第58話 赤報隊と高松隊(六)

文字数 5,740文字

 木曽川の北岸にある鵜沼宿は現在でいえば岐阜県各務原(かかみがはら)市の一部だが、この当時は尾張藩領であった。そして当時も今も、その川向かいには犬山城があり、犬山も尾張藩領である。ここから南へ行くと名古屋へ至ることになる。
 二日後、すなわち一月二十五日、勝蔵も含めた赤報隊の本隊が鵜沼へやってくると、すでに相楽の一番隊は鵜沼を出発して先へ進んでいた。
「困ったことをしてくれたものだ」
 と三樹三郎たち赤報隊幹部は困惑し、騎馬の伝令を飛ばして相楽を呼びに行かせた。

 しばらく経つと相楽も馬に乗って鵜沼の赤報隊本営に戻ってきた。一番隊の隊士たちは大久手(おおくて)宿へ向かわせて、自分だけ戻ってきたという。
 三樹三郎は相楽に詰問した。
「なぜ勝手に東進したのか?我々はこれから名古屋へ行き、東海道軍と合流することにしたのだから、貴殿の一番隊もすぐに呼び戻したまえ」
「なにを悠長なことを。ぐずぐずしていたら碓氷峠を幕府軍に押さえられてしまうぞ」
「貴殿こそ、なにをそんなに(あせ)っているのか。京都の命令に背いてまで急ぐ必要などないだろう」
「臨機応変が戦さの習いだ。実際に事に臨めば、判断は現地の将兵に委ねられるのだ。私はそのやり方を貫き、三田の薩摩藩邸で作戦を成功させた」
「功を焦れば、その過去の成功に傷がつくことになるかもしれないぞ」
「何を言うか。私は自分の功名のために申しているのではない。京都の命令に背いて悪名を着ようとも、必ず幕府を倒す。この機を逃せば、攘夷を実行する機会も失ってしまうかも知れん」
「とにかく、我々二番隊と三番隊は名古屋へ向かうことに決定したのだ。もちろん綾小路卿もそれにご賛同しておられる。今さら貴殿が何と言おうと、この決定がくつがえることはない」
「あなた方は好きになさるがよかろう。我々一番隊だけでも信州へ向かう」
「貴殿の隊だけ赤報隊の方針に従わないつもりか?綾小路卿がおられなくなるのだぞ。公卿様抜きで鎮撫活動などできるわけがないだろう?」
「先に高松卿が小沢雅楽之助(うたのすけ)と共に進んでおられるではないか。いざとなればあちらと合流すれば良い。それに私は前に一度、京都へ戻って中山道の進軍と錦旗(きんき)下賜(かし)を願い出ているのだ。そのあと使者を送って重ねて陳情してある。それゆえ、これから私がもう一度京都へ戻って直にお願いすれば、必ず我々の進軍を聞き届けてくれるはずだ。私はこれからただちに京都へ出立する」
 と相楽は言い放って、すぐに馬に乗って京都へ向かった。
 三樹三郎は相楽の頑固さに呆れ、とにかく自分たちだけで名古屋へ向かうことにした。

 長谷川伸氏が書いた『相楽総三とその同志』(講談社文庫)という、相楽総三のことを書くにあたっては避けて通れない書物の中で、この鵜沼で相楽隊だけが別れることになったことを指して「相楽とその一党は、このときから悲劇の花道へ向って進んだ」と書いている。

 相楽の一番隊と別れた本隊は木曽川を渡って犬山へ入り、そこから名古屋を目指した。そして小牧を経由して二日後に名古屋へ入り、その翌二十八日、綾小路が三樹三郎と油川の両隊長を従えて名古屋城へ入り、徳川慶勝と面会した。
 そこで慶勝は綾小路に、
「東海道と中山道の諸藩には新政府へ恭順するよう、当家から言い聞かせてありますので、どちらを進まれるにしてもご心配はいりません」
 と申し述べた。そして赤報隊は名古屋で丁重に扱われた。
 しかし綾小路たちと面会した慶勝の表情には、うっすらと暗い陰が漂っていた。

 この直前に名古屋ではいわゆる「青松葉事件」という、家臣に対する血の粛清事件が起きていたのである。
 幕末の時代、全国ほとんどの藩で大なり小なり尊皇派と佐幕派による内部対立があった。
 有名なところでは長州藩の正義派と俗論派、水戸藩の天狗党(正義派)と諸生(しょせい)党の争いがあげられる。この時代の“正義”とは尊皇派のことを指す場合が多い。ただしもちろん“自称”である。相手は決してそれを自称する敵のことを“正義”とは認めない。
 この両派は中央の政局に左右されて、そのつど粛清をくり返してきた。
 安政の大獄の際は尊皇派が粛清され、桜田門で井伊が死んだ後はその報復で佐幕派が粛清され、禁門の変で長州が敗れたあとは再び尊皇派が粛清され、今度の幕府崩壊によってまたもや佐幕派が粛清される、といった報復合戦をくり返してきたのである。
 地方の諸藩としては「長い物に巻かれる」しか(すべ)がなく、中央政局の変動によってそのつど右往左往していたのだ。長州と水戸の粛清は人数が桁違いなので少しは知っている人がいるかもしれないが、実は全国の諸藩でも人知れずそういった血の粛清がおこなわれていたのである。

