第7話 猪之吉(二)

文字数 5,973文字

 地域の巡回を始めてから数日後。
 今のところ幸次郎一味とおぼしき連中は黒駒に現れていない。
 しかし集会所にいる勝蔵のところへ、
「近くの畑で盗人が見つかったので農民たちが追いかけているところだ」
 という話が届いた。しかしその盗人はどうやら幸次郎一味ではないようで「子どもの盗人が一人で逃げている」という話だった。
「なんだ、子どもか」
 と勝蔵は拍子抜けした。


 その少年はやや足元をふらふらさせながら黒駒の街道を走って逃げている。その後を農家の男三人が追いかけている。
 少年は畑で盗んだ大根を右手に握っており、それを走りながら時々かじって食べている。そして左手には弓らしき物を握っている。どうやら半弓(はんきゅう)のようだ。
 しばらくすると追手の農民は、あと二十歩ぐらいの距離まで近づいてきた。すると少年は、食いかけの大根を投げ捨て、半弓に矢をつがいで後ろを振り向き、すかさず矢を放った。
 矢は農民の足元をかすめた。
 それで彼らは一瞬ひるみ、追いかけるのを少し躊躇(ちゅうちょ)した。
 そのスキを見て少年は、すぐにかたわらの竹藪に飛びこんで逃走をはかった。まるで猪のような暴れぶりだ。

 農民たちはなかば、もう見逃してやっても良いじゃねえか、と思い始めていた。
 どうやらあれは浮浪児らしい。食いつめて仕方なく畑の作物を盗ったのだろう。まだ子どもだし、大目に見てやればいい。それに、弓矢を人に向かって放つような悪ガキだ。無理して追う必要もあるまい、と。
 ただ、逃げた場所が問題だった。
 そこは武藤家の竹藪で、すぐ近くに武藤家の屋敷がある。あの悪ガキが武藤家に入って悪さをしないとも限らない。
 というわけで一応、武藤家に行って、あいつが侵入してないかどうか注意だけはしておこう、と話し合い、彼らは武藤家へ向かった。

 案の定、少年は武藤家の庭に潜入していた。
 が、草むらの中にうずくまっていた。庭のすみにある物置のかげだ。「腹が減って、もう一歩も歩けない」と、少年はそこに腰を落としていたのだ。
 そこへ屋敷の中から少女が一人、歩いてきた。
 そして少女は、そこに座りこんでいる汚らしい少年をたまたま見かけ、ビックリして声をあげそうになった。
 それに気がついた少年は反射的に弓に矢をつがえて少女へ向けた。そして、思わず言った。
「……何か、食い物をよこせ……」
 少女はしばらくおびえた表情をしていたが、おもむろに後ろを振り向いてその場から逃げ出した。
 そして少女が門の近くまで逃げてきた時に、門を通って男が三人入ってきた。先ほどまで少年を追いかけていた農民たちである。
 彼らがやって来たことに気がついた草むらの少年は、とっさに物置のかげに隠れた。
 農民たちは少女に「弓をにぎった小僧がここへ逃げて来ませんでしたか?」と尋ねた。
 かげに隠れていた少年は、それを聞いて観念した。
 仕方がねえ。こうなったらもう逃げられない。また罰としてぶん殴られるか、ひょっとするとどこかの収容所へ連れて行かれるかも知れないな、と観念した。

 しかし少女は、
「いいえ。そのような人は、私は見てません」
 と答えた。かげでそれを聞いた少年は、驚いた。
「そうですか。それではまだ近くにそいつがいるかも知れませんので気をつけてください。それと、このことを武藤の旦那様にもお伝えください」
「はい。かしこまりました。間違いなく、そのようにお伝えいたします」
「それでは、ごめんください、お八重ちゃん」
 そうあいさつして、農民たちは帰っていった。
 そのあとお八重は、武藤家の敷地内にある神社の(ほこら)へ行った。そしてそこに供えられていた果物の梨を二つ、神様に謝りながら手にとり、それを少年のところへ持って行った。
 少年はそれを受け取ると、むしゃぶりつくように食べた。
 そしてお八重は少年を物置の中へ隠れさせ、そこでしばらく待つように言い、それからすぐに集会所へ走って行った。

