第50話 相楽総三、脱出。そして開戦へ(二)

文字数 6,370文字

 攻撃決定の決断が下されたのは二十四日のことであった。江戸城の火災や発砲事件があった翌日に即決されたわけである。
 それからすぐに庄内藩など各藩に出陣命令が下った。攻撃部隊の中心は庄内藩で、ほかに(かみ)(やま)藩、鯖江藩、岩槻藩も攻撃に加わる。総勢およそ二千人。
 そして敵の敗残兵への対処および市中警戒用として諸藩の兵も後方に控え、さらにフランス式の調練をうけた幕府の伝習隊なども作戦に加わる。これらの部隊はこの日の夜のうちに所定の場所に布陣した。攻撃予定時刻は翌日の早朝である。
 長期的な戦略を欠いたまま戦争に突入した幕府も、この「薩摩藩邸焼き討ち」の戦術レベルにおいてはなかなか見事な手際であった。
 それは作戦の立案段階でフランス軍事顧問のブリュネが加わっていたからだった。この作戦の数日前から幕臣や庄内藩士はブリュネと相談して作戦を練っていたのだ。
 ブリュネが助言した作戦は砲兵部隊を主力とし、大砲を有効活用して敵を倒す、というものだった。
「江戸の市中で大砲を撃つなんて、なんと乱暴なやり方か!目測を誤って付近の民家に着弾したらどうするのだ!」
 日本人だったらそういった点を心配して、ここまで思い切った手法は取れないであろうが、ブリュネは測量のやり方や大砲の仰角(ぎょうかく)まで細かく指示し、さらにみずから分かりやすいイラストまで描き、それを見せて攻撃の段取りを説明した。

 砲弾が外れる心配は無用であったろう。なにしろ三田の薩摩藩邸は広いのだ。
 現在の港区芝二丁目、三丁目の大部分にまたがるほどの広さがあり、特に東西に長く、西は赤羽橋の三田通りから東は将監(しょうげん)橋の通り(現在は一方通行になっている細い道)まで藩邸の敷地があった。
 東京に生活の基盤がある人で、あの辺りへ行ったことがある人なら必ず目にしているはずだが、地下鉄三田駅の北側に「大きくて変なかたちのNECビル」がある。そのビルの北側の通りに「芝五丁目」のバス停があり、そのすぐ裏に「薩摩屋敷跡」という石碑が置かれている。そのためこのNECビルの場所に薩摩藩邸があったと思いがちだが、実のところここは藩邸の南端に位置し、その北側の芝三丁目のあたりが当時の藩邸の敷地に該当する。ちょっと説明が細かくなってしまったが、とにかくそれぐらい広い敷地だったということだ。


 夜が明け、幕府にとっては運命的な日となる朝が来た。日付は十二月二十五日。
 戊辰戦争の開始日は「鳥羽伏見で戦いが始まった慶応四年一月三日」として広く知られているが、厳密に言うなら、この日こそが戦争の開始日と呼ぶにふさわしいであろう。ただし、この年末はまだ丁卯(ていぼう)のうさぎ年なので“戊辰戦争”の開始日としては区切りが悪いのが玉にキズだ。
 薩摩藩邸の相楽たちは幕府側が攻撃態勢に入ったことを前日の夜から察知していた。
 藩邸内の戦力は薩摩藩士と浪士を合わせても多くて三百人といったところだ。一方、敵の軍勢は十重(とえ)二十重(はたえ)に藩邸を囲んでおり、少なく見積もっても二千人はいそうに見える。
「おそらく我々は全滅するであろう」
 と、この状況を絶望視しながらも相楽の胸中は晴れやかだった。なぜなら相楽が望んでいた通り、
「幕府が我々に対して“開戦”の決断をしてくれた」
 からである。
「これで歴史を動かすことが出来た!」
 ワッハッハと会心の笑い声を上げたい気持ちだった。
 が、そうノンキなことも言ってられない。目的を達した以上、あとは一人でも多く関西へ脱出し、これから始まる大戦(おおいく)さに備えなければならない。
 その脱出作戦の指揮を執るのは総裁である相楽と、副総裁の落合しかいない。
 大監察の権田は西郷と連絡をとるために京都へ行っている。そして益満はたまたま近くの佐土原藩(薩摩藩の支藩)の藩邸へ行っており、伊牟田は品川沖に停泊している薩摩藩の蒸気船、翔鳳(しょうほう)丸にいる。
 その翔鳳丸へここから一人でも多く逃げ込み、しかるのち関西へ向かう。
 それが今、相楽たちがなすべきことであった。
 皆にそのことを伝えるため、相楽は一同の前で訓令を述べた。
「今となっては戦闘を優先すべきではない。我々は脱出して京都へ行き、引きつづき尽忠報国に励むべきである。敵を倒すことより脱出するための戦闘をせよ。我々は一丸となって三田通りへ打って出て、そこから南の鮫洲(さめず)へ向かう。鮫洲に着いたら船を雇って沖の翔鳳丸へ乗り込み、しかるのち関西へ向かうべし」
 品川港ではなくてわざわざ少し南にある鮫洲まで行くのは、品川は宿場も港も幕府のお膝元のような場所なので敢えて避けたのだ。

