第46話 抑えきれない心(一)

文字数 6,866文字

 龍馬暗殺、油小路事件、天満屋事件、近藤勇襲撃事件。
 大政奉還や王政復古のクーデターがあった頃の京都は、こういった殺し合いがくり返される殺伐とした状態だった。

 勝蔵は、それらの事件に関してはまったく蚊帳の外にいた。
 龍馬や藤堂の敵討ち、ということであれば勝蔵も斬り込みに参加したいぐらいだったが海援隊や土佐人、それに御陵衛士とそれほど昵懇(じっこん)だったわけでもなく、勝蔵に声がかかるはずもなかった。それらの事件のことは後から伝聞で知った。
 (かたき)である三浦休太郎と近藤勇を討てなかったのは残念だ、と勝蔵は悔しがった(ただし三浦は濡れ衣だが)。

 とはいえ、今の勝蔵は他所(よそ)のことに気を取られている場合ではない。
 かつての仲間たちが次々と京都へ集まってきていたのだ。
 要次郎、次三郎、玉蔵、豊五郎、等々、かつて苦楽を共にし、炭焼き小屋での山ごもりを最後に離れ離れとなっていた彼らと二年半ぶりに再会することができた。
 勝蔵は彼らとの再会を喜び、彼らもまた勝蔵とようやく再会できたことを喜んだ。
 集まったのは総勢およそ四十人。とりあえず白川家の離れや使用人が住む家屋へぎゅうぎゅう詰めにして押し込んだ。それでも雨露がしのげ、なんとか飯にありつけるというだけで子分たちは喜んだ。
「なにしろ物の値上がりが激しくて、俺たち博徒の稼業もあがったりでさあ。どこへ行ってもなかなか食える仕事なんて、ありゃあしませんよ」
 と子分たちは愚痴をこぼした。
 横浜開港以来、物価はずっと右肩上がりの状態だ。このころは十年前と比べて諸物価は五倍以上、米価などは十倍近くも上がっている。そのため前年の長州再征の折りには全国で大規模な一揆や打ちこわしが起こった。これに対して幕府は外米の輸入などで米価の引き下げを試みたものの焼け石に水だった。つまり、米価は今も高止まりした状態がつづいているのである。

 一方、急に大勢のヤクザ者がやって来た白川家は困惑した。
 これもきっと岩倉具視が主導する王政復古運動の一環なのであろうし、彼が高野山へ兵を派遣したようにこれらのヤクザ者たちもいずれどこかへ派兵されるのであろうが、それにしても王政復古、すなわち「(みかど)の世」を復活させるためとはいえ、こんなヤクザ者の手まで借りねばならんとは世も末だ、と白川家やその周辺では眉をひそめるものもいた。が、とりあえずは勝蔵の顔を立てて白川家としては大目に見た。