 集会所に着くとお八重は、息を弾ませながら勝蔵に言った。
「あの……、勝蔵さん、実はお願いがあるのだけど……」
 そうしてお八重は、勝蔵を少年のところまで連れて来た。
「あの、勝蔵さん、くれぐれも乱暴なことをしちゃダメよ。ひどくやつれてて、可哀そうな子みたいだから」
「まあ、俺に任せておけ」
 と言って勝蔵はガラッと物置の戸を開けた。中の隅っこで隠れるようにして少年が座っていた。
 少年は、突然目の前に鬼のような大男が現れたことに驚き、とっさに弓を構えて勝蔵に矢を向けた。
 しかし勝蔵は微笑みながら言った。
「そんなちゃちな弓矢じゃ、俺は()(ころ)せねえぞ」
 そして「そんなものは手放せ」という意思を示すかのように、勝蔵は手を差し出した。
 少年は動物的な本能として「この男にはどんなに抵抗しても無駄だ」と感じ取り、羊のようにおとなしく勝蔵の命に従った。
 勝蔵は半弓を受け取ると、代わりに懐から干しぶどうの入った袋を取り出し、それを袋ごと少年に放り投げて「食え」と言った。
 少年はむさぼるようにそれを食った。

「お前、名前は?」
「猪之吉」
「猪の猪之吉か?じゃあ、ひょっとして猪年の生まれか?」
 猪之吉はコクリと首を縦に振った。
「ということは十一歳か。お八重より二つ上だな。それで、お父っつぁんやおっ母さんはどこにいる?」
「おとうもおかあも、ずいぶん前に死んだ。だから家は無い」
 それから猪之吉は、これまでたどった自分の境遇を勝蔵に語り始めた。

 父親は甲府の博徒で、元は自分も甲府に住んでいた。物心ついた時に母親は既に死んでいた。そして四年前、突然父親も死んだ。何か博徒同士のいざこざに巻き込まれて死んだらしい。それ以来、面倒をみてくれる人もおらず、乞食の仲間になったり盗みをくり返すなどして食いつないできた。ここ数年はこの半弓を使って鳥やウサギ、時には犬猫やネズミを獲って食べていた。山で山芋や栗などを採って食べたりもするが、ときどき畑の作物も盗んでいた。それで、今日も盗みが見つかって捕まりそうになった、という話だった。
 その話を聞いて勝蔵は一つの案を思いつき、猪之吉に尋ねた。
「お前は猟師になるつもりはあるか?あるんなら、俺の知り合いに猟師がいる。その人の弟子になれるよう紹介してやろう」
「うーん……、それは……、猟師になるのは、悪くない、とは思うけど、俺は大人が嫌いだ。今まで散々イジめられてきたし、いまさら大人の言うことなんか聞きたくない。だから、できれば今のままが良い」
「ふん。お前も俺と一緒で天邪鬼な奴だな。気に入ったぞ。だが、お前が今のまま盗みをつづけていれば、どうせいつか捕まって、代官所か、あるいはウチみたいな名主に処罰されるだろう」
 猪之吉は、相手が名主の息子と知って驚いた。これはエラい相手に捕まってしまった、と。
 その猪之吉の様子を見てとった勝蔵は、安心するように言った。
「心配するな。ウチは名主といっても俺は次男坊だ。別にお前をどうこうするつもりはない。とにかく、俺が使っている山小屋があるから、お前をそこに住まわせてやる。ついて来い」
 と言って勝蔵はお八重の家から猪之吉を引き取っていった。

