第61話 赤報隊と高松隊(九)

文字数 7,751文字

 そうこうしているうちに、信州の各地へ斥候(せっこう)として出していた隊員たちが次々と下諏訪の嚮導(きょうどう)隊本部へ戻って来た。
 隊員からの報告によると、信州の諸藩はおおむね新政府への抵抗をあきらめているようだ、と相楽は受け取った。
 ただし佐久にある幕府領の御影(みかげ)陣屋では不穏な動きがあったため援軍を送り込んだところ、それからしばらく後に鎮定することができた。また上田藩や小諸藩なども信州諸藩連合を作って新政府に対抗する計画を立てていたのだが、相楽たちの信州入りが素早すぎて計画を断念していた。
 このように、相楽たちによる信州平定は順調に進んでいたのである。

 しかし監察兼使番の丸山梅夫が相楽に注意をうながした。
「やはり兄を京都へ行かせるだけではなくて、相楽隊長が(じか)に京都へ行ってお話をされたほうが良いのではありませんか」
 丸山は、京都へ行ったっきり戻ってこない科野(しなの)の義弟で、科野と同じ上田人である。その科野の妻で丸山の姉にあたる女性は相楽の激しい気性を危ぶみ、夫と同様、弟にも京都に残ったほうがいいのではないか?と忠告していた、という逸話がある。
 そしてその丸山の意見に金輪も同調した。金輪は、自分も一緒についていくから、ぜひ京都へ戻って釈明すべきだ、と盛んに相楽を説得した。
 が、相楽はあまり気が進まない。
 もう二度も寒風をついて京都へ戻っているのだ。また行くとなれば三度目だ。
 そんなことばかりやっていては隊を指導できないではないか。それに、せっかく碓氷峠を目前にして今ここで自分が隊を離れたら、作戦が上手くいかなくなるのではないか?そういった不安もある。
 しかし丸山はさらに忠告した。
「桜井常五郎という同志が、諸藩領にまで年貢半減を派手に言い広めて、しかも農民たちを(あお)って一揆をやらせようとしているようです」
 なんだと?それはさすがにやり過ぎだ。
 と相楽ですら思った。それでその桜井常五郎という隊員を丸山に呼びに行かせた。

 しばらくすると本陣の相楽のところに桜井がやって来た。
(こんな隊員いたっけかなあ……?)
 相楽にとって桜井はあまりなじみのない顔で、どんな人物か、すぐには思い出せなかった。
 それで丸山に聞くと、桜井は佐久の農家出身で、近江あたりから赤報隊に加わった男だという。
「それで桜井君。勝手に諸藩領へも年貢半減を公言していると聞いたが、なぜ勝手にそんなことをするのだ?」
「いえ、勝手ではありませんよ。隊が出した布告にも『諸藩の領地たりとも困窮の村の者は申し立て次第、天朝様よりお救いに相成(あいなる)べく(そうろう)』とあるじゃないですか」
「それは救済のためにいずれ何らかの手立てをする、という意味で、年貢半減を約束したものではない。幕府から没収する領地ならまだしも、諸藩の領地に対してそんなことができると思うか?」
「やれば良いじゃないですか。天朝様の世になったんだから。第一、幕府領だけ年貢半減なんて言って、諸藩の領民が納得するはずないでしょう?やるなら国中全部、年貢半減にするのが当然じゃないですか」
「それは理想だ。諸藩の領民には申し訳ないが、できないものはできない。我々は諸藩を敵に回すわけにはいかんのだ」
「隊長。あなたの言葉には行動がともなっていない。あなたはいつも『御国の御民』といって一君万民を説いているではないですか。天朝様による御一新が成ったんだから、これからは武士も農民も皆同じ身分になるんでしょう?諸藩だからといって、そこから(のが)れることはできませんよ」
「だからそれも理想だ。いつかはそうなるだろうが、今すぐにはできないことだ」
「それは、あなたが本気でそれを願ってないから、そうならないだけです。あなたは心の底から農民を(あわ)れんでいるわけではない」
「何を言うか。私はずっと草莽の一人として、民のために戦ってきたのだ。だいたい君こそ、そんな浅はかな考えで農民たちに一揆を煽って良いと思っているのか?武士と農民が対立したところで、国内がいっそう混乱するだけだ」
「隊長。あなたは農民の身分がどうなるか、ということよりも、攘夷のことばかり考えているんでしょう?」
「当然のことだ。尊王攘夷の志士は誰だって攘夷実行を最優先に考えている。横浜を焼き討ちして港を閉ざすことが、何より民の暮らしにとって一番有益なことなのだ」
「いいや、違う!御一新が成ったんだから、今こそ国中の農民が『世直し一揆』を起こして、武士の世の中をひっくり返すべきだ!」
 そこで討論が激しすぎたのを見た周りの幹部たちが、桜井に席を外させて室外へ連れ出していった。

