第64話 甲州勝沼(柏尾)の戦いと一仙の最期

文字数 4,512文字

 たびたび引用するのも恐縮だが『相楽総三とその同志』の冒頭では相楽の孫の木村亀太郎が祖父の雪冤のために奔走しており、そのなかで板垣退助伯爵と面会する場面がある。
 その面会の場面は、何か元になる史料があって書かれたものなのか、それとも単なる長谷川伸の創作なのか、それは不明だが次のような板垣のセリフがある。
「俺は総三さんとかなり親しくしていた。(中略)信州で斬られたときも、わしが居れば、あんな事にさせはしなかったのだ。あの時わしは甲府の方へ新撰組を討ちに行った。三月一日だから二日前だ。新撰組の方は五、六日で(らち)があいたので諏訪へかえってみると、総三さんが()られた後だ、非常に残念におもった。処刑のあった原因か--その真相はどうも自分の立場として云うのは悪い、のみならず、それを発表したのでは、現在の知名の人達に迷惑をかける結果になる」
 後段の部分はともかくとして、前段の部分は、相楽が処刑されるころ、それと同時進行で動いていた「甲州勝沼の戦い」のことを指している。

 前にも触れたが、板垣退助はこの甲州入りに合わせて名字を乾から板垣に変えていた。先祖が武田信玄の重臣板垣信方(のぶかた)につながっており、それを強調することによって信玄を崇拝する甲州人を味方につけようと考えたのだ。
 板垣が下諏訪から甲州へ向かって南下している頃、新選組から「甲陽(こうよう)鎮撫(ちんぶ)隊」と名を改めた一隊も江戸から甲州を目指して西進していた。どちらの隊も進んでいる道は甲州街道である。

 甲陽鎮撫隊を率いているのは近藤勇(大久保剛と変名)と土方歳三(内藤隼人と変名)である。鳥羽伏見の時は近藤が負傷していたため、二人がともに戊辰戦争の戦場へ出陣するのはこれが初めてとなる。
 しかし甲州に近づくにつれて形勢が自分たちにとって不利であることが明白となり、土方は神奈川へ馬を飛ばして菜葉(なっぱ)隊に援軍を求めに行った。
 菜葉隊は千六百人ほどいる幕臣の部隊であったと言われているが、これは以前、加納、篠原、服部たちが横浜で所属していた部隊と同一のものと思われる。青い羽織の制服を着ているため菜葉隊と呼ばれていた。そこまで有力な部隊だったという印象は、あまりない。
 そして実際、この土方の援軍要請は失敗に終わり、そのうえ土方自身も戦闘に参加することができなかった。また一説によると、この甲陽鎮撫隊には勝蔵と付き合いのあった大場の久八も数名の子分とともに加わったという逸話もある。が、真偽は不明。

「甲州百万石が首尾よく手に入れば隊長は十万石、副長は五万石、副長助勤は各三万石、調役は一万石ずつ配分しよう」
 甲州へ向かう道中、近藤はこのような大言を吐きながら、大名が乗る立派な駕籠に乗ってのんびりと故郷の多摩方面へ向かった。しかも軍資金五千両、大砲二門、小銃五百丁を勝海舟から支給されるという至れり尽くせりの優遇ぶりであった。近藤はまさに故郷に錦を飾る心地であったろう。
 ただし、これは勝海舟が「近藤勇の新選組」という危険の種を江戸から追っ払ったという側面もあったという。多分それが真実であったろう。

 この甲州勝沼の戦いについては、よく言われる話として、
「近藤たちはのんびりと甲州へ向かったため、一日違いで板垣に甲府城を押さえられ、それが致命的な敗因となったのだ」
 といったものがある。
 近藤たちがもっと急ぎ足で行軍して甲府城をさっさと押さえていれば、城にたてこもって相当激しく抵抗していただろう、そして板垣の軍勢をいくらかでも足止めできていただろう、と。
 戦力は新政府側が約九百人だったのに対して、近藤たちは約三百人で、形勢不利が判明してからは脱走者が相次いで百二十人にまで減っていた。ただし甲府城にいる五百人の幕臣たちは近藤の軍勢が来るのを今か今かと待ちわびており、近藤が先に到着していればこの五百人が味方となって十分戦えた、とも言われている。