 それらのなかで、尾張藩の青松葉事件はいくぶん規模が大きな粛清だったと言えるかもしれない。
 尾張藩の場合は、尊王の志が金鉄のように硬いと自称していた「金鉄党」と、そんな金鉄など我々が

(鍛冶屋が使う送風装置)にかけて簡単に溶かしてみせると自称していた「ふいご党」が対立していた。つまり金鉄党が尊王派で、ふいご党が佐幕派だ。
 尾張藩は新政府に参加しており、慶勝は、倒幕派ではなかったものの新政府の要人の一人であった。
 が、鳥羽伏見で幕府が敗れた直後、幕府擁護の姿勢が強い慶勝に対して岩倉具視が、
「我々の江戸攻めに協力するのかしないのか。早く態度をハッキリと決めよ。今後も幕府を助けたいというのなら別にそれでも構わない。ただし今後、尾張藩からの嘆願は一切受けつけない」
 と旗幟(きし)を鮮明にするよう強く迫った。
 また尾張藩の家老で犬山城主の成瀬正肥(まさみつ)などに対しても岩倉は同様に迫ったという。
 そして一月二十日、慶勝は成瀬たち金鉄党の重臣を率いて名古屋城に戻り、渡辺新左衛門ら佐幕派(ふいご党)の重臣三人に対して、
「そなたたちは朝命によって死罪を(たまわ)る者なり」
 と申し渡し、即日、斬首刑を実行した。
 以後、粛清は二十五日までつづき、合計十四人が斬首、また多くの佐幕派が永蟄居(えいちっきょ)、蟄居、家名断絶、隠居謹慎といった処分をうけた。
 これが青松葉事件と呼ばれる尾張藩の血の粛清事件である。

 そうやって旗幟を鮮明にした慶勝は、新政府の東征を強く後押しする政治活動をおこなった。
 綾小路に語っていたように、慶勝は東海道と中山道(特に木曽路)の諸藩に対して「勤王誘引(ゆういん)」すなわち、
「すみやかに新政府へ恭順せよ。そして東征軍には抵抗することなく、そのまま道をお通しいたせ」
 と説得工作をおこない、それらの諸藩から誓紙を提出させたのである。

 御三家筆頭、六十二万石。中部地方における尾張徳川家の影響力は絶大である。
 そもそも東海道(駿(すん)(えん)(さん))は幕府領、親藩、譜代といった徳川家に近い勢力で固められており、「尾張徳川様のご意向とあらば」と(もとより新政府に抵抗する気力も薄かったが)その説得に乗りやすい下地があった。
 さらに美濃と信州の木曽川周辺には尾張と木曽川の地政的な理由から尾張藩領が広がっており、尾張藩は中山道にも強い影響力を持っていた。美濃の太田宿には尾張藩の太田陣屋があり、信州の木曽福島宿の関所も尾張藩が管理していた。
 ちなみに、その中間にあたる美濃と信州の国境付近に島崎藤村の生まれ故郷にして小説『夜明け前』の舞台として知られる馬籠(まごめ)宿があり、このあたりも尾張藩領である。さらに言うと太田陣屋は坪内逍遙の生まれ故郷で、彼の父は太田陣屋の手代、つまり尾張藩士である。このとき太田陣屋には十歳の逍遙が住んでいた(むろん「逍遙」は後年につけたペンネームだが)。

 相楽の赤報隊が必死になって走り回るよりも、この慶勝による説得工作こそが新政府にとっては重大な結果をもたらすものだった。
 赤報隊の軌跡を描くということは、鳥羽伏見の戦いから三月十五日の江戸開城までの空白部分を埋める、という作業でもある。
 従来、幕末を扱うドラマなどでは鳥羽伏見の戦いが終わったあとは、洋装姿の官軍が笛や太鼓をピーヒャラドンドン鳴らして「宮さん宮さん」と歌いながら錦の御旗を掲げて行軍し、そこから一気に西郷と勝の談判場面まで飛んで、その途中経過は省略されることがほとんどだった。
 その途中経過の要点だけに絞るとすれば、東征軍が江戸へ向かうにあたって、少なくとも関八州へ攻め込むまでのレールを敷いた一番の立役者は慶勝である。彼の諸藩への説得工作はそれだけ重要だったということだ。

 それにもう一つ付け加えると、
「三井など関西の豪商が新政府に協力することを誓って資金調達に動き出した」
 ということも大きかった。
 岩倉が三井などの豪商からその約束を取りつけたのも、ちょうどこの頃のことである。
 慶勝の協力と三井など豪商の協力。
 この二つが東征軍の江戸進軍を有利にした二大要素である。
 そして、このことによって赤報隊の存在価値はほとんど無くなってしまった。

