第33話 祐天仙之助を追え(一)

文字数 4,907文字

 明けて文久四年(1864年)は甲子(かっし)のネズミ年。
 干支(えと)すなわち十干(じっかん)十二支(じゅうにし)の六十年が一周して一番目に(かえ)甲子(かっし)は「甲子革令」の年として政治的な大事変が起こりやすい年と言われ、そういった政変を避けるために「甲子改元」が古くから慣例となっていた。
 それで二月二十日、元号が文久から元治(げんじ)へと改元された。
 が、そういった理由でわざわざ改元したにもかかわらず、この年は古人の言い伝えが見事に的中する激動の年となる。
 それはまた、勝蔵にとっても同様であった。


--甲州へ帰るぞ。
 勝蔵はとうとう決心した。三月のことである。
「甲州へ帰って祐天と三蔵を殺し、安五郎親分の(かたき)をとる。そして甲州の賭場を俺たちの手に取り戻す」
 信州と美濃で半年ほど潜伏生活を送っていた勝蔵は、こうして活動を再開させたのである。
(確かに次郎長への復讐戦もやらなきゃならねえが、今は次郎長を倒すだけの戦力はない。良くてせいぜい、次郎長と刺し違える程度だろう。それじゃつまらねえ。甲州で雪辱せずに、このまま終わらせてなるものか。まずは甲州だ。甲州の足場を固めて、力をつけたのち、必ず次郎長に復讐してやる!)
 こうして勝蔵は、かつての子分たちへ駿河の由井宿に集まるよう檄を飛ばしたところ、三十数人が集まった。
 天竜川で集めた時の半分以下の人数になったが、それでも「まだ俺を見捨てず、よくこれだけの男たちが集まってくれた」と感謝した。
 勝蔵はお上から追われている正真正銘のお尋ね者だ。そして今回、血祭りに上げようとしている相手はお上から十手取り縄を預かっている目明しの仙之助と三蔵だ。
 どう考えても正気の沙汰ではない。
 普通の人間なら誰もがそう思うだろう。そしてそのような暴挙をくわだてる勝蔵を信じて集まったこの三十数人も、真っ当な損得勘定ができないイカれた連中であるに違いない。

 とにかく久しぶりに甲州へ帰ると聞いて猪之吉や綱五郎などは喜んだ。猪之吉でさえ二年ぶりの帰国だが、綱五郎に至っては三年ぶりの帰国だ。
 ただし今回の帰国は乾坤(けんこん)一擲(いってき)の大勝負だ。
 それゆえ、帰国できるからといって浮かれるわけにはいかない。猪之吉は、帰れなかった大岩兄貴の分まで活躍してみせる、と心の中で誓った。

 やると決めたら疾風迅雷(じんらい)の早さで敵へ攻め込む。
 三月十三日に由井宿を発った勝蔵たちは二日後には甲州の戸倉に戻った。そして玉五郎に仙之助と三蔵の状況を確認した。
「玉五郎よ。やはり犬上の居どころはまだ分からないか?」
「申し訳ない、親分。犬上の隠れ家はまだ見つかりません。それと祐天も最近めっきり姿を見せなくなりました。おそらく俺たちの仕返しを恐れてのことでしょう。話によると祐天は勝沼で伊助という農民の家に住み込んでいるようです。それで三蔵は、相変わらず国分の家から滅多に出てきません。間違いなくあの家の中にいるでしょう」
 それでこの日の夜に、さっそく攻め込むことにした。
 勝沼の仙之助のところへ攻め込むのは勝蔵を筆頭に玉五郎、綱五郎たち十五人。国分の三蔵屋敷を攻めるのは猪之吉、要次郎たち十五人。
 子分たちは今回、長脇差のほか槍だの木刀だのそれぞれ自分の得意な得物を持ってやって来ており、皆それらを抱えて襲撃に向かった。

 勝沼は甲府盆地の東端にある。
 甲州街道の笹子峠を越えて国中(くになか)へ入ってくると一番最初に通るのがこの勝沼の地で、ここは以前から祐天仙之助の縄張りだったところだ。
 空には十五夜の月が煌々(こうこう)と照っている。おかげで提灯の明かりは必要ない。
 勝蔵たちは日川(ひかわ)を渡って勝沼の集落に入った。槍だの長脇差だの物騒な物を抱えた博徒どもが路上をうろついているとは夢にも思わない善男善女の農民たちは、皆すでに寝静まっている。
 玉五郎が一同を先導し、大きな百姓屋敷の前まで来た。伊助というこの辺りでは有力な農家で、仙之助が子分十数名といっしょにここで寝泊りしている、という噂だった。
 勝蔵は数名に表門と裏門の見張りを命じ、残りの子分たちを引き連れて門内へ侵入。
 そして勝蔵たちは戸板を蹴倒して母屋や離れの家屋に踏み込んだ。まるで押し込み強盗だ。たちまち「キャー」という住民の悲鳴が上がるかと思いきや、意外なことに仙之助たちはおろか、伊助の家族すらいなかった。勝蔵は母屋をくまなく探してみたが結局誰も見つからなかった。