 相楽は頭が痛くなった。こんな奴を隊の小頭(こがしら)として働かせていたとは、と。
 ただし痛しかゆしなのは、桜井の考え方自体はそれほど相楽の考え方と違ってはいない、ということだ。
 農民たちのために年貢半減をどうしても実現したい。
 それはいい。その考え自体は構わない。
 が、過激すぎる。自分も他人から散々「過激すぎる」と言われてきたが、その自分から見ても、こいつはやりすぎだ。
 敵は幕府なのだ。そしてその幕府とつながっている夷狄(いてき)こそが最大の敵なのだ。
 関東で農民一揆を起こすのなら幕府の力を弱めるから構わないが、信州でやっても信州諸藩を敵に回すだけでまったく逆効果だ。
 武士と農民を仲たがいさせてどうする?そんなことをしなくても天朝様の世の中になれば少しずつ「御国の御民」「一君万民」の方向へ進むに決まっている。むしろ武士と農民が一致団結して夷狄を打ち払うべきなのだ。
 しかし幹部たちから話を聞くと桜井の周りには信州の農民出身者がかなり集まっており、信州各地の農民と結びついて「年貢半減」「世直し一揆」の声を広めつつある、ということだった。
 なんということだ。もうそこまで話が進んでいるのか。
 と相楽は愕然とした。

 こういう場合、草莽の隊は弱い。
 相楽自身も隊の規則に「同じ隊に入ったからには旧来の身分の上下にとらわれず兄弟のように付き合え」と書いている。上下の秩序よりも横のつながりを重視して組織の統制が取れなくなる、といった、よくあるかたちの烏合の衆である。もし薩摩藩のように上下の秩序に厳しい組織であったなら、躊躇(ちゅうちょ)なく桜井に切腹させているところだ。
 しかしこの烏合の衆の如き嚮導隊では、そこまで厳しく上から強制することはできない。それをやったら草莽の隊ではなくなってしまう。つまり桜井の主張こそが、草莽の隊とはいかにあるべきか?という問題の本質を突いているのだ。
 いまや嚮導隊は相楽の思惑を超えて動き出している。
 草莽や農民たちのために戦ってきた相楽が、その彼らによって逆に追いつめられようとしていた。

 このとき何を思ったか相楽は、丸山と金輪の忠告を受け入れて京都へ釈明に行く、と言い出した。
 とにかく幹部たちに桜井を暴走させないよう命令し、二月九日、相楽は金輪を連れて下諏訪から出発した。
 そしてその翌日、大垣の東山道軍総督府は、
「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」
 という通達を各地へ発した。



 さて、相楽たちより一足先に進んでいた高松隊について。
 相楽が道すがら自分の隊に加えようと思っていた人々を先にかっさらっていった高松隊は、このころ雪だるま式にふくれあがって八百人の大部隊となっていた。そして下諏訪を出発した高松隊は、まさにこのころ富士山を前方に見ながら甲州街道を南下し、甲州へ入ろうとしていた。
 その先触れとして一仙は、五日ほど早く甲州に入っていた。
 一仙は加納宿で勝蔵と別れたあと、少人数の騎馬隊を結成して一気に先を目指した。道順は相楽たちと同じく飯田経由で、途中、信州諸藩の重臣たちと応接して恭順するよう勧告しながら先へ先へと進んでいった。そしてそれらの信州諸藩は後からやって来た高松隊の本隊に「恭順の証拠」として何人かの兵を差し出し、そういった兵も加えて高松隊はどんどんふくれあがっていった。

