第40話 夜明け前の再会(一)

文字数 5,063文字

 公家の白川資訓(すけのり)に仕える武士となった池田勝馬こと勝蔵は、博徒の親分であった過去を振り払うかのように時局のことを学び始めた。

 天皇も将軍も新しくなったばかりである。
 ということで、政局は風雲急を告げている。
 この頃の京都の政局は刻一刻と変化しており、古くから政治活動をしてきた人間でもまったく先を見通せない状況だった。いわんやこの時期になってようやく京都に飛びこんで来た勝蔵だ。そう簡単に現状を把握できるわけがない。が、それでも白川家の武士として様々な公家や武家の屋敷へ足を運び、政局について一から学び始めた。
 勝蔵の学問の師匠は武藤藤太であり、勝蔵を白川家に送り込んだのも彼である。
 その藤太からの影響に加えて、公家に仕えている身である以上、勝蔵の思想は当然尊王攘夷である。
 公家が天皇を尊ぶのは(尊王なのは)当然のことで、そのうえ先帝の孝明天皇が攘夷を志していたので基本的に公家は全員、尊王攘夷である。
 ただし攘夷といっても、孝明天皇が在位していた頃のような激しい攘夷の風潮は世間から消えつつあった。横浜が開港されてからかなり時間も経っており、江戸ではもう攘夷を唱える人間は完全に少数派となっていた。また、この年の暮れには兵庫、大坂、江戸、新潟の開市開港も予定されており、もはや「開国」は既定路線となりつつある。
 しかしながら京都に限って言えば、相変わらず外国人の侵入を拒みつづけ、国内で唯一この土地だけはまだ攘夷が生きのびていた。いや、厳密に言えば公家たちのいる朝廷にだけ頑強に根づいていた、と言うべきだろう。

 一方、このとき幕府は瀕死の状態にあった。
 第二次長州征伐に失敗、将軍家茂は死亡、そして慶喜や会津の松平容保が頼みとしていた孝明天皇が崩御したことにより、幕府は崖っぷちに立たされていた。
 ところが新将軍の慶喜が外交、内政の両面で力を発揮して、幕府をよみがえらせつつあった。
 外交では長年の懸案事項だった「兵庫開港」を力強く推し進め、それまではやや薩長寄りと見られていたイギリスを味方につけた。
 このころ京都で開かれていた「四侯会議」においては薩摩・越前・土佐・宇和島の老公たちの意見に妥協せず、将軍の力強さを見せつけることができた。そして朝廷から見事に兵庫開港の勅許(ちょっきょ)も勝ち取ったのだった。
 さらに幕府の官僚組織を実用的なかたちに改革し、フランスの援助のもとで陸軍も強化した。最新鋭の開陽丸が完成した幕府海軍は東洋一の実力を誇っている。
 このまま慶喜が幕府改革を順調に進めていけば、遠からず幕府の力は薩長をはるかに凌駕(りょうが)するであろう。

 幕府にとって最大の抵抗勢力である薩摩藩は、そのように危惧した。
 周知のように、薩摩藩の中でもっとも強硬に幕府と敵対していたのは西郷吉之助と大久保一蔵である。
 五月いっぱい開かれていた四侯会議がそろそろ終了しつつある二十一日、土佐藩の乾退助と中岡慎太郎が薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)の屋敷を訪れ、西郷や小松などと面談した。
 乾退助、すなわち後の板垣退助である。
 先祖に武田信玄の重臣板垣信方(のぶかた)がいたため、この翌年、甲州へ攻め込む際に板垣と名前を改める。そして後年、明治の世で自由民権運動の指導者となる男である。