 こうして邸内で相楽が浪士たちに作戦を伝えている頃、正門では庄内藩と薩摩藩の談判がおこなわれようとしていた。
 庄内藩を筆頭とした幕府側はすでに攻撃の決意を固めているとはいえ、一応順序をふんでから攻撃に移るつもりであった。
 談判のために藩邸の正門へやって来たのは庄内藩の士官、安部藤蔵という男である。その周囲には槍を持った数人の藩士が控えており、彼らは普通に武士の格好をしているのだが、安部は洋式兵制を習っていたため一人だけ洋服姿に革靴履きで頭もざんぎり、という異彩を放つ格好をしていた。
 安部は邸内へ呼びかけて開門するよう要請し、脇のくぐりから邸内へ入って玄関先で談判におよんだ。

 薩摩側で対応するのは薩摩藩邸の留守居役、篠崎彦十郎である。
 篠崎は相楽とすでに打ち合わせ済みで、自分はなるべく談判で時間稼ぎをするから、その間に浪士たちと脱出する準備をして上手く翔鳳丸へ逃げ込め、と伝えてあった。
 安部は、玄関先で待ち受けていた篠崎のところまでやって来て尋問を開始した。
「こちらの邸内に江戸市中で乱暴狼藉をはたらいた浪人どもが潜伏中のはず。その者たちをお引き渡し願おう」
 篠崎が答える。
「浪人は確かにおりますが、果たして仰せのような悪事をはたらいたかどうか、我が藩は存じませぬ」
「では、お引き渡しを拒まれるご所存か」
「彼らに事の有無を確かめてからご返答いたす」
「我が藩はご老中よりこちらに潜伏中の浪人を捕縛するよう命じられて参上したのでござる。なんとしてでも受け取らねばなりません」
「将軍家は二月(ふたつき)前に大政を奉還なさった。そのあと王政復古の大号令によって将軍職も廃止となっている。それなのにご老中がどのような権限で我が藩へご命令なさるのか。道理が合いませぬ」
「我が庄内藩は将軍家より江戸の取り締まりを命じられている。江戸は将軍家の所領でござる。将軍家の所領でご老中の命令に従うのは道理にかなっている」
「いや。将軍家はすでにその職責にあらず。それは貴藩もご存じのはず……」
 云々かんぬん、篠崎はなるべく談判を引き延ばして時間を稼ごうとした。
 対する安部もそんなことは百も承知。今さら言葉でどうこう言い争ったところで時間の無駄なのだ。頃合いを見計(みはか)らって、
「この上は致し方ござらぬ。刀にかけても浪人たちを受け取ってみせましょう。しからば、これにて御免」
 安部はそう言い放つと篠崎に背を向けて門外へ帰ろうとした。
 すると篠崎は「ちょっとお待ちなさい!」と言って呼び止めようとしたが安部は聞かずに門外へ出て、
「談判は手切れとなった。ただちに攻撃準備にかかれ」
 と部下たちに命じた。
 その直後、安部を追いかけてきた篠崎も門外へ出て、
「安部殿、しばらくお待ちを!」
 と叫んだところに、門外で控えていた庄内藩士がいっせいに篠崎めがけて槍を突き刺し、討ち果たした。
 合戦の開始を告げる血祭りであった。
 それと同時に「うおお!」と(とき)の声があがり、幕府軍による薩摩藩邸への攻撃がはじまった。
 時に明け六つ半(午前七時)のことであった。

