第59話 赤報隊と高松隊(七)

文字数 6,040文字

 そろそろ話を元に戻したい。

 この日、勝蔵は名古屋で雲風亀吉の屋敷を訪れていた。
 殺傷事件を起こして三河平井から逃亡していた雲風亀吉は、この一年前まで岐阜の弥太郎のところで一緒に世話になっていた。あのあと勝蔵は京都へ行き、亀吉は兄弟分の世話になるため名古屋へ来た。
「わざわざ会いに来てくれるとは嬉しいぜ、黒駒の兄弟。やっぱり二本差しになってたんだな」
「平井の兄弟も達者そうで何よりだ。水野の旦那も兄弟のことを心配していたよ」
「確か赤報隊、だったか?そんな天朝様の軍隊に入っている人間が、こんな博徒ふぜいに会いに来て平気なのかい?あとでお(とが)めを受けるんじゃないか?」
「なに、大丈夫さ。別に何か悪さをしているわけじゃねえ。そうそう、悪さといえば、水野の旦那は加納宿で子分たちが騒ぎを起こして、ずいぶんと気落ちなさってたよ。それで名古屋へは子分だけを寄こして、旦那は美濃に残った。まあ、もう、いい年だからな。これから江戸まで行軍するのは無理だろう」
「あの旦那はもともとそんなに腕っぷしの強いお人じゃなかったからな。戦さに加わるなんて似合わねえことをなさったから、さぞお疲れだろう」
「だが、いま俺たちがこうしていられるのも、あの旦那がさんざっぱら俺たちのことを面倒みてくれたからだ。本当に早く良くなってもらいたいもんだ」
「ああ、そうだな。ところで、兄弟は甲州へ帰ったのかい?」
「いや、まだだ。本当に早く帰りたいもんだ。これから東海道の官軍に加わるから、途中で甲州へも向かうだろう。その時は甲州行きの従軍を申し出て、先鋒をつとめさせてもらうつもりだ」
「あの“黒駒の勝蔵”が、官軍の赤報隊隊長となって甲州に現れたら、さぞかしみんなビックリするだろうぜ。まったく講談のような面白え話だ」
「ふん。次郎長じゃあるまいし。お抱えの講釈師を使って自慢話をあちこちでやらせるなんて、俺の好みじゃねえよ」
「あの次郎長の野郎には、いつか子分たちの(かたき)討ちをしてやりてえが、黒駒の兄弟も、そんな二本差しになっちまっちゃあ、もう敵討ちもできないだろう?」
「そうだな。大岩たちに申し訳ねえ……。だが、今こうして一緒に従軍している子分……、いや部下たちのこともある。奴らをいっぱしの武士にしてやることで、その償いをするしかねえな」
「もう、博徒の親分からすっかり足を洗ったようだな、兄弟」
「いや、まったく柄でもねえ」
「実は、俺も尾張様から声をかけてもらっているんだよ」
「ほう。尾張様も官軍に参加なさるのかい?だが、兄弟は三河のお人だ。なぜ尾張様が三河のお人を雇おうとなさる?」
「今、お城では多くの重臣が切腹なさって、藩内がメチャクチャになっている。それで俺のような博徒にも声がかかったんだろう。俺は三河人だが今は名古屋に住んでいる。とにかく腕っぷしが強ければなんでも良いってことで、以前、天狗騒動の時に尾張様から御用を仰せつかった長久手の北熊一家も、お城に召し出されたと聞いた」
「なるほど。尾張様も赤報隊を作ろうってわけだ」
「いや。こっちは“集義(しゅうぎ)隊”って名前になるらしい」
「とにかく、これで平井の兄弟も二本差しになるってことだな」
「多分な。だから、こっちも次郎長の野郎には敵討ちができなくなりそうだよ。だが二本差しになれば俺もようやくお尋ね者じゃなくなるわけだし、話を受けないわけには……」
 と二人が話しているところへ、息せき切って猪之吉が駆けこんで来た。
 京都の新政府から綾小路卿に対して「急ぎ京都へ引き返せ」という命令が届き、赤報隊は京都へ引き返すことになったので勝蔵もすぐに隊へ戻るようにと鈴木隊長から命令があった、と猪之吉は伝えに来たのだ。
 それで勝蔵は亀吉への辞去のあいさつもそこそこに、急いで赤報隊の本営へと戻った。

