第38話 公家侍へ(一)

文字数 7,086文字

 慶応二年(1866年)十二月五日、徳川慶喜が将軍宣下(せんげ)を受け、第十五代将軍に就任した。
 その二十日後、孝明天皇が疱瘡(ほうそう)(天然痘)の病で崩御(ほうぎょ)した。
「時代の流れが大きく変わりつつある」
 世の人々は新年を迎えるにあたって、そんな予感を否応なしに感じさせられた。
 期待と不安が入り混じった、なんとも気がそぞろになりがちな慶応三年(1867年)の新春である。

 年明け早々、岐阜の水野弥太郎のところで世話になっていた雲風亀吉が名古屋へ移ることになった。地元の三河平井には戻れないので、とりあえず名古屋の兄弟分のところで世話になるという。
 平井一家の人々が岐阜を去る前に、黒駒一家の全員が、といっても勝蔵、玉五郎、綱五郎、猪之吉の四人だけだが、ともかくも一堂に会して送別の宴を開いた。
「いつまでも水野の親分の厄介になっているわけにはいかねえからな」
 と言うと亀吉は盃の酒を飲み干した。隣りで飲んでいる勝蔵が、その盃へ新たに酒を注ぎつつ問いかけた。
「名古屋へ行って、そのあとはどうするんだい?」
「さあな。とりあえず名古屋へ行けば賭場もたくさんあるからシノぐ方法はいくらでもあるだろう。ところで黒駒の兄弟こそ、これからどうするつもりなんだ?水野の親分から聞いた話じゃ、京へ行くそうじゃねえか。やはり水野の親分のツテか何かかい?」
「いや、そうじゃない。実は甲州で神主をやっている武藤家から書状が来て『京へ出て、公家に仕える侍になったらどうか?』と言われたのさ」
 この話を聞いて亀吉は、飲んでいた酒を吹き出しそうになるぐらい驚いた。
「公家に仕える侍だと!?そりゃまた、おったまげた話だ。ヤクザをやめて二本差しになるのかい?時勢とはいえ、とんでもねえ世の中になったもんだぜ。それで、兄弟はその話を受けるつもりなのかい?」
「まだ分からねえ。俺は今まで京へ行ったことがねえからな。実際に京へ行って話を聞いてからじゃねえと何とも決めようがない。それに、俺には黒駒一家の仲間たちがいる。その処遇をどうするか、それが一番の問題だ」
「京といえば尊王攘夷と佐幕で大騒ぎになっている土地だ。そんな政治(まつりごと)の話なんて俺たちヤクザには無縁なものだと思っていたが……。いや、実は俺がこれから行く尾張にも、元はヤクザのくせに尾張様から苗字帯刀を許された奴がいる。長久手にいる北熊一家の親分で実左衛門という男だ。以前、水戸の天狗勢が中山道を通って尾張の近くまで来た時に、その探索役を仰せつかって功をあげ、それで苗字帯刀を許されたって話だ」
「ほお。尾張の北熊一家といえば今をときめく大勢力だ。なるほど、ああやって勢力を大きくしていたのは、尾張様の後ろ盾があったってわけだ」
「まあ、そういうことだ。俺たちヤクザの商売は、お上とうまくやっていく奴は伸びるが、お上からにらまれちゃあ、ひとたまりもない。今の俺たちのようにな」
「じゃあ平井の兄弟も北熊一家を見習って尾張様から苗字帯刀を許してもらうかい?ひょっとすると俺たちは、もうしばらくしたら二人とも二本差しになっているかも知れねえなあ。ハハハ」
「ふん。バカバカしい。たった今、お上から追われている俺たちが二本差しになるなんざ、いくら世の中が大きく変わるといったって、そんなうまい話があるわけねえ。どうせ裏に何かあるに決まってらあな」