 その白川家の一室に勝蔵と子分たちが集まった。子分の中から古株の要次郎が代表するかたちで勝蔵に尋ねた。
「それで親分。近い内にでかい出入りがあると聞いて俺たちはやって来たんですが、今度は誰とケンカするんですか?やはり清水の次郎長ですか?」
「そんな小さい野郎は相手じゃねえ。もっとでっけえのが相手だ」
「へええ。それ程でかい野郎が相手ですか。でも、そんな博徒の親分なんてどこかにいたっけかなあ……?」
「相手は徳川将軍家だ。つまり幕府そのものだ」
「ええ!?」
 と子分たちは驚いた。この時代の真っ当な人間であれば、これだけで飛び上がるほど仰天し、泡を食って逃げ出すであろう。
 が、こ奴らは以前、炭焼き小屋に山ごもりして甲府代官の部隊を鉄砲で撃退した経験もあり、幕府を畏敬する念は薄い。それにこういう稼業をしているだけあって、どこか頭のネジが一本抜けている。「敵は将軍家だ」と聞いて驚くには驚くが、
「へええ。そいつは本当にでっけえ相手ですねえ」
 と、ごく普通の驚き方をした。
「今度のは“出入り”なんて生やさしいものじゃねえ。武士がやるような“戦さ”だ。天朝様の(もと)で俺たちが武士のように戦さをするんだ。勝って手柄を立てれば武士になれるかも知れん。負ければ当然、首がなくなる。いや、もし天朝様の側が勝ったとしても俺たちは死ぬかも知れん。まさに大博打だ。俺はこの大博打に乗ってみたいと思うが、お前たちはどうだ?」
 勝蔵がこのように言うと、子分たちはざわざわと相談し始めた。
「天朝様と幕府のどっちが勝つか丁半博打をして、それに俺たちの命を賭けるってことか?」
「親分が天朝様に賭けるっていうんなら、俺は乗っても良い。相手は幕府まるごとだ。当たりの目が出たら、でっけえ取り分がもらえるに違えねえ」
「でも盆茣蓙(ござ)に金じゃなくて自分の命を置くようなもんだぜ。どんな大金よりも大事な自分の命をな。外れたら死ぬんだぜ」
「ってことはよう、もし当たりが出たら、どんな大金を賭けて当たった時よりもめちゃくちゃ嬉しいってことだろう?自分の命が戻ってくるんだから」
「ごちゃごちゃ言ってても始まらねえ。どうせ他に仕事はねえんだ。このまま食いっぱぐれて飢え死にするぐらいなら、俺は喜んでこの大博打に乗るぜ」
「もしこの戦さで死んでも、いずれ天朝様の世が来れば俺たちヤクザでも『天朝様のために見事に討ち死にした』って、赤穂義士みたいに後々までの語り草になるんじゃねえか?」
 こうして彼らは頭が悪いなりに仲間同士でいろいろと話し合った。しばらくすると、結論が出た。
 全員が勝蔵の言うことに従う、と決めたのだ。
 理屈はいろいろあるが、そんなことよりも、自分たちが親分と仰ぐ男がそうするのであれば我々子分は喜んで従う。親分と一緒に戦さ場へ出たい。
 ただそれだけのことだった。
 このとき勝蔵の脇には玉五郎と綱五郎もいた。二人とも元より同じ気持ちである。
「そういえば猪之吉の姿が見当たりませんけど、あいつはどうしちゃったんですか?あいつもとうとう、この京でくたばりやがったんですか?」
 と要次郎が聞くと、玉五郎が答えた。
「あいつは久しぶりに甲州へ戻ったのさ。武藤の旦那と連絡を取るために、先月末、小沢一仙殿と一緒にここを発った。久しぶりに国へ帰れると聞いて、(やっこ)さん、喜んで甲州へ飛んで行ったよ」

 猪之吉が一仙と一緒に京都を発ったのは十一月下旬のことだった。
 勝蔵も一仙も武藤外記、藤太父子の縁者であり、特に勝蔵を京都へ送り込んで尊王攘夷のために働かせようとしたのは彼ら父子である。それで勝蔵はこの慌ただしい政局のなか、甲州の状況探索と武藤家との連絡のために猪之吉を甲州へ送ったのだった。いくら幕府が衰えているとはいえ、極悪人として幕府から手配されている勝蔵自身が甲州へ戻るわけにはいかなかった。

 この年の初め、勝蔵と京都で再会したころの一仙は、意気盛んに加賀藩との「琵琶湖運河計画」の仕事を進めていた。そして「運河掘削の作業は翌慶応四年から始める」というところまで話は進んでいた。
 が、大政奉還などの政変もあり、結局加賀藩はこの計画を断念した。
 かつて自分が発明した無難車船は実用化にこぎつけることができず、今回、琵琶湖運河計画も水の泡となった。京都で方々へ売り込もうとした自作の軍事兵器もほとんど売れずにお蔵入りとなっている。
 失敗に次ぐ失敗。
 並みの神経の持ち主なら、こういった山師のような夢はさっさとあきらめて地道な生活へと戻ったであろう。
 そもそも一仙は宮大工の家に生まれた彫刻師だ。船や武器を作ったり運河を掘るなどという武士のようなマネはあきらめて、宮大工の世界へ戻ればいいではないか。
 と身近に親友がいれば、そんなふうに一仙を(いさ)めたであろう。
 ところが一仙はさらに夢を追い求めた。
 時代の大きなうねりが、彼をそちらの道へと引き込んだ、ともいえる。
 勝蔵同様、一仙も武藤家の縁者ではあったがこれまで技術的な仕事ばかりしてきたため、政局のことに深く首を突っ込んだことはなかった。
 しかし一仙が京都にいたのは慶応二年、三年という政局が激動している時期だった。彼はまさにそのころ、京都の公家や諸藩の屋敷へ通って自作の軍事兵器を売り込もうとしていたのだ。
 自然と政局のことに詳しい友人ができた。
 その友人は上州館林(たてばやし)藩の元藩士で、名を岡谷(おかのや)繁実(しげざね)という。
 この当時、元藩士や脱藩浪士などという類いの人物は京都に掃いて捨てるほどいたが、岡谷の経歴はそれらの中でも抜きん出ている。
 藩の重役である中老職までつとめた人物である。ただし歳はまだ三十三で、一仙よりも若い。
 館林藩は関東では珍しく尊王色の強い藩だった。というのは、前藩主の秋元志朝(ゆきとも)が長州の生まれで、毛利家から秋元家へ養子に入った人物だったからだ。そのため禁門の変で長州藩が朝敵となった際、毛利家の血縁者である志朝は隠居せざるをえなくなって息子に家督を譲った。
 その際、京都で館林藩の代表として活動していたのが岡谷で、彼も藩主と共に謹慎の身となって藩から追放処分とされてしまったのだった。
 ちなみに館林藩というと、この物語に出てきた犬上郡次郎の出身地でもある。また岡谷は歴史大好き人間でもあり、十年以上前から『名将言行録』という戦国から江戸初期にかけての武将たちのエピソードをまとめた書物を書きつづけていた。この書物は史実かどうかという点は脇に置くとして、後世の小説、ドラマ、マンガなどに大きな影響を与えることになるネタの宝庫である。彼は政治的な苦境にあえぎながらも、この書物をコツコツと書きつづけていた。
 一仙はこの岡谷と知り合ったことをきっかけとして、公家の高松家に出入りするようになった。当時の当主は高松保実(やすざね)といい、家柄は中級公家だが岩倉家や三条家とも多少の繋がりがあり、やはり尊王攘夷の気風が強い公家である。
 こうして京都で高松や岡谷などと政治活動をおこなうことになった一仙は、とにかく自分の主筋にあたる武藤外記のところへ一度帰って今後の方針について相談しようと思っていたところ、たまたま猪之吉も武藤家に用事があって甲州へ帰ると聞いて、二人は同行することにしたのであった。