 このころ赤報隊の評判は散々なものとなっていた。その赤報隊の悪い噂がぞくぞくと京都の新政府のもとに届いていたのだ。
 そのなかには当然、加納宿における水野一家の悪評もある。
 そしてそれに輪をかけて酷かったのが、別働隊として北伊勢で動いていた滋野井隊の行状であった。
 赤報隊の頭領は、綾小路や滋野井というそれほど良質とは言えないお公家様だったということもあって、もともと規律がいくぶんザルだった。
 特に滋野井隊は規律の乱れが酷かった。
 以前触れたように滋野井は突然泣き出したり「自殺する」と言ってわめき出したりする精神の不安定な人物であった。そして部下のなかにも何人か良からぬ人物がいたようだ。
 ちなみに江戸時代、“例幣使(れいへいし)”と呼ばれる朝廷から日光東照宮へ派遣される勅使の行事があった。
 この勅使役は公家が持ち回りで選ばれていたのだが、皆この役得の多い例幣使役をやりたがった。江戸時代の公家はとにかく貧乏で、この滅多にない役得の機会にありつこうとした。
 例幣使は(くらい)だけで言えば大名よりも断然高い。それで道中、行き合う人々に様々な難癖をつけて金をせびるなどした。せびられた側はだいたい泣き寝入りしてしぶしぶ金を渡したという。
 そういった役得を見込んで、例幣使役が決まった公家の家には有象(うぞう)無象(むぞう)の家来たちが大勢やって来た。公家の権威を利用して散々おいしい目にあやかってやろう、という連中が集まってきたのである。

 滋野井を担ぎ出して隊を結成させた連中のなかにも、そういった役得目当ての者がいたのだろう。
 滋野井隊は赤報隊本隊から離れて北伊勢で活動しつつ桑名へ向かっていた。新政府の東海道軍が桑名城を目指していたため、そこで合流するつもりだったのだ。その桑名城はこの日、東海道軍によって接収された。

 そしてその直前に、滋野井隊は東海道軍と北伊勢の諸藩軍によって討伐されたのである。

 京都の新政府から東海道軍および北伊勢の諸藩に対して、
「浮浪の者たちが滋野井卿を脅して京都から脱走させ、近江などで盗賊同然の悪行をおこなっている。官軍の名を汚す滋野井隊は見つけ次第、討伐せよ」
 との命令がこの三日前に出ていた。
 この滋野井隊の討伐については史料があいまいでハッキリとした事が分かりづらいのだが、四日市で山本太宰ら幹部八人が処刑され、二十数人が追放処分となった、ということらしい。そして滋野井一人だけが京都へ連れ戻された。
 このとき処刑された人々が赤報隊の最初の犠牲者である。

 こういった赤報隊の悪評によって綾小路にも京都への帰還命令が届いたのであった。
 それで綾小路は京都へ戻ることに決め、中山道に残っている相楽の隊にも京都へ戻るよう指令を送った。
 翌朝、赤報隊は名古屋を出発して昼前には桑名に着いた。
 滋野井隊の粛清事件があった直後だけに、赤報隊が桑名へ入ろうとすると東海道軍が殺気を帯びた様子でそれを押しとどめた。そこで幹部の山科が出向いていって東海道軍と交渉すると滋野井隊が討伐された話を知らされ、さらに「いま桑名に入るとあなたたちも大変な目にあうから逃げたほうがいい」と助言された。
 山科はここで初めて滋野井隊の壊滅を知って驚愕した。
 そして隊へ戻って他の幹部たちと協議した。その結果、綾小路や幹部たちが出向いて行って東海道軍の総督をつとめる両卿、すなわち総督の橋本実梁(さねやな)と副総督の柳原前光(さきみつ)と面会することにした。
 ところが会って話してみると特に問題もなく、綾小路たちについては「お(とが)めなし」ということになった。
 このあと綾小路の赤報隊は桑名から四日市、亀山、水口、大津と東海道を進んで行き、二月六日に京都へ帰還した。もちろんこの中には勝蔵たちもいる。
 赤報隊は寺町二条の妙満寺へ入り、とりあえずそこで一旦待機することになった。赤報隊は解隊の予定で、新たに隊を編成し直す方針だ、と勝蔵は聞かされた。
 ともかくも、これ以降「赤報隊」として残っているのは中山道の相楽たちだけということになった。