 それは確かに事実であり、だからこそ、
「相楽の末路が悲惨な結果となったのは、新政府(特に岩倉)が三井などの豪商と手を握って、相楽たち草莽を切り捨てて闇に葬り去ったからだ」
 などといった言説を見かけることも珍しくない。
 根拠のない話ではない。
 三井・小野・島田といった関西の豪商はのちに新政府から年貢徴収の御用を請け負うことになる。そこに「資金調達に協力したことによる見返り」といった側面も幾分はあっただろう。
 そしてそういった政・官・財の癒着によって、
「年貢徴収のためには『相楽が喧伝した年貢半減令』はどうしても邪魔だった。だから邪魔な相楽は抹殺されねばならなかったのだ」
 つまり三井たち豪商が悪いのだ。相楽たち草莽は、三井たちブルジョワによって抹殺されたのだ。
 ということであるらしい。

 が、さすがにこれは「階級闘争史観」にとらわれ過ぎた妄想であろう。
 確かに三井などの豪商は新政府からある程度の優遇は認められた。新政府が大変なときに資金協力をして助けたのだから、ある程度の見返りはあってしかるべきだろう。
 といっても新政府は「軍事政権」なのだ。
 もとより徳川幕府だって純然たる「軍事政権」だった。
 三井が新政府を動かしたのではない。新政府が三井に無理やり金を出させたのだ。
「鳥羽伏見の最中に三井の手代が大久保利通のところに大金を持って来て、大久保はそれを全軍の前でド派手にバラまき、これによって新政府軍が一気に活気づいた」
 といった「三井伝説」があるので、三井がこのとき果たした役割が過大に見られているきらいがある。
 三井もこのとき、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだ。
 「軍事政権」である新政府は、三井に協力を断られても他をあたればいいだけのこと。なんなら力づくで三井を解体してもいいのだ。円滑に東征を進めるためには三井の協力があったほうがいいのは確かだが、それがダメなら小野でも島田でも、あるいはその他の豪商に協力させるなりして、彼らを「新時代の政商」として優遇してやればいいだけのことだった。そういった状況下で三井は必死に生き残りを模索して、新政府のために下働きすることを受け入れたのである。
 そして年貢徴収の御用と相楽の年貢半減令の関係についても、その関連性はほとんど無かったと見るべきだろう。

 新政府はこのころ、すでに年貢半減の方針を撤回している。
 岩倉は一月二十三日付けで香川敬三へ送った手紙に「よほど心苦しくはあるが、年貢半減は実行しないことにした」と書いている。
 だいたい年貢半減など最初からできるわけがない政策なのだ。
 最初の一時期だけそれを喧伝することによって領民の気持ちを和らげておき、いざ、その地に入ってしまえば「実は当面延期となった」といって約束を反故(ほご)にする。酷い話だ、と思うだろうが、「軍事政権」であればそれが可能なのだ。一月中旬までは新政府も幕府がどれほど激しく抵抗してくるか先が読めず、こういったえげつない手法も使った。が、一月下旬には大勢が判明したのでそんな手法は不要となった。
 しかも年貢半減の対象は幕府領のみで、それほどたくさんあるわけではない。そしてその幕府領のみが新政府によって接収される土地で、新政府軍はそこで新たな支配者となるのだ。領民としても「何をされるか分からない」と恐怖したに違いない。約束を反故にされたからといって、そう簡単に騒ぎは起こせなかったろう。
 そしてこの年貢半減令は相楽も強調していたように「関東の民心を切り崩すため」という狙いから実行された、という側面もあった。そういった諸条件から、最初の一時期だけ、現代風にいえば「パフォーマンス」として利用されたに過ぎない。
 第一、もし本当に年貢半減など実行すれば、諸藩が迷惑する。
 新政府には諸藩に年貢半減を命令する権限などないし、幕府領だけでそんな「パフォーマンス」をやられては諸藩の領民たちまで「うちも、うちも」と言って騒ぎ出すに決まっている。どう考えても年貢(税金)を半分にするなど、できるはずがない政策だというのに。
 現代でも、何年か前にリーマンショック不況という混乱の最中に「高速道路無料化」「ガソリン税廃止」「普天間基地の県外移設」云々と、できるわけがない「パフォーマンス」を打ち出して一時的に政権を奪った政党があったが、幸いにも「軍事政権」ではなかったのですぐに民意によって政権から引きずりおろされた。幕末も現代も、民衆は「そんなことできるわけがないだろう。見せかけの発表に決まってらあ」と見抜けないほど愚かだったのだろうか。多分、それを信じ込んだ人間はそんなに多くはなかっただろう。

 ともかくも「三井が巨悪の根源である」といった発想はあまりに極端なものの見方で、三井が政権に協力しようとしまいと、年貢半減など最初からできるはずがない政策だったのだから、三井と相楽のことを結びつけるのは牽強(けんきょう)付会(ふかい)と言うしかない。
 そもそも岩倉が赤報隊に期待していたのは旗あげ当初の頃だけで、そのあとは別にたいした期待もしておらず、かなり早いうちから東海道軍に合流するよう赤報隊に命じている。

 岩倉の眼中には既に赤報隊や相楽のことなどまったく入っていなかった、ということである。
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