 一方、離れの家屋には玉五郎たちが踏み込んだ。すると若い男が一人、布団の中で寝ていた。
 その若い男は驚いてすぐに飛び起き、枕元にあった脇差を取って身構えた。
「なんだ、なんだ、お前たちは!押し込み(強盗)か?!」
 これに玉五郎が答える。
「うるせえ。俺たちは押し込みじゃねえ。祐天仙之助はどこにいる?」
「祐天仙之助?あの人はもう、とっくにここからいなくなってるよ!」
「ウソをつけ!あいつはどこへ行った!(かば)い立てするとためにならねえぞ!」
「何を言いやがる!俺がそんなこと知るもんか!大体お前ら何なんだ!なんで俺がそんなこと答えなきゃならねえんだ!」
 こう叫ぶと男は逆上して大声で「うわあ、うわあ!」とわめき、脇差を振り回して玉五郎に向かってきた。
(チッ、仕方ねえな)
 と玉五郎は覚悟を決め、長脇差を抜き打って男が振り回す脇差をはじき飛ばし、返す刀で男を袈裟(けさ)がけに斬り捨てた。

 それからすぐに玉五郎は勝蔵のところへ行った。
「おう、玉五郎。残念ながらこの母屋には誰もいないようだ。それで、そっちはどうだった。祐天はいたか?」
「いや、面目ねえ、親分。どうやら祐天がここにいるって話はガセネタだったようだ。とんだ無駄足を踏ませてしまって、まったくお詫びのしようもねえ。……それで、離れに一人若い男がいたんですが……」
「ほう。それで、そいつは祐天の居どころを知っているのか?」
「いや、祐天はとっくにここからいなくなって、行き先も知らねえと……。それで脇差を振るってきやがったんで、仕方なく斬り捨てました」
「そうか……。いや、別に構わねえ。そいつは祐天の一味かも知れねえからな。狙った相手がいなかったら、留守番してる奴を殺すのがこの世界のしきたりだ。気にすることはねえよ……」
 この斬り殺された男は伊助の息子で伊三郎といい、家族一同が出かけるにあたってたまたま留守番をしていて、この不幸な事件に遭遇したのだった。

 結局、勝蔵は仙之助を仕留めることができず、しかも仙之助の行方に関する情報も得られないまま黒駒へ退却せざるを得なかった。
 そして黒駒の待ち合わせ場所へ行ってみると、国分の三蔵のところへ攻め入った猪之吉たちの部隊がすでに戻って来ていた。
 勝蔵たちが戻って来たことに気づいた猪之吉が勝蔵に声をかけた。
「あっ、親分。そっちの首尾はどうでした?祐天の首は取れましたか?」
「いや。残念だが失敗した。祐天の姿は見つからなかった。どこへ行ったのか、その行方すら分からねえ」
「ああ……、そうですか。そっちもダメでしたか……」
「そっちも、ってことは、お前たちもダメだったのか?」
「ええ、三蔵の屋敷に近づこうとしたら塀の上から何人も鉄砲を撃ちかけてきやがった。幸い弾に当たった者はいませんでしたが、まったく三蔵の屋敷に近寄れませんでした」
「そうか。三蔵の奴、そこまで防御を固めていやがったか」
「だけど、そのまま引き下がるのも(しゃく)なんで、こっちも火矢を用意して、俺が屋敷へ火矢を放ってやりました。そしたら上手く屋敷に火がついて、いくらかは焼け落ちたようです」
「よし。よくやった猪之吉。まあ、とりあえず今回はこれで我慢するしかしょうがねえな。三蔵の首はいずれまた、あらためて取りに行くとしよう」
(しかしそれにしても祐天の野郎、一体どこへ雲隠れしやがったんだ……?)