 このあと亀吉は名古屋へ行き、勝蔵は京都へ向かった。
 勝蔵が京都へ連れていくのは玉五郎と猪之吉のみで、綱五郎は岐阜に残る。
 お公家様の屋敷に入るなんて柄じゃない、このまま弥太郎親分のところで賭場の仕事をしているほうが自分には合っている、と綱五郎は言った。
 そりゃまあ、そうだよな。と口には出さないが、勝蔵も「それが良いだろう」と思った。綱五郎は頭のてっぺんからつま先までヤクザ者独特のヤバい雰囲気を(かも)し出している。こんなのを連れて行ったら相手はもちろん、本人も困るに決まっている。それに弥太郎親分とのつなぎ役としても一人は残ったほうが良いだろう、ということで綱五郎は残ることになった。
 そして勝蔵、玉五郎、猪之吉の三人は中山道を通って数日後、京都に入った。
 博徒が政争の中心地である京都へ出て来る理由などあるはずもなく、勝蔵はこれまで入京した経験はなかった。第一、幕府からお尋ね者として手配されている勝蔵が、新選組などの取り締まりが厳しい京都の地へ来るなど、本来であれば虎口へ飛び込むほど危険な行為である。
 それでも勝蔵は京都へ来たいと思った。
(公家に仕える侍になれば、幕府から追及されるのをかわせるかも知れない)
 という利点を考えたのは当然のこととしても、それだけが理由なのではなかった。
(今、政治(まつりごと)の世界はどうなっているのか?本当に幕府が倒れるなんてことがあるのか?そして(みかど)中心の世になればどんな風に世の中が変わるのか?俺はその機会を黙って見ているだけで良いのか?)
 この激動の時代にあって、ひとかどの男であれば誰だって抱く好奇心と野望が心の中で大きくふくらみ、勝蔵にここまで足を運ばせたのだった。
「京の都がどれほどのものかと期待してたんですが、思ってたよりも寂れてますね」
 と街路を歩きながら玉五郎が言った。
 三年前の禁門の変で町の中心部が丸焼けになって以来、京都の復興は遅々として進んでいなかった。幕府は長州征伐に失敗するわ将軍家茂が死亡するわで、町の復興に力を入れる余裕もなく、そのうえ町中ではここ数年ずっと新選組と尊王攘夷派が殺し合いをくり返し、暗く殺伐とした雰囲気が町全体を覆っていた。

 勝蔵たちは三条大橋の近くにある一軒家にたどり着いた。
 武藤藤太から受け取った書状によると、ここに小沢一仙がいるので彼から詳しい話を聞くように、と指示されていたのだ。
 一仙は武藤家の縁者で、以前、檜峯神社を再建する仕事をしたり無難車船の製造に尽力していた男で勝蔵も何度か会ったことがある。その一仙が半年前から京都に出てきて新たな仕事をしているというので、藤太は京都における勝蔵の案内を一仙に依頼したのだった。
「やあ、勝蔵さん、お久しぶり。武藤の若旦那から話は聞いてますよ」
「これはどうも小沢殿。まさか京の都でお会いするとは思っていませんでした。なにぶん都は初めてですんで、よろしくお願いします」
 一仙は相変わらず元気そうだった。近況を聞くと、今は掛川藩士をやめたらしい。現在の身分は「武藤外記(げき)厄介」という立場で、藤太の父外記に仕える身分であるという。それでも以前通り二本を差して武士のような恰好をしている。
「それで、例の無難車船は成功したんですか?」
 と勝蔵が聞くと、
「ああ、大成功だったよ。しかしそんなものは過去の話だ。今、私は京でお公家様や諸藩の屋敷へ出入りして、新しい軍事兵器を売り込んでいる」
 と一仙は答えて、そういった軍事兵器を紹介している案内書を勝蔵に見せてくれた。そこには一仙が発案した軍艦、運送船、楯付き大砲車台、木砲車、投火玉、火牛軍車、潜水器具といった奇想天外な軍事兵器がいくつも書かれていた。火牛軍車とは牛の人形の頭から毒煙りを吐き出す兵器であるらしい。
 その案内書を見て勝蔵は、いかにも技術者らしい一仙の仕事だ、と感心した。
 が、これらの軍事兵器にどれほどの実用価値があるのか、おそらく現代の目から見ればほとんどが使い物にならない代物であったろう。例の無難車船についても本当に成功したのかどうか眉唾(まゆつば)ものだ。一仙が掛川藩士をやめたのも、本当はその辺に理由があるのかもしれない。ただし当時の人間からすれば、この一仙が発案した多数の兵器が使い物になるかどうかなど、西洋の学問に通じている専門家を除けば多くの人々には分かるはずもなく、一仙はこういった胡散臭い兵器を京都で売り込んでいたのである。