 勝蔵が東海道を通って京都へ向かっているころ、岐阜の水野弥太郎に異変があった。
 美濃の大垣にはすでに鎮撫総督の岩倉具定(ともさだ)が率いる東山道軍が入っていた。
 二月三日、その東山道軍から弥太郎のところへ出頭命令が届いた。
「あなたについてはいろいろな風聞があるようだが勤王の志が強いと聞いている。御用があるので大垣の総督府まで出頭するように」
 先日の加納宿での騒動以降、心労がたたって寝込んでいた弥太郎だったが「勤王の志」を評価されて呼び出されたとあっては、行かないわけにはいかない。
(赤報隊に貢献したことで、何かご褒美でもいただけるのだろうか?)
 と少しだけ期待しつつ、腹心の嘉太郎を連れて大垣へ出かけた。衣服は命令書にある通り、麻上下をつけている。
 二日後、大垣の東山道軍総督府に出頭すると座敷へ通され、そこでは新政府の役人二人と大垣藩の役人二人が上座に座っていた。
 簡単な本人確認の受け答えが済むと四人の役人は部屋から退出していった。

 そしてそのあと、数人の小役人と捕り方が部屋に入ってきて、そのなかの組頭らしき男が弥太郎に宣告文を読み上げた。
 要約すると、
「先般その方に不審なおこないがあったので逮捕する」
 ということであった。
 直後に弥太郎と嘉太郎は縄で縛られ、牢屋へ入れられた。

 だまし討ちと言っていいやり方である。
 弥太郎が博徒の大親分なので子分たちの抵抗を恐れて、このような悪辣な手法をとったのだった。
 逮捕するにあたって具体的な犯罪事例は示されていないが、どう考えても加納宿での水野一家の不祥事が原因としか思われない。
 翌六日。別々の牢屋へ入れられていた弥太郎と嘉太郎は牢役人の了承のもと面会を許された。
 憔悴(しょうすい)しきった表情で弥太郎が嘉太郎に語りかけた。
「あとのことは任せる……。その方には長年世話になり、苦労をかけた。なにぶん一家のことをよろしく頼む……」
 これに嘉太郎が答える。
「あまりお気を落とされますな。またいずれ、再びお会いできる日もまいりましょう」
 弥太郎はしばらく沈黙し、こわばった表情のまま絞り出すように言った。
「……あとのことは知らん」
 そして二人は別れた。

 この日の夜、弥太郎は牢内で首をくくって自殺した。
 それからまもなく高札場に水野弥太郎の罪状が掲げられた。
「天下の大禁を犯し、無頼の子分たちが徒党を組んで悪事をなして良民を悩ませ、あまつさえ官軍の御威光をかさに好き勝手に人を殺したのは不届き至極(中略)本来であれば斬罪にして梟首(きょうしゅ)(さらし首)に致すべきところ、自害したのでその儀に及ばず」
 といったような内容だが弥太郎が自殺したのは、気落ちしていた上に、いずれどのみち死罪を言い渡されるに決まっていると絶望したか、あるいは新政府軍の役人から「自害すれば他の者に罪は及ばないようにする」とそそのかされたか、いずれにせよ新政府軍からの圧力によって死を選ばされたのは間違いない。