 それから二人が山小屋に着くと、勝蔵はそこに置いてあった猟師用の弓を猪之吉にくれてやった。別に勝蔵がそれを使って猟をしていたわけではないが、以前からこの山小屋に飾り代わりとして置きっぱなしにしていたものだ。
 猪之吉は本式の弓を手にして、心を躍らせた。
 とりあえず勝蔵は、ここで猪之吉に猟師の真似事をやらせることにしたのだった。
 この辺の猟師には俺が話をつけておくから、お前が獲った獲物は俺が相応の値段で買い取ってやる。もし猟が不猟でも盗みだけは絶対にやるな。お前を食わせるぐらいの米は俺が必ず届けてやる。
 といった至れり尽くせりの条件で、勝蔵は猪之吉を手元に置くことにしたのだった。
 猪之吉は今まで一度として大人からこのような待遇を受けたことはなかった。それで、勝蔵の恩情に泣きたくなるほど感謝した。



 さて、幸次郎一味のその後について、である。
 二十人ほどいた一味は甲州に入ったあと、一隊は南の駿河へ、一隊は北の信州へ向かった。
 駿河へ向かった一隊は各地を徘徊しながら二、三の騒動を引き起こした。その騒動の一つは御殿場の

で九月二十二日に起きた。
 韮山代官・江川英龍の手勢七人が幸次郎一味二人を捕縛し、そのあと三人と格闘戦になり、新式銃で装備した江川勢が一人を射殺、一人を負傷させた上で捕縛、残り一人は取り逃がした、という事件である。八州廻りが三千人からの手勢を動員しながら補足しきれずにいた幸次郎一味を、江川英龍は断固たる姿勢で討伐したのである。
 また信州へ向かった一隊も九月下旬に中山道の長久保宿で四人が、つづいて岩村田宿で一人が捕縛され、こちらも壊滅状態となった。
 そして十月九日、甲府で潜伏中だった首領の幸次郎が甲府勤番支配によって捕縛され、幸次郎一味の事件はこれで落着となった。捕縛された者は全員のちに死罪となった。
 一方、幸次郎と争っていた伊豆の大場の久八も、その本拠地は韮山からそう遠くない所にあったのだが、江川が久八を逮捕しようとしたところ、すでに行方をくらませた後だった。

 ともかくも、幸次郎一味の脅威が消えたことにより、勝蔵も黒駒の警戒任務を終了させた。

 ちなみにこういった無宿者たちの騒動による影響もあったと思われるが、前回鰍沢で祐天仙之助とつるんでいた津向の文吉がこの年の四月、賭博の罪で捕まって八丈島への流罪となった。
 この場合、流罪というのは「終身刑」と同じで、基本的に二度と本土の土を踏む事はできない。それほど重い刑である。ただし文吉の場合は運が良かったと言うべきか、明治の初年頃、御一新の大赦によっておよそ二十年ぶりに帰国が許されることになる。文吉はこの年三十九歳なので、戻って来る頃には六十歳だ。
 また余談ながら、この数年前の話として津向の文吉が三十人の手勢をひきいて清水へ出向き、庵原(いはら)川の河原で地元の博徒とケンカ寸前のにらみ合いとなった際、そこへ文吉を兄と慕う次郎長が駆けつけてケンカの仲裁を成功させた、という逸話が明治十七年に書かれた次郎長の基本史料『東海遊侠伝』に載っている。この仲裁によって次郎長は男をあげ、初めて天下にその名を知られるようになったという。
 が、この話は本当かどうか疑わしい。
 というか、そもそも博徒に関する逸話はその多くが信憑性に欠けるものばかりであることは、この種の本をいくつか手に取ればすぐに分かることだ。特に『東海遊侠伝』は、一時期次郎長の養子となっていた天田(あまだ)愚庵(ぐあん)が次郎長から聞き書きした伝記であるが、この本についていろいろと追究するとキリがないので、それは控えておく。
 ただ、一つだけ指摘しておきたいのは、この甲州の「津向の文吉」と、駿河の「首つなぎの親分」として有名な次郎長の兄貴分「安東の文吉」が、同じ“文吉”ということで、この種の講談、ドラマなどでしょっちゅう混同され、津向の文吉が次郎長を可愛がる大親分であるかのように扱われることがよくあったらしい。しかし上記の通り、津向の文吉はこの年に八丈島へ送られ、次郎長の兄貴分として活躍する機会などあろうはずがない。
 庵原川の仲裁話は次郎長の基本史料『東海遊侠伝』の段階から書かれている逸話ではあるが、「その文吉はどっちの文吉なんだ?」という疑問もさることながら、この頃の次郎長の名はまだ天下にまったく知られていない。それだけは確かである。