 果たして本当にそうだっただろうか?
 高松隊が甲州へ来た時の様子からして、甲府城の幕臣たちにそれほどの戦意があったとは思えない。
 あのとき一仙を論破して高松隊を解散させた新政府軍の黒岩たちは、別に城を開城させたわけではなかったが、新政府側への恭順は取りつけていた。その甲府城代が近藤たちをそうすんなりと城内へ引き入れたとは思えないのだ。
 第一、幕府がそこまで本気で新政府側と戦うつもりであったなら、とっくの昔に甲州へ軍勢を送り込んで甲府城を固めていただろう。また高松隊が来た時も甲府城代に徹底抗戦するよう命じていただろう。
 今さらこんな取って付けたような形で近藤を甲州へ送り込んだのは、やはり「勝海舟による厄介払いだった」と見るのが妥当だろう。
 それゆえ甲陽鎮撫隊は事前に甲州を偵察することさえロクにできなかったし、直前になって神奈川へ援軍を依頼しに行くというドタバタぶりも露呈して、まともに戦うことができなかった。
 近藤は「厄介払いされた」と分かっていたから道中、最後の最後ということで大名行列もどきの行軍をやったのだろうか。多分そこまで女々しい男ではなかったろう、とは思うが、多少やけっぱちになっていた部分はあったかもしれない。

 そしてこれまで剣一筋でやってきた「近藤勇の新選組」が、鉄砲と大砲をうまく使いこなす薩長土の新政府軍にかなうはずがなかった。現代で例えるなら、拳銃しか持たない警察部隊が、戦車やロケットランチャーを有する陸軍部隊と戦うようなものだ。
 新選組から甲陽鎮撫隊に名を改めた彼らは、鉄砲や大砲に不慣れなため、鉄砲の弾を逆さまにして銃につめるわ大砲を撃ったと思ったら砲弾は破裂しないわで、ろくに甲州で戦えなかったという。

 そんなわけで、甲州の入り口にある柏尾でおこなわれた甲州勝沼の戦いは、二時間ほどで近藤たちの惨敗に終わった。三月六日、すなわち相楽が死んだ三日後のことである。

 江戸へ逃げ帰った近藤は翌四月に流山へ入って陣を構えた。近藤は大久保大和と変名を名乗って正体を悟られないようにしていたが流山で新政府軍に拘束された。
 そこへ新政府軍に入っていた元御陵衛士の加納鷲雄と清原清が面通しのために呼ばれて「大久保大和は新選組の近藤勇である」ということが判明する。
 そのときの近藤の様子は「はなはだ恐怖した姿であった」という説と、「お久しぶりです、と落ち着いて加納に答えた」という説と両方ある。
 四月二十五日、近藤は板橋で斬首された。首は三日間さらされた。


 少し時間が進み過ぎたので三月に時間を戻す。
 相楽が刑死し、柏尾で戦闘がおこなわれている頃、小沢雅楽之助(うたのすけ)こと一仙は、まだ甲府の牢内にいた。
 甲州で大きな話題となった高松隊による「偽勅使事件」を受けて、甲州の民衆は()れ歌を流行らせた。

一ツとせ 人をどこまでおぶう気か 鎮撫のお旗でお乗り込み コノお公家さん
二ツとせ 不用のお公家をつれ出して 深いたくらみの十箇条 コノ雅楽之助
三ツとせ 御岳の御師(おし)めも供に来て 騒ぎに逃げ出す コノ腰抜けめ

 三月十二日、東海道軍から参謀の薩摩藩士・海江田武次(たけじ)(信義。かつての有村俊斎(しゅんさい))が甲府城へ派遣されて正式に城を受け取った。山梨県の公式記録では、海江田は一応、初代知事ということになっている。が、翌四月には東海道軍の副総督柳原前光がそれに取って代わり(二代目知事)、この年の十月には、なんと赤報隊事件で騒動を起こした、あの滋野井公寿が三代目知事となって甲州へ赴任してくるのである。