 一方、妙満寺にいた勝蔵は、意味も分からず赤報隊の東征がいきなり中止され、甲州への道のりが遠のいたことを不満に思っていた。元は黒駒一家の一員だった勝蔵の部下たちも、それは同じだった。
 ところがそこへ弥太郎の凶報が届いた。
 勝蔵は悲嘆にくれた。一緒に弥太郎のところで世話になっていた猪之吉や玉五郎も同様に悲しんだが、最後まで矢島町に残っていた綱五郎はひときわ悲しんだ。滅多なことでは泣かない男のくせに、この時ばかりは人目もはばからずに大泣きした。
 それで、勝蔵も思わずもらい泣きしてしまった。
(博徒らしからぬ学者肌のお人だったが、それがかえって(あだ)となって国事にのめり込み過ぎたのか……。岐阜で大人しくしていれば静かな余生が送れたはずなのに。まったく無念だったろうなあ、水野の旦那……)


 弥太郎の死を知らされてから十日ほど経ったころ、赤報隊の二番隊で勝蔵の同僚だった鈴木三樹三郎、新井忠雄、篠原泰之進の三人が太政官への出頭を命じられた。三人とも元御陵衛士である。
 三人が出頭すると、たちまち大勢に取り囲まれ、うむも言わせぬかたちで大小を取り上げられて縄で縛られる、といった乱暴な扱いを受けた。
 そしてそのあと大津へ送られ、当地の阿波藩の屋敷内にある牢屋へぶち込まれてしまった。

 弥太郎につづいて、今度は三樹三郎たちが処断されることになったのである。

 まったく憤懣(ふんまん)やるかたない、と三人は牢内で激怒した。
 鳥羽伏見で戦い、直後に赤報隊に参加して近江、美濃の平定に尽力したというのに、いったい我々に何の罪があるというのか?どう考えても身に覚えがない。濡れ衣である!と。
 太政官が三人を捕縛した理由は、
「赤報隊が近江、美濃で活動していた際に不始末があった」
 そういう疑惑がある、ということだった。

 以前、夫を心配するあまり乞食姿に変装して東海道で夫を探した新井の妻小静は、今回も「我が身に代えて夫の釈放を願い出たい」と元御陵衛士の同志に相談したり、夫の無事を神仏に祈りつづけるなど苦心惨憺(さんたん)していた。
 ちなみに元御陵衛士の阿部十郎は、二番隊の隊長だった三樹三郎が投獄されたことによって代わりに隊長格に就くことになった。
 三樹三郎たち三人が捕縛される一方で、阿部や他の元御陵衛士が何のお咎めも受けなかったという、その基準はよく分からない。この戊辰戦争の期間中、意味も分からず処罰されたという例は枚挙にいとまがなく、多分その逆の例も少なからずあったろう。
 阿部は以前、篠原や加納と多少()りの合わない部分も見受けられた。だから篠原が投獄されても冷ややかな様子で傍観していたのだろう、と一見(いっけん)思うかも知れないが、さにあらず。
 阿部は三人の身を案じるあまり、
「赤報隊を率いて大津の牢獄を襲撃する!三人を助け出してやる!」
 と息巻き、逆に周りが阿部を止めるのに苦労したという。まったく極端な男であることよ。

 いくぶん先の話になるが、三人は三月七日に無事釈放される。
 調査の結果、三人の赤報隊での行動には問題がなく、鳥羽伏見での戦功もあるので今後は相応の待遇をすべきである、と薩摩藩が新政府へ上申してくれたおかげで助かったのだ。
 新井は牢内にいる時、あまりの憤激から見張り番を斬り殺して牢破りをすると篠原たちに主張した。また篠原の回想記によると、釈放される日にいつもより豪勢な食事が出されて篠原と三樹三郎は喜んでそれを食べたが、新井は一口も食べなかったという。
 三人が投獄された理由について史料には具体的な理由は書かれていない。
 とはいえ、おそらく、
「御陵衛士が水野弥太郎と関係があり、特に新井は弥太郎を赤報隊へ引き入れるのに一役買っていた」
 という部分がおそらく問題視されたのだろう。
 つまり弥太郎の罪と連座させられたのだ。もしこの三人に薩摩藩の後ろ盾が無かったら、この時どうなっていたか分からない。

 そして何よりも分からないのは、
「なぜ弥太郎の一番近くにいた勝蔵が、何の咎めも受けなかったのか」
 ということである。
 まったく奇跡と言うしかない。
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