 翌年の嘉永三年。
 こちらは正真正銘、天下にその名を知られた上州の国定忠治が、八州廻りによって捕縛された。
 八月二十四日のことで、上州の田部井(たべい)村(現、伊勢崎市田部井町)での出来事であった。
 博徒の大親分国定忠治が捕まったとなると、どれほど凄い捕り物劇があったのか?と想像するかも知れないが、そういった劇的な場面は一切ない。
 忠治はこの一ヶ月前、隠れ家に潜伏していたところ突然中風を発症して倒れ、寝たきり状態となってしまい、そこへ踏み込まれて捕まったのだった。
 忠治が伝説的な「義賊」として後世語られるようになったのは、天保飢饉の際に地元村民に対して(ほどこ)しをおこなった事が何よりも大きい。そのことは当時の記録として残っており、そういう評判が実際に広がっていたという記録も残っている。

 さらに忠治の人気を後押ししたのは、やはり幕府に対して反抗的であったからだった。
 博徒であるにもかかわらず幕府の目明しとはならず、時には赤城山に立てこもってまで幕府に反抗していた。なにしろ当時の目明しは幕府の権威をかさに好き放題やっていたようで、とにかく民衆から嫌われていた。『鬼平犯科帳』で元盗人の目明しが鬼平の部下として誠実に働く、というのとはかなりイメージが異なる。その目明しをつとめなかった忠治は「義賊」としての条件を満たしていたのである。
 このように書くと、忠治はいかにも「善人」であったかのように思うかもしれないが、敵対していた博徒・島村伊三郎の殺害を始めとする数々の殺人傷害事件、賭場(とば)荒らし、賭場の開帳、そしてなにより忠治の罪刑として一番重視された「関所破り」など悪逆の限りを尽くしており、どう見ても「善人」と言うには無理がある。

 そして忠治は、関所破りをした上州大戸(おおど)の関所に護送されて、そこで十二月二十一日、(はりつけ)刑に処された。享年四十一。
 確かに幕府の法令には「関所破りは磔刑に処す」との条文がある。ただし実際に関所破りの罪で磔刑が実行されることは、まずない。この条文は古い慣習を引き継いだ、いわば形式的なものに過ぎない。「嘘ついたら針千本飲ます」と言っているようなものだ。飲めるわきゃあない。
 それなのに今回の忠治の場合に限ってこれを厳格に適用させたのは、忠治の数々の犯罪が悪質であったために幕府としては通常の「斬罪(斬首)」では許しがたく、なんとか見せしめとして磔刑にしようともくろみ、本来ほとんど死文と化していた「関所破りは磔刑に処す」の条文を援用して磔刑を実行したのである。

 忠治は見せしめとして磔刑に処されたのだ。
 が、この幕府のもくろみは失敗したといえる。ここでキリストの例を持ち出すのはいかにも不謹慎きわまる話であろうが、磔刑による死は、逆に忠治の死を劇的なものとし、その「義賊伝説」に更なる演出を加えることになった。
 幕府がわざわざそういった演出を脚本に書き加えてくれたのだ。
 これでますます忠治は伝説の男として名を高めたのである。


 そして小伝馬町の牢屋に入れられていた竹居安五郎は流罪の判決を受け、この翌年、新島へ送られることになった。
 博徒の流罪が基本、終身刑であることは先に述べた通りである。

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