 一仙はまさに得意の絶頂であった。
 諸藩の城へ談判に乗り込もうとする時に、相手が下級役人を出してくると、
(した)()役人に用はない。家老を出せ」
 といって家老を引っ張り出した。さすがに藩主までは引っ張り出さなかったが、出て来た家老に向かって一仙は、
「官軍と戦いたくば兵を挙げよ。さもなくば高松卿に対して降伏せよ。兵火を起こして民を苦しめることは、我の望むところにあらず」
 と高圧的に降伏をうながし、次々と恭順をとりつけていった。

 宮大工の息子として生まれた一仙が、諸藩の重臣という格式ある武士に対してこれほど無体な態度を取るというのは、河内山(こうちやま)宗俊(そうしゅん)以来の珍事であろう。というか、どう見てもその比ではない。平時ではありうべからざる出来事で、戦争によって価値観がひっくり返ったからこそ、このような珍無類の現象となったのだ。
 そして一仙はどんどん先へ進み、諏訪を治める高島藩も恭順させ、そこから甲州街道を一気に進んでいった。釜無川の流れとともに甲府盆地を目指し、その水流の速さに負けじとばかりに馬を飛ばした。
 一仙は勝蔵と違って、過去に藤太の甲府城攻略計画に関与したことはなかったが、武藤家に長く世話になってきた身としては、武藤父子が尊王攘夷のためにそれを志していたことはよく知っている。
 その武藤の旦那の志を自分が成し遂げるのだ。
 正式な武士の身分でもない自分が甲府城を開城させるのだ。
 それをもって、世間の人々も「世の中が御一新になった」ということが一目で分かるに違いない。
 その晴れがましい舞台は、もう目の前まで来ている。
 甲州の家族の目の前で、この偉業を成し遂げるのだ。
 そんな思いで一仙は甲府へ向かって馬を走らせた。

 一仙は二月三日に甲府の瑞泉寺に入り、翌四日、甲府から少し南にある遠光寺で武藤父子と再会した。
「大旦那、若旦那。雅楽之助(うたのすけ)、ただいま甲州へ帰ってまいりました」
 これに外記が答えた。
「よくぞ戻られた、雅楽之助殿。この甲州へ高松卿をお連れ申すとは大手柄である。雅楽之助殿のご出世に、ご家族の方々も喜んでおられる」
「すべて大旦那のおかげでございます。朝廷による御一新も成り、幕府が早晩倒れることは必定にて、甲州は武田家遺臣の方々、それに神主の皆様の手に戻ることでしょう」
「いやまったく祝着至極。これで高松卿がご来着となれば、甲府城もたちどころに開城となるだろう。それで高松卿はいつ、ご来着なさるのであろうか?」
「今ごろは諏訪のあたりにご到着なさっているでしょう。おそらくあと五日ほどでご来着なさると思います。すでに兵は千人ほどおりますが、甲州へ着くころにはさらに多くの甲州人が馳せ参じるでありましょう」
「なるほど。それは頼もしい。それで、勅使の(あかし)はもちろん、何かお持ちなのであろうのう?」
「あっ、いや、それはまだ……」
「何?まさか、官軍なのに錦の御旗が無いなどということはあるまい?」
「いや、その、実は、あとから追って届けられることになっているのです」
 といって一仙は、高松実村(さねむら)の父保実(やすざね)から届けられた手紙を外記に見せた。
 実は高松隊が京都を出発したあと、何度か京都の保実に対して「綸旨(りんじ)(天皇の命令書)と錦旗が早く下賜(かし)されるよう朝廷に願い出ていただきたい」と手紙でお願いしてあった。それからのち、保実から返事の手紙が高松隊に届き、そこには「諸君らの軍功は実に喜ばしい。綸旨と錦旗は近いうちに下賜されるよう取り計らっている」といった内容が書かれていた。それを一仙は外記に見せたのだ。
 外記はその手紙を藤太と一緒に読むと急に不安な表情を見せ、それからつぶやいた。
「そうか……。高松卿が来られる頃には、まだ綸旨も錦の御旗もないのか……」
「いや、ご心配は無用でございます。ここへ来るまで、すべての諸藩、それに代官が高松卿に恭順の意を示してきたのです。高松卿は立派なお方でございます。必ずや甲府城代、それに甲府代官も城を明け渡すでございましょう」
 その一仙の言葉を聞いても外記の不安は晴れなかった。
 なにしろ事が事だ。綸旨と錦旗が有ると無いとでは大違いだ。下手をして「偽勅使」とでもされたら、とんでもないことになる。
 とはいえ、こうして一応、高松保実卿からの手紙があるということは、まさか無断で京都を飛び出してきたわけでもあるまい。遠からず綸旨と錦旗は届けられることになるのだろう。と、とりあえず気を落ち着かせた。