 そして三月十四日。
 京都では「五箇条の御誓文」が発布された。
 その同じ日、甲府の山崎刑場において一仙は斬首された。享年三十九。

 罪状を示す条文は次の通り(多少読みやすく修正した)。
「この者は悪逆無道の巨魁にて、色々な偽計をもって多人数を逆徒にだまし入れ、諸所において金策をなし、上下人心を動乱いたさせ始末は不届至極。打ち首を申しつけざるを得ず、首級を道にさらし置くものなり」
 彼の辞世の句を一つだけ挙げておく。

 おしからん命なれどもおしかりき 尽す心のあだとなりせば

 山崎刑場は、現在の酒折(さかおり)駅の少し東の山崎三差路交差点近くにあった刑場で、現在ここに「南無妙法蓮華経」と文字がきざまれた石碑が立っている。当時この場所は甲州街道と秩父往還(おうかん)の合流地点だったので、処刑の見せしめ場所となっていた。
 一仙の処刑の際、これに連座したとして甲府の町人・山形屋重兵衛という人物も斬首された。高松隊で死刑になったのはこの二名で、他は嚮導隊と同じく追放刑などの処分となった。
 総帥だった高松実村、それに家老職だった岡谷繁実はともに謹慎処分という比較的軽い罪でおさまった。
 公家はそもそも江戸時代、斬首刑に処されるということは、まずなかった。岩倉具視がいっとき岩倉村へ追いやられたように、重くてせいぜい追放処分である。ただし実村の場合、彼の後日談話によると「切腹を命じられることが内々に決まりかけていたそうです」とあり、それを多くの公家仲間たちが赦免(しゃめん)嘆願(たんがん)して謹慎処分で済んだという。とにかくこの一連の事件で公家が厳罰を受けたという例は一つもない。
 ハッキリ言って、身分と後ろ盾があったおかげである。
 その点では岡谷繁実も似たようなもので、彼は館林藩の家老職という重臣であったから切腹にならずに済んだ。翌年、謹慎処分は解除。そのあと様々な官職を歴任し、さらに『名将言行録』『皇朝編年史』などを編纂(へんさん)して功績を残す。八十六歳まで生きた。
 この当時は身分や後ろ盾があれば、そう簡単には死刑にならない(あまつさえ滋野井などは、あれだけの騒ぎを起こしておきながら、すぐ甲府知事に就任している)。

 逆に相楽や一仙といった軽輩の命は、まるでその身代わりであるかのように、簡単に消された。
「命は鴻毛(こうもう)よりも軽し」
 という言葉は本来、
「なあに、命なんて惜しくはない。この大業が果たせるなら俺の命なんて軽いものさ」
 といった具合に使うべき言葉のはずだが、この時代、また現代の独裁国家でもそうだが、支配者側が使う言葉としてふさわしいように思える。

 一仙の首は三日間さらされたが、武藤家が役人に頼みこんで、なんとかその首をもらい受けた。本来、罪人の首はそのように軽い扱いのものではない。しかし一仙やその家族と深い関係がある武藤家が尽力してなんとか首をもらうことができた。藤太の妻のお登婦(とう)は気性の強い女性で、彼女が懸命に訴えて首をもらってきたという。罪人の首を表立って葬るわけにはいかず、ひそかに竹藪のなかに葬った。墓はのちに武藤家の墓地に建てた。

 武藤外記・藤太父子としては念願の「甲府城開城」が達成されたにもかかわらず、まったく重苦しい気分であった。
 もちろん身内同然の一仙が死罪になったということが二人を落ち込ませる一番の原因だが、武田浪士や神主たちが期待をかけた高松隊が新政府から罰せられたということと、そのうえ自分たちも一仙の関係者ということで罪に問われかねない立場にある、ということで暗い気持ちに打ち沈んでいるのだ。

 せっかく王政復古になったというのに、なんということだ、と外記と藤太は悲嘆にくれた。
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