第45話 近江屋、油小路、天満屋、丹波橋(三)

文字数 5,410文字

 実はこの「天満屋事件」の陰で、すでに様々な倒幕計画が進められていた。
 もう慶応三年(1867年)も十二月である。「幕末」も、いよいよ最終盤にさしかかっている。
 天満屋事件には多くの土佐人が参加し、中岡が指揮していた陸援隊からも岩村精一郎、斎原治一郎などが参加していたが、幹部の田中顕助などは参加しなかった。龍馬の敵討ち、というだけでなく、隊長だった中岡の敵討ち、という事であるにもかかわらず。
「陸奥や加納が三浦を犯人と決めつけたのは根拠が不十分だ」
 との判断もあったであろう。しかしそれ以上に、
「龍馬と中岡の敵討ちなど小さい。幕府を丸ごと倒してしまえば、それこそ地下の龍馬と中岡が真に喜べるではないか」
 と田中たちは考えた。
 陸奥たちが天満屋に斬り込んだのと同じ日に、陸援隊の幹部である香川敬三が岩倉具視からの密命を公家の鷲尾(わしのお)隆聚(たかつむ)へ伝えた。鷲尾は以前から過激派の公家として知られている人物である。
 その岩倉の密命とは、
「陸援隊士と十津川郷士たちを率いて高野山で挙兵せよ」
 という指令だった。
 過激派と言われるだけあって鷲尾は喜んで挙兵の準備を進め、二日後すなわち十二月九日には田中、香川、大橋など陸援隊幹部と共に隊士たちを率いて京都を出発。そのあと伏見、大坂を経て十二日には高野山へ入った。
 この移動の途中、大坂湾を目にした鷲尾は、
「大きい湖やなあ。あれは何という湖や」
 と田中たちに尋ねた、という逸話がある。ほとんどの公家たちは京都を出たことがないため海というものを知らなかったのだ。
 当初は百人ぐらいの軍勢だったが、のちに諸方から志士たちが馳せ参じて数百人にふくれ上がった。
 とはいえ、これで「挙兵」というのはちょっと大袈裟すぎる。
 別にこのあと彼らがどこかへ攻め込む、というわけではないのである。単に高野山で兵がたむろしているだけのことだ。
 ただし、これは「敵の背後へ(くさび)を打ち込む」という岩倉の果断な一手ではあった。
 高野山へ兵を置くことによって大坂の背後を突き、同時に吉野方面の抑えとし、さらに和歌山の紀州藩へにらみをきかせる形を作ったのだ。
 特に紀州藩はこれで、大坂や京都へ兵を送りづらくなった。田中たちからすれば天満屋などへ斬り込むよりは、こちらのほうがよほど紀州藩への威圧になる、と思ったであろう。

 そして田中たちが高野山へ向かっている頃、京都の御所で「王政復古のクーデター」が決行された。
 天満屋事件の二日後、つまり十二月九日のことである。
 朝廷内では岩倉が中心となって政変を断行し、軍事面では西郷が中心となって兵を指揮し、その両面を大久保が陰から支えてクーデターを成功させた。
 そしてこの前日には西宮(にしのみや)で陣を張っていた約千人の長州兵が上京を開始し、クーデター当日、京都郊外の光明寺(こうみょうじ)(現、長岡京市粟生(あお))に着陣した。
 ちなみに加納宗七が天満屋を襲ったのと同じ日に、のちに彼が活躍することになる神戸で「兵庫開港」の式典が開催された。式典には多くの外国人も参加し、港には何隻もの外国軍艦が集まっていた。王政復古のクーデターは兵庫港での貿易を幕府に独占させないために薩摩藩が敢行した、という側面もあり、兵庫開港とクーデターの期日が近いのはそのためである。

 この倒幕派による突然のクーデターを受けて、将軍徳川慶喜は京都に残ることを断念。
「こうなったら一刻も早く薩摩を討つべし!御所を攻めて、我々幕府軍が薩摩から御所を取り戻すのだ!」
 と声高に叫ぶ幕臣および会津・桑名藩士たちを慶喜はなんとか抑え込み、十二日の夜、多数の幕府軍を率いて大坂へ下った。

 こうして次々と連鎖反応のように歴史の歯車が動き出したのである。



 そういった歯車の動きとはまったく無縁なところで、御陵衛士の残党たちが静かに(うごめ)いていた。
 このころ元御陵衛士の篠原や加納たち十人は伏見の薩摩藩邸でかくまわれている。
 慶喜の軍勢が京都から大坂へ下ったことにより、伏見は幕府と薩摩が対峙する最前線となっていた。
 伏見には幕府の拠点である伏見奉行所がある。
 ここに京都にいた幕府軍の一部が滞陣しており、新選組もここに詰めていた
 伏見奉行所の場所は、現在で言うと近鉄桃山御陵前駅の少し南の辺りにあった。奉行所のすぐ北には御香(ごこう)宮神社がある。
 一方、伏見の薩摩藩邸は、これも現在で言うとその北にある丹波橋駅から西方へ行き、濠川(ほりかわ)を渡ったところにあった。
 このように薩摩藩邸と伏見奉行所は十町(約一キロ)内外の距離で対峙していた。
 それはつまり、元御陵衛士と新選組も伏見でにらみ合っていた、ということである。