 新将軍慶喜の活躍をうけて、西郷や大久保はもはや政治力で勝負することはあきらめ、武力をもって幕府を倒す、つまり「武力倒幕」を決意した。
 その薩摩藩の武力倒幕に土佐藩も参加したいと考え、乾と中岡は西郷に会いに来たのだ。中岡は「薩長同盟」の締結に奔走していた頃から西郷と付き合いがあり、その中岡が西郷に乾を紹介したのだった。
 冒頭のあいさつが済むと乾はさっそく西郷に持論を述べ始めた。
「我が土佐の態度が世間から幕府びいきと見られるゆうんは、まっこと残念、かつ恥辱でござる。けんど、我が藩にも貴藩同様、尊王のために命を投げ出す者がようけおりますき、貴藩が兵を挙げる際には是非、我々も参戦したい」
「じゃっどん、諸侯会議における容堂公の態度はまことに曖昧(あいまい)でごわす。しかも容堂公は昨日、幕府に帰国願いをば出されたそうでごわはんか。貴藩には尊王に尽力する姿勢が見えもはん」
「我が老公が帰国するのは虫歯の(やまい)のため、やむを得ず帰国するのでござる」
「いずれにせよ、貴藩が幕府に兵を挙げるなど、容堂公のお許しを得られるはずがなかと思いもす。貴殿の申し出をそうやすやすと信じるわけにはまいりもはん」
「うむむ……。じゃったら、拙者に一月(ひとつき)の期限を(たまわ)りたい。その間に必ず兵を挙げる確約をとりつけましょうぞ。もし、この約束を(たが)えたら二度と貴殿とはお目にかからぬ覚悟でござる。その時は拙者が腹を切ってお詫び申し上げる」
「ハハハ。腹を切りもすか。まるで薩摩隼人んごたるなあ。我が藩にも貴殿のように、すぐ腹を切ろうとする者がずんばい(たくさん)おり申す」
 すると中岡も乾につづいた。
「げにまっこと、その通り。もし約束を違えたら拙者も腹を切り申す。拙者が人質として西郷先生のところに残っても良い」
「ハハハ。愉快、愉快。ほんのこて、貴殿らのお覚悟は分かり申した。いずれ兵を挙げる際には、貴藩のお力添えを心待ちにいたすでござろう」
「我らの申し出をお聞き入れいただき、まっことかたじけのう存ずる。ついては今一つ、貴殿にお願いしたき儀がござる」
 と言って乾はもう一つ、西郷にお願いごとをした。
 それは、江戸の土佐藩邸にかくまっている尊王攘夷派の浪士たちを薩摩藩邸で引き取ってもらいたい、という話だった。
 乾は京都へ来る前は江戸にいたのだが、その時分、藩の意向を無視して勝手にそれらの浪士をかくまっていた。ところが乾は江戸を離れて土佐へ戻ることになり、彼らの引き取り手を探していた。乾が彼らをかくまっていた理由は、もし江戸で何かあった時に役立ってもらうつもりだったのだ。
 この乾の申し出を西郷はこころよく承諾し、それらの浪士を三田の薩摩藩邸で受け入れるよう江戸へ通達を送った。
 そして彼ら浪士たちは実際、この年の暮れに江戸で起こる事件に「役立つ」ことになるのである。

 ちなみに上記の西郷と乾の盟約は一般に「薩土(さっと)密約(みつやく)」と呼ばれている。
 ただしこれは(なか)ば口約束みたいなもので、西郷たち薩摩側はそれほどこの口約束をアテにしていなかった。そしてこの一ヶ月後には同じ土佐藩の後藤象二郎が中心となって今度は「薩土(さっと)盟約(めいやく)」を結ぶことになる。
 後藤は大政奉還論者である。つまり土佐藩と薩摩藩の提携は、大政奉還路線と武力倒幕路線が混ざり合った曖昧なかたちのものであり、最終的には破談に終わるのである。

 薩摩藩が重視していたのは、当然と言えば当然だが、長州藩との関係である。
 こちらは正式に薩長同盟を結んで「幕長戦争(第二次長州征伐)」に勝ったという華々しい実績がある。
 後藤との間に薩土盟約が結ばれる数日前、長州藩の山県狂介(のちの有朋)と品川弥二郎が京都の薩摩藩邸で島津久光に拝謁した。
 この場で久光は山県たちに「倒幕」の決意を語ったという。
 が、その発言内容はそこまで露骨に倒幕について述べているわけではなく、
「もはや幕府の姿勢はどうしようもない。それゆえ自分は今一度、尽力する覚悟である」
 と述べているに過ぎない。
 とはいえ、この場面で一番印象的なのは、このとき久光が山県に六連発のピストルを直接手渡した、というエピソードである。
 まるでヤクザ映画で親分が鉄砲玉のチンピラにピストルを手渡して、敵の親分の命を取りに行かせるような場面にも見えるではないか。
 ただしこの久光の場合は、敵一人の命を取りに行くとか、そんなちゃちな話ではない。幕府打倒、すなわち日本政府を転覆させる、という行為を示唆しているのだ。
 山県はこのときの感慨を次のように和歌で(うた)った。

 むかう仇 あらばうてよと たまわりし つつのひびきも 世にや鳴らさん

 ともかくも、こうして薩摩藩を中心とした武力倒幕計画がこの頃、着々と水面下で進んでいたのである。



 ところで、以前猪之吉が水野弥太郎についていって藤堂平助と会っていたが、そのあと勝蔵も御陵(ごりょう)衛士(えじ)の屯所を訪問して藤堂と会った。
 伊東甲子太郎の御陵衛士は近藤たち新選組と違って尊王攘夷を標榜しており、公家侍の勝蔵とも思想的に近い。それで勝蔵は御陵衛士の人々とも交流することになったのだった。
 ただし伊東自身はのちに「大開国策」を提唱するなど、決してガチガチの攘夷主義者というわけではない。その点は、彼の地元に近い水戸の攘夷主義者たちとは一線を画しており、彼の思想の柔軟性を見てとることができる。