 勝蔵たちが祐天仙之助の姿を見つけることができなかったのは当然だった。
 その事実を勝蔵が知るのはもう少し後のことだが、仙之助はすでにこの五ヵ月前、江戸で死んでいた。

 以下、その経緯について述べてみたい。
 ここ数回の話で何度か触れたように、この前年、幕府は清河八郎の献策をいれて「浪士組」を創設した。
 くり返す手間をいとわず再度解説すると、彼ら浪士組は将軍家茂の上洛にあわせて中山道経由で京都へ(のぼ)ったものの、清河たち本隊はすぐに江戸へ引き返すことになり、横浜焼き討ち計画の直前に清河が暗殺されて以降は、庄内藩お預かりの新徴組となった。一方、京都に残った近藤勇たち壬生浪士組は会津藩のお預かりとなり、後に新選組となった。
 この浪士組創設の際に、祐天仙之助もその面子に加わっていたのである。
 五番隊の小頭で九人の部下を引き連れる立場だった。その中の一人には博徒時代の仙之助の腹心だった菱山佐太郎(このとき内田に改名)もいた。
 このとき仙之助は「山本仙之助」と名乗っていた。武田信玄の軍師、山本勘助から取って山本と名乗ったという。
 余談だが清水次郎長も本名は山本長五郎である。むろんこっちは山本勘助など関係あるはずもなく、米問屋の山本次郎八の家へ養子に入ってそうなっただけのことだ。

 ところで、仙之助はなぜ浪士組に入ろうとしたのか?
 などという疑問は愚問であろう。
 刀を持とうとする者であれば誰だって武士になりたいと思う。特に代官や同心といった武士の下で長らく目明しを勤めてきた仙之助からすれば、武士への憧れはより一層強い。そして仙之助のような博徒が武士になる機会など、そうザラにあるものではない。彼が「この機会を逃してなるものか」と、この話に飛びついたのは当然のことであったろう。
 彼がこの浪士募集の話に接することになったのは、山梨郡中萩原村から江戸へ出て幕臣になった真下(ました)晩菘(ばんすう)から教えてもらったからだという。実は以前紹介した中萩原村出身の大吉・あやめ夫妻、すなわち樋口一葉の両親も江戸へ出た際、この同じ村の先輩である真下晩菘の世話になっている。が、これは余談。

 仙之助は、近藤たちのように京都に残ることはせず、清河と一緒に江戸へ帰った。そしてそのあと庄内藩お預かりの新徴組に入って市中警備の任に就いた。
 このまま何事もなければ彼もゆくゆくは庄内藩士になれたかも知れないが、ここで思わぬ人物と遭遇してしまった。
 その人物とは大村達尾(たつお)という十九歳の青年である。
 大村もまた浪士組に参加して、それから新徴組の隊員になった男だった。
 この大村の父は桑原雷助という。
 もう随分前の話になるが、それもそのはず時系列で言えば十七年前、この物語では「鰍沢の秋祭り」の回に登場して仙之助に殺されたのが桑原雷助だ。その桑原が養子に入っていた大村家に、そのとき二歳になる男の子を残していた。
 それがこの大村達尾である。
 つまり大村にとって仙之助は父の(かたき)ということだ。
 ただし大村がその事実を知ったのは、つい最近のことだった。仙之助も山本と名乗っていたし、まさか甲州で殺された父の敵がこんな身近にいるとは夢にも思っていなかった。
 それがある日、隊士たちの会話の中で、
「あの山本仙之助という男は、以前甲州で博徒をやってて祐天仙之助と名乗っていたんだってよ」
 という話を大村は耳にした。
(なんという事だ!灯台(もと)暗しとは、まさにこの事だ!)
 大村にとっては驚天動地の話であった。が、念のためしっかりと確認を取るべきだろう、とも思った。
 そこで彼は、大胆にも直接本人に掛け合ってみた。もちろん自分の真意は伏せたままで。
 すると仙之助は、
「いかにもその通り。別に隠すつもりもない。拙者はかつて甲州で祐天仙之助と呼ばれていた。で、それがどうかしたのか?」
「いえ、別に……。この新徴組にはいろんな経歴の持ち主がおりますが、山本先生のような珍しいお方もおられるのかと思って、後学のため、お尋ねしたまでのことです」
 仙之助からすれば、この大村が、十七年前に自分が殺した桑原雷助の遺児であるなどと分かるはずもない。
 大体仙之助は博徒としても目明しとしても、これまで何人死に追いやってきたか数知れず、いちいち相手の家族事情まで憶えていられない。それで、この大村の質問も別段、気にとめることはなかった。

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