 このように書くと一仙は、いかにも山師のように聞こえるかもしれない。
 いや、決してそうではない。実をいうと一仙は、この京都で総工費六百万両という巨大事業に参画していたのだ。
 それは「琵琶湖運河計画」である。
「若狭湾の敦賀港から琵琶湖へ運河を通し、さらに琵琶湖から大坂湾へ淀川の水運を整備して若狭湾と大坂湾をつなぐ」
 という計画である。
 特に敦賀から琵琶湖へ運河を作るという点が重要で、実は一仙はこの企画書を加賀藩に提出して、裁可を得ていたのである。
「敦賀から琵琶湖までの工事費の見積りは百七十七万二千三百五十九両二分。琵琶湖から大坂まではおよそ四百五十万両。一日に一万人が工事作業に従事して三年で完成させる予定である」
 と企画書には書いてある。
 この若狭湾と琵琶湖を運河でつなげるという発想は、古くは平清盛や豊臣秀吉の頃から着想自体はあったといい、さらに言えば、このあと明治から昭和にかけても何度か国策として持ち上がった話であった。
 当時の日本海側の海運ルートは下関を回って大坂湾へ運ぶかたちだった。若狭湾と大坂湾を琵琶湖経由で直接つなげば下関まで遠回りする必要がなくなる。しかも当時は、長州藩が下関海峡を閉ざそうとしたり「下関戦争」があったりして下関の通行が不安定な状態となっていた時期だっただけに、日本海側の諸藩、特に加賀藩にとって下関の不安定化は非常に深刻な問題だったのだ。そういった下関の重要性は明治に入ってからも依然として変わらなかったが、のちに鉄道による物流経路が確保されたため、この運河計画は自然と消えていったのである。
 そういったわけでこの当時、一仙は加賀藩と琵琶湖運河を掘削する仕事を進めており、加賀藩邸の近くにあるこの借家に住んでいたのだった。

 それから一仙は使いの者に書状を持たせて一人の男を呼び出した。
「勝蔵さん。すまないが私は加州様(加賀藩)の仕事があるのであなたに京の町を案内している時間がない。もうしばらくすれば古川帯刀(たてわき)殿がこちらに来られるはずだ。あなたをお公家様へ取り次ぐ役目は古川殿にお願いしてある」
「その古川帯刀という人は、どういう人ですか?」
「ハハハ。私よりも勝蔵さんのほうがよく知っている人だよ。八王子の梅之助といえば分かる、と聞いている」
「ええっ!あの梅之助が都に来ているんですか?」
 しばらくすると、その梅之助こと古川帯刀が一仙の宿舎へやって来た。
「やあ、勝さん、久しぶりだなあ。相変わらず元気そうじゃないか」
「おお。本当に梅さんだ。まさか梅さんがこの都で二本差しになっているとはなあ」
 この古川帯刀は幼名梅之助といい、八王子の商家の息子で、勝蔵の従弟(いとこ)である。幼少の頃、江戸深川(富岡)八幡の神主をつとめる古川家の養子となり、今は公家の白川資訓(すけのり)に仕える公家侍となっていた。甲州に地縁があり、その甲州で同じく神主をしている武藤父子とも付き合いがあったため、今回、勝蔵を公家の侍にするというのも武藤父子が古川に依頼した話だった。

 このあと従弟の古川が白川家に話を通すと、勝蔵は意外とあっさり白川家に仕える公家侍となれた。
 白川家は神祇伯(じんぎはく)という神道に関係する公家の役職に就いており、神主である武藤家と古川家から推薦された勝蔵を受け入れたのである。
 二本差しになるのは勝蔵の昔からの夢であったが、幕臣や諸藩の藩士になる道はついに開かれなかった。そもそも勝蔵は昔から幕府が好きではなかったし、今となっては幕府に追われるお尋ね者の博徒だ。武家に仕える道などあろうはずがない。しかし、このように公家に仕える道があったとは、藤太から勧められるまでまったく思いもつかなかった。
 玉五郎と猪之吉も、武家でいう中間(ちゅうげん)のような使い走りの身分として一緒に白川家に置いてもらえることになった。これで勝蔵が一番心配していた問題が解消されたわけである。とにかくこれで勝蔵たちは、少なくとも京都にいる限りは幕府の目を気にする必要はなくなった。
 白川家は摂関家(近衛、九条、鷹司など)のような千石以上もある上級公家ではない。岩倉家などと同様、百石から二百石程度の中下級公家である。
 岩倉家といえば岩倉具視の有名なエピソードとして、経済的に苦しかった岩倉家は屋敷を博徒に貸し与えてテラ銭を稼いでいたという。これは公家の屋敷が幕府の捕り方の手が入らない「治外法権」の場所だったからそのようにできたのである。また公家の世界では武家と違って、昔から賭博は「たしなみ」の一つとして許容されていたともいう。
 だからといって新入りの勝蔵が白川家で賭場など開けるはずもなく、いずれ上手くいけばそんなふうに賭場でも開いて黒駒一家の仲間たちをここへ呼べる日も来るだろうか、などと淡い期待を抱きつつ、勝蔵は京都での生活を開始した。

 そして勝蔵は白川家の武士になるにあたって
 池田勝馬(かつま)
 と名前を改めた。
 池田は、実家が小池なので池をそのまま使った。
 勝馬は、勝蔵の勝の字と、黒駒の駒から馬を取って使った。
 ただし、この物語では便宜上、これ以降も筆者は「勝蔵」と呼ぶことにする。