 実際のところは、その「まさか」なのである。
 無断で京都を飛び出してきたのである。
 一仙はそのことを外記たちに言わなかった。いや、言えなかった。
 とにかく甲府城の開城を無事に成功させて、しかるのち、新政府から正式に認められれば何も問題はない。
 ここまではすべて上手くいってきたのだ。
 今さら後には引けない。

 一仙は瑞泉寺を拠点として甲府城代の佐藤信崇、それに甲府代官の中山誠一郎などと交渉をおこなった。
 彼らはこの小沢雅楽之助が甲府に住んでいた町民の小沢一仙であるとは知らない。そもそも幕府の高官がそんな一介の町民のことなど知るわけがなかった。
 ただ、やけに甲州のことに詳しく、高松卿の権威をかさにやたらと偉そうな態度を取る男なので、おそらく諸藩の藩士が甲州へ移り住んで、その男がこのように使者となってやって来たのだろう、としか思わなかった(一仙はいっとき掛川藩士であったから、一応その認識は間違ってないが)。
 この切迫した状況のなかで甲府城代や甲府代官が何かできるはずもない。それで彼らが江戸城に指示を仰いだところ、
「高松卿に対しては当面のところ穏やかに対処して、争いがないようにせよ」
 と、あいまいな返事しか返ってこなかった。とにかく「事なかれ」で交渉を引き延ばせ、ということらしい。
 しかし実際に高松卿の軍勢が来たらどうすればいいのだ?城を明け渡すことになってもいいのか?
 彼らにはその判断ができなかった。

 この間、一仙のところには甲州各地から多くの武田浪士や神主たちが集まってきた。
 彼らは一仙が用意してきた『甲州治安十ヶ条』の書状を見て喜びを爆発させた。
 王政復古によって徳川家の時代が去り、武田家の時代が戻って来る。いよいよ我々の時代が来た、と歓喜した。
 そして一仙はときどき家族の元へ帰って両親、妻、子どもたちとつかの間の幸福な時間を過ごした。

 このとき高松卿は甲州街道を南下して甲府へ向かっていた。今の地名で言えば山梨県の北西地域、小淵沢、新府、韮崎のあたりを通って甲府へ向かっているかたちだ。
 二月九日に蔦木(つたき)宿(甲州との国境付近にある信州の宿場)に入り、十日には韮崎宿に到達。このとき穴山で幕府の組織した農兵が高松隊の進軍を邪魔しようとしたが大軍の高松隊にあっさり蹴散らされ、ほうほうの(てい)で逃げていった。そして逆に、この地域の甲州人も数多く高松隊に馳せ参じ、隊は二千人ほどにふくれあがっていた。
 濃い赤紫色の旗を多数かかげた高松隊の大軍は韮崎で陣を張り、翌日、甲府へ入る予定である。