 十二月十八日の朝。
 薩摩藩邸の一室にいる篠原と加納のところへ同僚の阿部十郎がやって来て談判におよんだ。阿部は仲間の内海と佐原も引き連れている。
「篠原さん。なぜ、伊東先生の敵討ちをしないのだ?我々の手で新選組に復讐しようではないか!」
「敵討ちをしないとは言ってない。その機会があればもちろん近藤たちを討ち果たすつもりでいる。だが、新選組はあの伏見奉行所の中にいるのだ。手を出せるわけがないではないか。それに今、我々はそれどころではない。薩摩の中へ入ってみて分かっただろう?薩摩と幕府の戦さは近いうちに必ずある。そのとき幕府を倒せば、それこそ伊東先生の無念を晴らす一番の手向(たむ)けとなるではないか」
「そんなことでは手ぬるい!それまで我々にじっとしていろと言うのか?!あんた方はあの日、油小路で戦えたからまだいいかも知れんが、あのとき留守にしていた俺たちの身にもなってみろ。いかにも残念無念だ!近藤たちに一太刀浴びせずにおくものか!」
「あせっても仕方あるまい。それに我々はもう薩摩の指揮下に置かれているのだ。勝手に伏見奉行所と事を構えるわけにはいかん」
「だけど加納君。君は昨日、京都へ探索に行って、沖田が近藤の妾宅にいることをつきとめてきたのだろう?」
「ああ。伊東先生が殺された時に行った、あの妾宅だ。あそこで沖田は寝込んでいるはずだ」
「だったら沖田だけでも殺そうじゃないか」
 と阿部が言うと、篠原と加納はギョッとした。そして加納が答えた。
「俺は別に沖田を斬るつもりで調べてきたわけではない。探索の仕事として、ありのままを報告しただけのことだ。あんな肺を患って寝込んでいる病人を斬ったところで、なんの自慢にもならん。それに奴は油小路にも来てなかったはずだ。放っておくべきだろう」
「構うものか。沖田は近藤の愛弟子だ。奴を殺せば近藤も大いに苦しむだろう。いい気味だ。伊東先生を失った我らの苦しみを奴らにも味わわせてやる」
 そう言うと阿部は、篠原と加納が止めるのも振り切って、内海と佐原をつれて京都市街へ向かった。
 阿部十郎は頑固で気性の激しい男だった。
 伊東道場の一員だった篠原たちと違ってかなり早い時期に新選組に加入したのだが、近藤たちを嫌って一度脱退した経験がある。それでも数年後にシレっと隊へ戻ってきて、そのとき伊東の一派に近づいたのだった。そして御陵衛士として再び新選組を脱退した。かつて山南敬助は脱退の罪で切腹させられたものだが、阿部のように二度も新選組を脱退した男は他に一人もいない。ちなみに後年、阿部は篠原と加納の悪口を手記で書き、ひんしゅくを買うことになる。

 伏見を出発した阿部たちは竹田街道を北上していき、途中で堀川の方へ左折し、昼前には不動堂村の近藤の妾宅に到着した。
 健康体の沖田総司であったなら自分たち三人では返り討ちにされたかもしれないが、今の重病を患う沖田であれば楽に斬り殺せるだろう。
 そう気負い込んで三人が妾宅に乗り込んだところ、すでに建物は空き家となっていた。
 ひと足違いであった。
 妾宅は前夜のうちに引き払われ、沖田も伏見奉行所へ移ってしまっていたのである。

 阿部たちは肩を落として伏見へ引き返すことになった。が、その前に、以前から御陵衛士を支援してもらっていた知り合いのところへ立ち寄った。するとそこで昼食をごちそうになり、さらに油小路で死ななかった祝い金として五十両のこづかいをもらった。
 三人はありがたく金を受け取り、その足で寺町へ買い物に行った。目当ては鉢金(はちがね)や小手などの防具である。もしこれから近藤たちを襲撃することがあれば使うかもしれない、ということで人数分、買いそろえておこうと思ったのだ。
 けれども彼らは、それを買うことはできなかった。
 なんとその寺町で、当の近藤勇を見かけたのだ。
 幕府軍が大坂へ下ったとはいえ、まだ二条城には残務処理を任された幕府役人が少しだけ残っており、近藤は彼らと相談するために伏見から京都へ出てきたのだ。
 近藤は馬にまたがった堂々たる様子で道を進んでいた。従者として島田魁などの隊士三名と馬丁を一人引き連れている。
(しめた!こんな所で近藤を見かけるとはなんたる幸運!東へ向かっているということは、おそらく伏見街道を通って伏見へ戻るところであろう)
 と阿部は思った。
 悠長に買い物なんかしている場合じゃない。急いで伏見の薩摩藩邸へ戻り、皆に知らせねば。
 そう考えた三人は、急いで竹田街道を突っ走って薩摩藩邸へ帰り着いた。そして息を切らしながら篠原たちに事の次第を告げた。
「今こそ近藤を殺す絶好の機会だ。これからすぐに伏見街道へ行って奴を待ち伏せしよう!」
 この阿部たちの進言に、篠原と加納も即断即決した。
 沖田を殺すのには消極的だった二人も、相手が近藤であれば遠慮はいらない。伊東、藤堂、服部、毛内の敵を討たずにおくべきか、と喜び勇んで伏見街道へ向かった。
 その際、薩摩藩に願い出て鉄砲を二丁貸してもらった。火縄銃と違って銃身内に施条の入ったライフル銃である。