 京都で暮らすようになってから勝蔵は従弟の古川について回って町中を歩き回った。付き合いのある公家の屋敷や有名な神社仏閣などにも足を運んだ。
 ちなみに京都には黒駒一家や次郎長一家といった博徒の一家はない。基本的に京都、江戸、大坂といった都市部ではそういう博徒の一家を構えることはできなかったのだ。
 ええ?そんなわけはないだろう?都市部のほうが人口も多いし、博打でテラ銭を稼ぐのは便利なはずだろう?
 と普通は思いがちだが、そうではないのである。
 都市部ではお上の監視の目が厳しく、そういった「博打専門の博徒の一家」というのは成り立たなかった。また、諸藩の領地でも藩政府の監視の目が厳しく、また領民も博打を楽しむほどの経済的余裕がないため、そういった有力な博徒の一家はほとんどいなかった。
 博徒の名産地といえば天領、すなわち代官が統治している地方の幕府領、例えば甲州、上州、東海道と相場が決まっており、こういった地域はお上の監視の目もゆるく、そのうえ比較的金回りの良い庶民も多かったので有名な博徒、というより悪名高い博徒がたくさん生まれたのだった。
 ただし江戸にもそういう博徒がいないわけではない。
 新門辰五郎というヤクザの大親分がいた。しかし辰五郎の場合は「博打専門の博徒の一家」ではなく、本業として火消しの仕事をしており、賭場の運営は副業的な扱いだった。
 その新門辰五郎はこのとき徳川慶喜からの依頼で子分三百人を率いて京都に来ていた。河原町の豪邸に住んで(めかけ)を置き、大坂にも別宅をもっている。そして、これも有名な話だが、自分の娘を慶喜の妾として差し出している。
 また、博徒の一家というのとはちょっと違うが、この当時、会津藩の中間(ちゅうげん)部屋に「会津の小鉄」と異名をとる鉄五郎(本名、上坂(こうさか)仙吉)というヤクザ者がいた。
 小鉄の親分は大垣屋清八という侠客で、大河ドラマ『八重の桜』で松方弘樹が演じていた人物がそれである。小鉄は顔も体も全身傷だらけ、指も曲がっていたり切られたりでろくに残っていなかったという。のちに鳥羽伏見の戦いで放置された会津藩士の戦死体を子分たちと共に黒谷へ運んで葬った。本来であれば「賊軍」の戦死者を弔うのはご法度だが、戊辰戦争においてはこういった役目をヤクザ者たちが担った、という逸話が多い。後年、小鉄自身も黒谷に墓を建てることになる。

 勝蔵は仕事の都合で大坂に出ることもあった。大坂を見るのも初めてだったが、さすがに大坂の賑わいは噂にたがわず大したものだ、と思った。
 そして大坂は金がうなっているだけあって博打が盛んな土地だった。もちろん博徒もそれなりにいる。江戸や京都と違って、大坂は都市部といえども例外的に博徒がやっていける土地だったといえるだろう。ただし勝蔵や次郎長のような斬った張ったが得意な武闘派博徒とは多少毛色が違っている。
 そういった博徒の中で「キタ」を地盤とする明石家万吉という親分がいた。
 万吉も二本差しであった。ただし播州小野(一柳)藩という一万石しかない小藩の武士である。万吉は武士になるつもりなどなかったのだが、小野藩のたっての願いで武士になった。というのは、幕府から大坂警備の仕事を命じられた小野藩が、金も人もなかったため万吉の一家に警備の仕事を丸投げしたのだ。その代わり万吉に苗字帯刀を許し(万吉はこれで小林佐兵衛(さへえ)と名乗るようになった)、さらに警備地域で賭場を開く特権も許したのだった。
 そういった話は司馬遼太郎大先生の小説『(にわか) 浪華遊侠伝』にも書かれており、1970年にTBSでテレビドラマ化もされている。
 しかし余談ながら付け加えておくと、この小説の中で万吉は、禁門の変に敗れて京都から大坂へ逃れてきた長州藩の落ち武者を匿うのだが、その長州藩士は遠藤謹助ということになっている。
 これは史実的にありえない。なぜなら長州藩の遠藤謹助は「長州ファイブ」の一人であり、その当時ロンドンにいるため禁門の変に参加できるはずがないからだ。
 これは司馬さんによるミスなのか?(まあ、こういった史実との齟齬(そご)は司馬小説ではそれほど珍しいことではなく、「史実かどうか」などという些末な事にとらわれないから司馬小説は傑作ぞろいなのだが)というより、実は小林佐兵衛の伝記自体に「当時日本にいないはずの遠藤謹助」の名前が書かれているので司馬さんもそのまま使っただけのことだろう。
 これまで筆者が何度か書いた通り、博徒の伝記本というのは事程左様に、いいかげんなものが多い。
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