 幕府側はとにかく大砲をドカドカと撃ち込んだ。同時に鉄砲も撃ち込む。強引に邸内へ斬り込むようなことはしない。
 逆に薩摩側は邸内へ斬り込まれることを恐れて、正門を入ったところの左右に並んでいた長屋に自ら火をつけて、敵の侵入を阻もうとした。これによってこの焼き討ちは「薩摩側が自焼した」とのちのちまで言われたりもするのだが、とにかく、撃ち込まれた大砲による火災とこの自焼によって付近一帯は煙だらけになった。
 薩摩側もできる限りの反撃をした。相模の荻野陣屋から分捕ってきた大砲を邸内の築山に据えて撃ったりもした。けれども、使い慣れない大砲だったのでほとんど役に立たなかった。
 一方、幕府側は有効に大砲を活用した。そのうちの一発が藩邸内の火薬貯蔵庫を直撃して大爆発を引き起こした。
 所詮、多勢に無勢である。藩邸内では死傷者が続出した。戦意旺盛な薩摩藩士といえどもこれではどうしようもない。薩摩藩士と浪士たちはほどなく反撃をあきらめ、スキを狙って脱出する作戦に方針をきりかえた。
 藩邸の西側にある通用門から三田通りへ打って出る。その際、鉄砲で援護射撃をしてくれるよう味方に頼んだ。
 相楽や落合が浪士たちを引き連れて、さらに薩摩藩士の一部もそれに加わっていっせいに三田通りへ打って出た。

 意外と上手くいった。薩摩藩邸から鮫洲を目指すとすれば、この三田通りへ出て南へ行くのが一般的な経路である。
 しかし幕府側は敵が鮫洲を目指すことをそれほどハッキリと想定していたわけではなかった。もしそれを想定していたなら、このあたりに重点的に兵を配備したであろうが、そこまで相手の動きを読んでいたわけではなかったのだ。
 とはいえ、この脱出時に少なからぬ数の浪士が敵の銃弾に倒れ、鮫洲へ向かう途中でも次々と討ち死にしていった。傷を負う者は数知れず、といった悲惨な脱出作戦で、さながら「関ヶ原の島津の退()(ぐち)」を彷彿とさせる格好だ。
 南へ向かった相楽たちは(ふだ)(つじ)で東海道に合流し、そこからさらに東禅寺前、御殿山下、北品川と抜けてさらに南の鮫洲へ向かった。途中、敵の目をくらませるため各地に放火しつつ南を目指した。

 この浪士や薩摩藩士たちの逃走について『幕末百話』(岩波文庫)に次のような話が載っている。
「横新町の提灯屋さんでは逃げ遅れて仕方ないので、どうせ見物するならと二階へあがったところ、鉄砲(たま)が飛んできて、即死が一名ありました。それに同所の左官で伊三郎さんという家でも逃げそこねてヤッとの思いで家族そろって逃げ出し、札ノ辻まで参ると浪人組の人々、-いずれ薩摩の方々でしょう。きっと今は立派になっておられる方々でしょうサ。その連中がいずれも血刀(ちがたな)をひっさげて悠々と詩を吟じ、(うたい)を唄って、酒井様(庄内藩)の組の人々が追いかけるにも構わず、引きあげる途中だったのでございます(中略)薩州の方の様子はよく分かったのですが時々往来の真ん中に突っ立ってお腹を広げ、切腹でもなさるのかと思ったら、「撃てるなら撃て、サア撃て」とからかっては段々と引きあげたんでございます。その度に新徴組から弾が撃ち出され、その方々には当たらず、かえって伊三郎さんのお婆さんに当たって、可哀そうに即死されたそうでございます(中略)下駄屋さんが逃げ出そうとしている最中、浪士の方々がドヤドヤと入って来て、口々に「早く逃げろ。大事な物は持って行け。手伝ってやるゾ」と言いながら、天井に吊るしてある唐傘を血刀でバラリバラリと斬って落として積んだ上に火を放ったから、油紙に火が付いて燃えだしました。それから六丁目の空き家からも燃え出しましたから、新徴組の方でも浪人はうっちゃって火事を消すほうに気を取られてそれっきりになりました」