 が、この二月十日、新政府の東海道軍から土佐藩士の黒岩治部之介たち三人が甲府城へ派遣されてきた。
 東海道軍の総督橋本実梁(さねやな)と副総督の柳原前光(さきみつ)が送り込んだ正式な新政府軍の軍使である。
 甲府城代の佐藤は丁重に三人を出迎えて応接にのぞんだ。
「明日、勅使高松卿の軍勢が甲府へお入りになると聞き及んでおります。その際はただひたすら勅命を奉じ、城地(じょうち)の明け渡し手続きに入る所存でござる」
 この城代の発言を聞いて黒岩は、喜ぶどころか険しい表情で言い返した。
「何を勘違いされておるか。高松卿は勅使ではござらん。そなたが勤王の実を示すべき勅使は橋本卿と柳原卿である」
 このあとも黒岩と佐藤の折衝はつづき、佐藤はたちまち東海道軍に恭順の意を示した。
 そして黒岩たちは翌日、一仙と面談することになった。

 この二月十日には、東山道軍も「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」と信州諸藩に対して通達を出していたが、実はこの通達には、
「高松隊は無頼の連中(一仙や岡谷)が幼い公卿を(あざむ)いて京都から脱走した“偽勅使”なので、彼らの言うことを聞いてはならない」
 とも書かれており、東海道軍の軍使がちょうどこの日に甲府城へ来たのは単なる偶然ではあるが、すでに相楽の嚮導隊と小沢の高松隊は、東山道軍によって“偽官軍・偽勅使”と断じられていたのである。
 東山道軍が出した通達が下諏訪や甲州へ届くのはまだ数日あとのことだが、東海道軍の軍使はこの日、一足早く甲州へやって来たのだった。


 翌日、一仙と黒岩たちは甲府の教安寺で面談におよんだ。
 一仙は意を決して強気の態度で黒岩たちと談判した。
 これまで信州の各地を鎮撫してきた実績を強調し、高松保実卿からの手紙も見せて綸旨や錦旗も近いうちに届けられるのだ、我々が“偽勅使”だなんてとんでもない話だ、と自らの正当性を主張した。

 が、黒岩はそういった一仙の主張をことごとく論破して、一仙を屈服させた。
 この状況で一仙の主張が通るはずもなかった。
 綸旨もなければ錦旗もなく、無断で京都から飛び出して来たのも事実なのである。
 だいたい高松保実の手紙も、実際に新政府は実村のことを“偽勅使”とみなしているのだから綸旨や錦旗が下賜されるなどありえない話で、なぜこんな手紙を書いて寄こしたのか意図がまったく分からない。本来、保実の立場からすれば、
「さっさと京都へ帰ってきて新政府に謝罪しろ」
 と息子に書いて送るべきだったろう。

 この日、高松隊は甲府へ入って来た。が、それからいくばくもなく、
「実は高松実村卿は“偽勅使”だった」
 という情報が隊内をかけめぐり、隊はあっという間に崩壊してしまった。
 まず諸藩の兵士たちが真っ先に去っていった。
 “偽勅使”に協力したことが新政府に知られては藩にどんな迷惑がおよぶか分からない、ということで急いで去っていったのである。彦根藩兵をはじめ、信州諸藩の兵士たちも次々と去っていった。
 そして「一旗あげてやろう」と思って加わってきた浪士たちも、この状況を目の当たりにするとたちまち失望し、(くし)の歯が欠けるようにぽろぽろと退散していった。
 その間、一仙と岡谷は窮状を打開するために甲州の東へ行こうとして石和の近くまで行ったものの「川田の渡し」のところで船頭が船に乗せてくれず、川を渡れなかった。甲府城代が手を回して“偽勅使”の高松隊に協力してはならない、と船頭に命じてあったのだ。
 仕方がないのでまた諏訪方面へ戻ることにした。その頃すでに隊の人数は数十人にまで減ってしまっていた。
 そして韮崎を通って蔦木(つたき)まで行ったところ、東山道軍の岩倉総督から派遣された兵士たちがやって来て二月十日に発せられた通達を一仙に見せつけた。相楽の嚮導隊は“偽官軍”で、小沢の高松隊は“偽勅使”である、と断じた通達のことだ。

 ここで高松隊は完全に解隊させられた。
 実村は岡谷とともに岩倉総督から派遣された兵士たちによって京都へ連れていかれ、一仙は甲府代官の手によって捕縛されて牢屋へ入れられた。

 こういった高松隊が直面した一連の出来事を、外記と藤太はなす術もなく見送るしかなかった。
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