 猪之吉は、勝蔵から甲州へ行くよう命じられて、嬉しかった。
 二年半ぶりに故郷へ帰れる、というのはもちろん、何よりお八重と会えるのが一番嬉しい。
 幕府の手から逃れるように甲州を脱出して以来「二度と甲州へは戻れないだろう」と覚悟していた。それはすなわち「二度とお八重にも会えない」という事だ。
 勝蔵はたまに藤太と書状のやり取りをしている。その藤太からの知らせでは、お八重が嫁に行ったかどうかは不明であった。
 猪之吉はもう三十目前。お八重は二十半ば過ぎ。もし、お八重がまだ嫁に行っていないとすれば完全な「行き遅れ」である。かたや猪之吉としても、もう憧れの女性に恋するような歳ではない。のだけれども、お八重のことがどうしても忘れられないのだ。
 猪之吉は大事な使命を背負って一仙といっしょに甲州へ向かったのだが、道中、お八重のことが気にかかって、どうにもそぞろな心持ちであった。
 二人は中山道を進んで行った。琵琶湖東岸から関ヶ原へ入り、加納、鵜沼、中津川を経て下諏訪着。下諏訪からは中山道と別れて甲州道中へ入り、八ヶ岳と赤石山脈(南アルプス)の間を通って韮崎(にらさき)、甲府、石和を経由し、十二月十日、黒駒に到着した。