 このようにして相楽や落合たち八十人ほどが鮫洲までたどり着き、ここで小船を三隻雇って品川沖に停泊している翔鳳丸を目指すことになった。

 それを語る前に、一旦これまでの経過をまとめておきたい。
 薩摩藩邸での戦闘は三時間ほどでケリがついた。
 ただし火災は周囲へ燃え広がり、大規模な延焼を引き起こした。のちにこれは「薩摩火事」と呼ばれ、焼け跡となった薩摩藩邸のあたりは長らく空き地となって「薩摩ッ(ぱら)」と呼ばれた。
 薩摩側の戦死者は約五十人、投降者は約百六十人。これらの中には武士以外の者も含まれる。「藩邸」ということで藩士の家族も少し残っていたのだ。死者の中には少なくとも藩士の妻が二人含まれており、投降者の中にも数人の女性がいた。
 益満休之助はこの際、捕虜となった。支藩の佐土原藩の藩邸を占領された時に捕まったとも言うが、定かではない。ちなみにこの佐土原藩邸というのは薩摩藩邸の少し西側の三田小山にあり、現在の「綱町(つなまち)三井倶楽部」の場所にあった。薩摩藩の支藩ということで、ここの藩邸も焼き払われた。
 この三田の藩邸は薩摩藩の上屋敷だが、他に高輪に下屋敷が、また幸橋(さいわいばし)に中屋敷があった。この幸橋の中屋敷は「装束屋敷」とも呼ばれ(琉球使節が登城する際にここで着替えたことに由来する)現在の千代田区内幸町一丁目、すなわち帝国ホテルの辺りにあった。ちなみに後年、ここに鹿鳴館が建つことになる。そういった中屋敷や下屋敷も当然ながら幕府に接収された。「幕府にケンカを売った」という点では薩摩藩の先輩格にあたる長州藩も、三年前の禁門の変で幕府と交戦した際に江戸や大坂にあった藩邸をすべて幕府によって取り壊され、そこに残っていた長州人は全員牢屋にぶち込まれて悲惨な目にあっていた。

 当時、江戸に住んでいた若き幕臣で塚原直太郎という男がいる。後年、小説家となって塚原渋柿園(じゅうしえん)と名乗る男である。
 彼はこの時の薩摩火事を直接目にしていた。以下、彼の『明治元年』という著作から(青蛙房(せいあぼう)『幕末の武家』より)引用する。
「朝飯を食べて辰刻(いつつ)頃(今の八時)、市ヶ谷の組屋敷を出ようとすると半鐘が鳴る。火事だ!どこだか聞くと芝だという。ナニ、通例の火事だと思って、四谷大通りまでぶらぶら歩くと消防夫(しごとし)などが駆けて行く。やがて堀端へ出るとなるほど煙が見える。大火事だ。それでも戦争などとは思いもよらず(略)そこへ寄って聞いてみようと「叔母さん、火事は」と聞くと、叔母は奥から目を丸くして飛んで来て「おや、お前かえ、どうおしの、火事じゃない、戦さだよ!薩摩様の焼き討ちだよ!」(略)戦争というので私も驚いた。もちろん、その前から薩長といえば幕府の敵、しかも江戸市中の賊たちも薩摩であるというのは誰いうとなく風の噂で聞いている。さてはいよいよ開戦(はじま)ったのかな、と驚き、かつ勇んだが、とにかくその勝敗が気にかかる(略)「ナニ、戦さですか?そりゃ今朝の辰刻頃です。もうありません。薩摩が負けて酒井様などが勝ったのです。今はその逃げた者の詮議です……」委細はわかった。(略)ともあれ、まず勝ったとあれば嬉しい、と喜び勇んで引き返したが、その時にまた驚いたのは、四谷へ戻って来ると至極太平なもので、ここらは戦争ではない歳暮(くれ)の騒ぎ(略)羽子(はね)はつく、獅子舞の太鼓の音はする、絵草紙屋には人がたかって役者の似顔絵を馬鹿な面して眺めている。目と鼻の間の芝-、火事はまだどんどん燃えている、その芝で戦争があって、戦さで人家が焼かれているなどとは夢にも知らぬ。長崎の葬礼(とむらい)を江戸で聞く、というような調子で、往来は賑やか、人は皆、近づく春のいとなみに余念なしという景色を見て、私もその暢気(のんき)さ加減に大いに呆れた」
 これ以降の記述では、このあと数日にわたって薩摩藩邸には人々が殺到し、焼け跡から金目の物は焼釘に至るまで一切がっさい持ち去ったとある。
 さらに「蔵には銅に金メッキをした贋金(にせがね)の二分金が巨万とあり、電線もいっぱいあったと聞いた。ある人がそれを私に見せて、これは電気仕掛けの地雷火の導火線だ、もう少しぐずぐずしていたら、ひょっとしたらこれで江戸中、黒焦げにされたかも知れぬ、と舌をふるわせて話してくれた。私も分からぬながら肝を潰した」とも書いている。
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