 作戦は次のように立てた。
 伏見街道の丹波橋筋で近藤たちを待ち受け、近くの空き家から富山と阿部の二人が鉄砲を放つ。
 おそらくこれは当たらないだろう。しかし発射の煙を目指して敵が空き家へ向かって斬り込んで来るに違いない。それを脇で待ち伏せている篠原と加納が槍で仕留める。さらに内海、佐原たち五人が敵を包囲して、皆で敵を殲滅(せんめつ)する。
 段取りは以上である。

 篠原たち御陵衛士の残党は伏見街道の丹波橋筋の近くに潜伏し、固唾(かたず)を飲んで近藤たちを待った。
 それからいくばくもなく、近藤一行が伏見街道をこちらへ向かって南下してくるのが見えた。夕七つ(午後四時)頃のことだった。
 空き家で待ち受けていた富山は「来た来た!」と言うとすぐさま一発ぶっ放し、まだ距離が遠いと思っていた阿部も、それに続けてあわてて撃った。
 富山の撃った弾は近藤の右肩に命中し、阿部は外した。
 当時の火縄銃は命中率が低かった。それで皆は「遠距離では当たるはずがない」と思い込んでいたのだが、薩摩の最新式の施条銃(ライフル銃)は銃身内にらせん状の溝が切ってあり、弾は先のとがった(しい)()弾で、射程距離も命中精度も優秀だった。
 そのため富山が撃った弾は、意外にも近藤に命中したのである。
 弾が命中したのは良かったのだが、これで逆に段取りが狂ってしまった。
 空き家の鉄砲隊を目指して近藤たちが斬り込んで来ると思っていたのに、近藤は肩から血を流しつつも馬につかまったまま一気に道を駆け抜けてしまったのだ。鉄砲で撃たれながらも落馬しなかったのは「さすが近藤勇」と言うしかない。従者の隊士は一人が殿(しんがり)として残り、他の二人は近藤について行ってしまった。
 空き家の近くで待ち伏せしていた篠原たちは突然の出来事に反応できず、追撃できなかった。一人、佐原太郎が必死に追いすがって近藤へ斬りつけた。が、一歩及ばす、取り逃がした(先に紹介した阿部が後年、篠原と加納の悪口を書いたというのは『この時、二人は臆して逃げた』と書いたのだ)。それで、彼らは殿(しんがり)として残った隊士一名と逃げ遅れた馬丁を斬り殺し、伊東や藤堂たちの敵討ちの代わりとした。
 かくて近藤勇襲撃計画は「流星(りゅうせい)光底(こうてい)長蛇(ちょうだ)を逸す」という結果に終わった。
 ただし近藤の肩の傷は思いのほか重く、当分の間、彼を戦線離脱に追い込んだ。
 これにより、近藤はこのあと起こる鳥羽伏見の戦いには参加できず、代わって土方歳三が新選組の指揮をとることになる。

 このあと篠原たちは伏見の薩摩藩邸へは戻らず、急いで伏見街道を北上して現場から逃げ去った。
 というのは、伏見奉行所へ逃げ込んだ近藤が新選組の追撃隊を送って寄こすと思ったのだ。さらに言うと、この騒ぎをきっかけとして伏見で薩摩と幕府が衝突することを恐れたのだ。
 伏見街道を北上して京都市街へ入った篠原たちは今出川まで行って薩摩藩邸に逃げ込んだ。
 藩邸内にはたまたま中村半次郎がおり、篠原がこの件を報告すると中村は、
「鉄砲でやるんなら、ないごて馬を狙わん。人を狙ったのが間違いごわす」
 と篠原たちの失敗を鋭く指摘した。中村半次郎は無学のように思われがちだが「将を射んと欲すれば先ず馬から射よ」という故事ぐらいは知っている男であった。


 龍馬・中岡の暗殺。それに復讐するための天満屋事件。
 伊東たちを殺した油小路事件。それに復讐するための近藤勇狙撃事件。
「まるで博徒同士の抗争のようだ」
 と人々に想起させるような血で血を洗う殺し合いがつづいた。

 しかし世の中の動きはそういった小さな出来事とは関係なく、このあと大きく動き出していく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み