 それからまもなく山県小太郎という男が白川家へやって来て勝蔵との面会を求めた。
 勝蔵はこの男とまったく面識がなかった。それで、どういう用件か尋ねてみると、その山県という男も武藤外記、藤太父子の縁者で、二人から勝蔵の面倒を見てほしいと頼まれた、ということだった。
 直前に「長州の山県狂介」の話をした後なので少々まぎらわしいが、この山県小太郎は別に長州人ではない。豊後岡藩(現、大分県竹田市)の脱藩浪士である。
 志士活動をして全国を渡り歩いていた際、やはり勤王浪士ということで幕府から逮捕されそうになり、甲州の武藤家へ逃げ込んだことがあった。なにしろ武藤家はそういった浪士たちをかくまってくれることでは有名だったので山県も一時期、武藤家で世話になっていたのである。
 ちなみに豊後岡藩出身というと他に小河(おごう)一敏や広瀬友之允という志士がいる。山県は後年、日露戦争で戦死する軍神・広瀬武夫を教育することになるのだが、武夫は友之允の息子である。また山県は会津戦争に従軍して薩摩の中村半次郎と共に鶴ヶ城落城時の城受け渡しの代表者をつとめることにもなる。

 山県はこの当時、中岡慎太郎の陸援隊に所属していた。
 陸援隊は尊王攘夷の志士たちによる遊軍部隊で、土佐藩の援助によって作られた。白川村(現、左京区北白川の京都大学のあたり)の土佐藩屋敷に屯所があった。
 土佐人と水戸人を中心に諸国の浪士たち数十人が隊士として集まっており、主な顔ぶれとしては田中顕助(のちの光顕)、大橋慎三、香川敬三などがいる。

 勝蔵は山県の手引きで陸援隊の隊士たちと顔見知りになった。
 そして自然と、同じ土佐藩の海援隊の名前も耳にするようになった。
 言うまでもなく海援隊の隊長は坂本龍馬である。

「何、あの坂本龍馬が海援隊の隊長だって?!」
 勝蔵は驚いた。
 江戸の千葉道場で龍馬と一緒に剣術修行をしていたのは十数年前のことだ。あれ以来、龍馬とは一度も会っていない。
 勝蔵は驚いた反面、なるほどなあ、という思いもした。
 確かに龍馬は当時から海と船が大好きだったし、人物としてもなかなか出来た男だった。あの男が土佐藩で海軍の一翼を担っているというのは、なるほど、いかにもありそうな事だ、とすぐに納得できたのだ。
 勝蔵は、龍馬が薩長同盟を締結させたり、薩土盟約に関与していたなどということは知らない。
 当時、坂本龍馬という男が世間でそれほど有名だったわけではない。また、勝蔵はこれまでそういった政局とはまったく無縁な世界で生きていたので、龍馬がそうやって政局の裏で暗躍していたなどとは知る由もなかった。
 それゆえ、このとき勝蔵が驚いたのは単に、
「あの旧友の坂本龍馬が海援隊の隊長になっていたとは」
 という、ただそれだけの驚きだった。

 それでさっそく、久しぶりに龍馬の顔でも身に行くかと思い立ち、龍馬が宿舎にしている河原町三条の材木商酢屋(すや)へ行こうとしたところ、陸援隊の土佐人から「現在龍馬は出張に出ているので不在だ」と言われた。
 なんでも海援隊の隊士たちが長崎でイギリス人船員二名を斬り殺してしまい、イギリスとの談判のために龍馬は土佐へ帰り、多分そのあとは長崎へ行くことになるだろう、という話だった。
 ただし陸援隊の土佐人たちは「イギリス人を斬り殺したのは土佐人ではない」と言い張った。
 それに対して他藩出身の隊士たちは「別に異人斬りを否定せずともよかろう。近ごろ(まれ)に見る壮挙だ。むしろ誇るべきであろう」と攘夷気質丸出しで喜んでいた。なんせこの陸援隊には尊王攘夷意識の強い連中が多く、のちに京都の町中でイギリス公使パークスの行列に斬りかかる朱雀(すざく)(みさお)なども所属していた。
 龍馬が京都にいないんじゃ仕方がない、と勝蔵はひとまず龍馬との再会はあきらめ、そのあとも御陵衛士や陸援隊士たちとの交流をつづけた。
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