた。幕府は各地の村々へ、特に甲州と駿河において「勝蔵を必ず逮捕せよ」と通達を出したのである。
 「凶悪な博徒」といえば荒神山のケンカに関係した次郎長なども、過去の殺人罪も含めて相当凶悪なはずだが勝蔵だけが一方的に指名手配されているのは、勝蔵が甲府城攻略を計画したり、御坂の山中で代官の手勢を撃ち払ったりして「反幕府的だから」である。

 それにしても、と勝蔵は不思議に思った。
 水野の親分は尊王攘夷のはずだ。それがなぜ、新選組などという佐幕派の人間と昵懇(じっこん)に話し込んでいるのだろう?
 最初そのように思っていた勝蔵だったが、二人の話を聞いているうちに、その謎が解けた。
 藤堂が話している内容を聞いていると、この男は佐幕派ではなく尊王攘夷派だ、ということが分かったのだ。
(新選組は佐幕派の連中ばかりだと思っていたが、こういう男もいるのか……)
 と勝蔵は意外な事実を知って驚いた。
 この当時、幕府は長州征伐を失敗して窮地に陥っていた。その一方で、死滅しかけていた尊王攘夷派は長州が勝ったことによって息を吹き返しつつある、ということが二人の話を聞いて分かった。
 ただし猪之吉は難しい用語などが分からず、二人が話している内容を半分も理解できなかった。

 弥太郎との面談を終えると藤堂は京都へ帰って行った。
 そのあと勝蔵は、面談の中で耳にした聞きなれない言葉のことを弥太郎に質問した。
「お二人の話の中で出ていた『草莽(そうもう)』という言葉は聞いたことがあるのですが『一君(いっくん)万民(ばんみん)』とは、どういう意味ですか?」
「ああ。『一君万民』とは、日本人全員が(みかど)のために忠義を尽くすという意味で、かつて水戸で唱えられていたものは、将軍家を通じて、藩主や武士や民衆が、帝に忠義を尽くすという意味だったのだが……」
 このように弥太郎が学者肌を発揮して、しかも老人独特のくどくどとしたしゃべり方で説明し始めたので、
(うわあ、こりゃ面倒なことを聞いちまったな。止めときゃよかった)
 と勝蔵は後悔したが、一応質問した手前、話を最後まで聞くことにした。
「……最近ではその意味を曲解して、幕府を倒して帝の世になれば、藩主や武士がいなくなって帝の(もと)では皆が同じ身分になる、といった風に考える者も出て来ているようだ」
「はあ?」
 と勝蔵はあっけにとられた。
 そんなこと、あるわけないだろう、と普通に心の中で思った。
 確かに勝蔵は幕府の武士や役人が嫌いだ。それゆえ、そいつらをぶっ倒すためには帝の勢力が強くなったほうが良い、帝が上に立つ世の中になったほうが良い、と思っている。そうなれば、きっとあの武士や役人たちはでかい顔ができなくなるだろう。いい気味だ、と思う。
 しかし「帝の下では皆が同じ身分になる」ということにはならないだろう。
 おそらく帝のために戦って幕府を倒した連中が、新しく武士になるに違いない。それが当然だし、自然な流れだろう、と勝蔵は考えている。
 勝蔵は、自身が名主の家といういくぶん特権階級の家に生まれただけあって「身分制度をすべて破壊する」といった極端な平等思想には共感しない。
 確かに今は博徒、すなわち無宿人という最底辺の身分にあるので、そういった「平等社会」になるのも悪くはないと思うが、そんな現実離れした世の中など今まで聞いたことがないし、あり得るはずがない。徳川二百五十年という厳格な身分制度の中で生きてきて、それ以前からも連綿と受け継がれてきたこの身分制度がなくなるなどとは、夢にも思わない。
 と、ここまで論理的に考えたわけではなかったが、勝蔵が直感的に思った感覚は、要約するとこのような感覚だった。

 しかしながら勝蔵の横で話を聞いていた猪之吉は、この弥太郎の発言を聞いて雷に打たれたような衝撃を受けた。
「帝(天皇)の下では皆が同じ身分になる」
 猪之吉はこれまでずっと社会の最下層で暮らしてきた。物心ついた頃には既に両親はおらず、そのあと勝蔵に拾ってもらったものの結局は博徒という最底辺の身分で暮らしてきたのだ。
 これまで身分制度というものから恩恵を受けたことなど一度もない。
 こんなもの無くなってしまえばいい、と素直に受け入れられる下地がある。
 けれども無学文盲の猪之吉が、これまでそのような発想を抱くことはなかった。その点は勝蔵同様、この時代の人間であれば誰もがそう思うように「これ(身分制度)が当たり前だ」と思っていたからだ。この「当たり前」というのは水や空気と同じくらい「あって当たり前のもの」という感覚で、これが無くなるなど想像もできない、という意味での「当たり前」ということだ。
 ただし、もし帝という存在を抜きにして「人間は皆平等で身分など一切ない」という話であったなら、いくら無学文盲の猪之吉といえども、さすがに荒唐無稽すぎて受け入れられなかっただろう。頭のない集団などありえない、というのが世の中の常識だからだ。

 余談ながらこの当時、ヨーロッパではカール・マルクスが共産主義を唱えて社会に大きな影響を与えはじめていた頃で、彼がその主著『資本論』の出版をはじめるのはこの翌年の1867年のことである。
 十九世紀後半から現代に至るまで世界中の多くの人々に信奉された「共産主義」を荒唐無稽というのは言い過ぎかもしれないが、結局それで成功した国など一つもなく、ソ連共産党や中国共産党、さらにはポルポト政権といった独裁政治に利用されて何百万人という自国民の虐殺を助長したことを思えば、その思想を猪之吉が荒唐無稽として受け入れなかったとしても「無学文盲の徒だから理解できないのだ」などとは言えないであろう。

 ともかくも、社会の最下層にある人々がこういった「平等社会」の実現を夢見るのは別にマルクスの専売特許というわけでもなく、社会を丸ごとひっくり返すほどの変革、すなわち「革命」の可能性が見えてきた段階では歴史上、しばしば見られた現象である。
 (しいた)げられてきた民衆の怒りのエネルギーは凄まじい。
 革命を利用して階級社会などぶっ壊せ、と下層民たちが考えるのは古今東西、皆同じである。
 人間なんだから当然のことだ。
 そして帝(天皇)のみを別格として、それ以外の国民は皆平等という「一君万民」の思想は日本人にとっていかにも馴染みやすい。
 のちの明治、大正、昭和(戦前)の頃に流行る「平等思想」というのは大体このかたちである(幸徳秋水などは例外として)。
 明治の世で「自由民権運動」が盛んだった頃、そこには多くの博徒たちが参加した。
 社会の埒外(らちがい)に置かれている存在ではあるものの、そのくせ腕力だけはあって社会変革に情熱を燃やす血の気の多い男たちが、その界隈には大勢いたからである。

 このとき猪之吉も、その新しい思想を発見したのだった。
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