 二人は武藤家に入ると外記・藤太の親子と再会した。久しぶりに参上するにあたって儀式ばったあいさつの口上は一仙が述べ、そのあと一仙は外記と、猪之吉は藤太と個別で面会するかたちになった。
 別室へ移り、二人きりで対面すると藤太が猪之吉に語りかけた。
「久しぶりだな、猪之吉。達者そうで何よりだ。それで、京の都はどういう状勢だ?勝蔵も達者でやっているのか?」
 言葉の中身はこのように穏やかだが、猪之吉から見た藤太の表情は険しい、というのを通り越して悲壮感がありありと浮かんでいるように見えた。
 かつて天狗党と共に甲府城を攻める計画を勝蔵に語ったときも藤太は険しい表情をしていたものだが、今はあのとき以上に顔がやつれて鬼気迫る表情となっている。
 とはいえ、それはそれとして、猪之吉は京都を出る前に勝蔵や玉五郎から教えられた通り、京都の政局について藤太に説明した。それは大政奉還を中心とした話だった。王政復古のクーデターはこの前日に決行されているが、むろん猪之吉たちの耳にはまだその情報は届いていない。
「なるほど、分かった。事前にこちらへ届いていた話とそれほど大きな違いはないようだ。それにしても猪之吉。実に良い時に戻ってきてくれた。お前にぜひ頼みたいことがあるのだ。聞き届けてくれるか?」
「はあ。私ごときでお力になれるのであれば、なんなりとお申し付けください。若先生」
「三年前、ここで勝蔵と甲府城を攻める話をしたが、そのことを憶えているか?」
「そういった話があったことは憶えておりますが、詳しいことまでは……」
「あの時は、天狗勢が中山道を通って甲州へ来れば、それに加担して甲府城を攻めようとしていたのだ。しかし天狗勢は甲州へ来なかった。そして彼らはその後、全滅した……。それで実は今回、再び甲府城を攻める話が持ち上がったのだ。話を持って来たのは甲府勤番の息子の神田という男だが、神田に指示をしたのは江戸の薩摩藩邸にいる相楽(さがら)総三(そうぞう)という男らしい……。彼らの計画は下野(しもつけ)、甲州、相模の三ヶ所で挙兵して幕府の拠点を押さえ、その三方から江戸城を攻めると言っていた。下野ではすでに竹内という男が一隊を率いて出流山(いずるさん)を占拠した。甲州と相模へはこれから江戸の志士たちがやって来ることになっている」
「はあ……。それで、私は何をすればよろしいのでしょう?」
「猪之吉。甲府城を攻めるとすると、いったい何人の兵が必要だと思う?」
「さあ……?あの甲府城を攻めるとなると千人ぐらいは必要なんじゃないですかねえ。天狗勢の時は千人ぐらいだったと聞いてますし」
「そう思うだろう?猪之吉も。だが、江戸の彼らが送ってくる兵士は、たったの十人だ」
「ええっ?そりゃあ、いくらなんでも……」
「そして、その甲府城攻略の指揮は、私に任されたのだ」
「……」
「そこで猪之吉にお願いがある。以前、勝蔵のところで世話になっていた博徒たちがこの甲州にまだ何人かいるはずだ。その中にお前の顔見知りも少しはいるだろう。百人とは言わん。数十人でもいい。江戸から十人の志士が来るまであと五日ほどしかない。それまでになんとか、甲府城攻めに加わってくれる人を集めてはくれないだろうか?」
「うむむ……。それはちょっと、私には荷が重すぎる仕事ですが……。それでまさか、現場の指揮も若先生がお()りになるのですか?」
「いや。それは江戸から来る志士の方々がやることになっている。私の仕事は人集めと武器をそろえることだ。むろん資金も出す」
「武器と言えば以前、若先生からもらった鉄砲は、まだ炭焼き小屋の地下に隠してあるはずです」
「そうか。じゃあ、それも使うとしよう。もちろん新たに用意した鉄砲も渡す。それと今、ウチで世話をしている浪士十人も作戦に加わってくれることになっている」
「分かりました。じゃあ、私は竹居や鰍沢(かじかざわ)などで心当たりのある人に何人か当たってみます。それと、少なくとも私一人分は確実な頭数として入れてくださって結構です」
「すまない、猪之吉。本当に恩に着る」
「ところで……、あの……、その……」
「どうした?猪之吉。何か疑問があれば、今のうちに何でも聞いておいてくれ」
「いえ……、何でもないです。それでは私はこれで失礼します。さっそく人集めにかかりますので」
 このとき猪之吉は藤太に妹のお八重の近況について聞こうかと思ったのだが、悲壮な覚悟で甲府城を攻めようとしている藤太に対して、とてもそんなことは聞けなかった。
 とはいえ、猪之吉の場合は「悲壮な覚悟」などという生やさしい話では済まない。
 文字通り「決死の覚悟」つまり「死ぬに決まっている」という覚悟である。
 百人にも満たない人数で甲府城を攻めるのだ。しかもその実行部隊に自分も加わる。
 藤太は物資や人材を手配する仕事なのでおそらく死ぬことはないであろうが、自分はまず、死ぬであろう。
 それでも藤太の力になりたい、と猪之吉は思った。
 自分の恩人である親分(勝蔵)の恩師であり、自分の憧れの女性(お八重)の兄であるこの人のためなら、死んでもいい。
 不思議と自然に、そう思えた。
 帰り際に玄関を出たところで、かつてこの庭で巫女姿をしてしょっちゅう自分を出迎えてくれたお八重の姿はなかった。来た時もそうだった。念のため神社の祠ものぞいてみたが、そこにもいなかった。
 やはりもう、嫁に行ってしまったのだろうか。
 彼女の歳を考えれば、それが当たり前だ、とも思う。
 それで猪之吉は気持ちを切り替えて、人集めに向かうことにした。

 一方、外記と面談した小沢一仙はこれよりのち、尊王攘夷の政治運動に身を投じることに決めた。
 それが、自分をこれまで庇護してくれた武藤外記の意志にかなう、と判断したのだ。具体的には、もし朝廷勢力が関西の戦争で幕府に勝った場合、甲州へ攻め込む部隊に率先して参加し、甲州攻略に尽力するという計画を立てた。
 一仙はこの計画について高松や岡谷と相談するため、甲州での家族との再会もほどほどに、まもなく京都へ帰っていった。
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