第51話 相楽総三、脱出。そして開戦へ(三)

文字数 4,544文字

 鮫洲の場面に戻る。
 この時、品川沖には薩摩藩の翔鳳丸のほか、幕府の咸臨丸と回天丸がいた。
 翔鳳丸は約460トンで砲四門。咸臨丸は約620トンで砲十二門、回天丸は約1,700トンで砲十三門。ただし咸臨丸は蒸気機関が故障中のため帆走しかできない。
 翔鳳丸には伊牟田が乗っており、陸地で鳴り響く砲声と、そこから立ちのぼる煙とによって「とうとう戦さが始まったか」と船上から三田のあたりを遠望していた。
 しかも同海域にいる幕府の回天丸も太鼓を鳴らして乗組員を呼び集めるなど、ものものしい動きを見せている。
 にもかかわらず、薩摩藩邸からの脱出者はまだ誰もやって来ない。伊牟田は船上でじりじりと待ち焦がれている。
「こちらへ向かって漕いで来る船はないか、よく探すんじゃ!」
 伊牟田は見張り番に対して大声をあげて督励するとともに、近くにいた若い海軍士官に、
「味方を収容したらすぐに江戸湾から脱出する。出発の準備を急げ!」
 と声をかけた。
 その若い海軍士官は、
(素人のあんたに言われなくても、こっちはとっくに準備ができている)
 そう心中で思いながらも、冷静な表情で「承知」と一言だけ答えて自分の持ち場へ向かった。
 彼の名は伊東祐亨(すけゆき)。のちの海軍大将、元帥。日清戦争で連合艦隊司令長官、日露戦争で海軍軍令部長をつとめる男である。

 さて、薩摩藩邸への攻撃では手際よく敵を打ちのめした幕府ではあったが脇の甘さは相変わらずで、作戦全体を統括する人間がおらず、陸軍と海軍の連携はまったく考慮されていなかった。
 軍艦奉行などを歴任して勝海舟と並ぶ幕府海軍の幹部として現場を指揮していた木村兵庫頭(ひょうごのかみ)喜毅(よしたけ)は、この日の朝、いつもの通り浜御殿(現、浜離宮)の海軍局へ出勤している途中、そこからさほど遠くない三田で砲声と煙があがり始めたので「これは一体、何事か?」と思い馬を飛ばして海軍局へ駆けつけてみると、先に出勤していた同僚の赤松大三郎から「薩摩藩邸焼き討ち」の話を聞かされた。
 それにつづけて赤松は「もしかすると三田の薩摩人が品川で船に乗って逃げるかもしれない。我が海軍の軍艦でそれを阻止すべきだ」と木村に進言した。
 この日に薩摩藩邸を攻撃することについて海軍はまったく老中から聞かされておらず、これは赤松の個人的な判断で進言したものだった。
 木村はこの進言を了承し、たまたまそこに居合わせた軍艦役の柴誠一に「すぐに品川へ行って軍艦を指揮せよ。薩摩の船を逃亡させてはならない。事によっては撃沈するのもやむなし」と命じた。柴はただちに出動した。
 このあと木村は急ぎ登城して老中に事の次第を確認したところ「小栗上野介の発意で陸軍が勝手にやったことだ。どうやら他の部局にはまったく知らせなかったようだ」と他人事のような返事が返ってきた。
 ちなみに木村はこの七年前、咸臨丸に乗って太平洋を横断した経験がある。その当時の肩書は木村が「提督」で、勝海舟はその下の「艦長」だった。咸臨丸は太平洋横断から戻って以降、蒸気機関がたびたび故障を起こすようになったので機関を取り外し、この時は帆船として運用せざるを得ない状態だった。

 一方、鮫洲に着いた相楽たち約八十人は三隻の小船に分乗して沖の翔鳳丸を目指した。
 相楽や落合たちの乗る船が最初に岸から離れ、残りの二隻はやや出遅れるかたちとなった。
 鮫洲から沖を眺めると北側に五基の品川台場が並んでいる。咸臨丸はその台場の近くに停泊しており、翔鳳丸はそこから一町(約百メートル)ほど沖に、回天丸はさらに三、四町ほど沖に停泊していた。
 先に出発した相楽と落合が乗った船はなんとか翔鳳丸に()ぎ寄せ、およそ三十人が翔鳳丸に引き上げられた。しかし残りの二隻はようやく岸から出発したところで、まだ翔鳳丸から程遠い場所にいた。

 このとき品川の海で懸命に小船を漕いでいるのは幕府側も同じだった。
 木村から指令を受けた柴誠一も浜御殿から小船に乗って沖を目指していた。そしてまず咸臨丸に到着し、艦長の小林文四郎に木村からの命令を伝えた。
 そのあとすぐに退艦して再び小船に乗り込み、さらに沖に停泊している幕府海軍の主力艦、回天丸へ向かった。柴はこの回天丸を自分で操って翔鳳丸を仕留めるつもりなのだ。
 そして案の定、咸臨丸は帆走しかできないため、この位置から一発だけ翔鳳丸へ大砲を発射できたものの、そのあとはまごまごするばかりでまったく役に立たなかった。

 それから柴が小船で沖の回天丸を目指していると、なんと柴が着く前に、回天丸の乗組員が指揮官不在のまま自発的に翔鳳丸へ砲撃を開始してしまった。
 そのため鮫洲から沖へ向かった二隻の小船が着く前に、翔鳳丸は出発せざるをえなくなった。
 翔鳳丸はただちに南へ向かって動き出し、回天丸もそれを追うように南へ向かった。そして回天丸は航行しながら翔鳳丸へ砲撃を加えた。
 かたや翔鳳丸は商船に毛が生えた程度の船で戦う装備もロクになく、わずかにある大砲も故障中で発射できないという有り様だった。これでは、ただひたすら逃げるしか選択肢がない。
 二隻は蒸気機関を使って徐々に速度を上げながら南へ進んで行った。それを柴が乗った小船と、浪士たちが乗った二隻の小船が、人力で必死に漕いで追いかけた。
 が、やがて浪士たちが乗った二隻の小船は追いかけるのをあきらめて羽田で上陸し、そこから各自がそれぞれの行動を取ることにした。総勢およそ五十人。
 しかし柴の小船はあきらめず、その後も南へ向かって追いかけていった。

 夕暮れ時、横須賀沖まで来たところでようやく回天丸は翔鳳丸の前方へ回り込み、絶好の位置から砲撃を浴びせかけた。
 これによって翔鳳丸はかなりの被害を受けた。すでに十数発の被弾によって船体に穴があき、マストも折れている。さらにこの砲撃によって乗り込んでいた浪士の一人が砲弾に当たって死亡した。
 もはや撃沈されるのも時間の問題となった。そこで伊牟田は相楽に相談した。
「このままでは我々は魚の餌になってしまう。こうなったらこの船を敵艦へぶつけて、むこうへ飛び移って斬り込みをかけよう」
 相楽もその案に賛成し、およそ三十人の浪士たちに斬り込みの準備をするよう命じた。
 そして翔鳳丸は回天丸へ向かって突進していき、これまで撃つのを控えていた四門の大砲も発射した。ただしこれらの大砲はそれっきりで壊れてしまった。むろん回天丸に被害を与えることはできなかった。
 翔鳳丸の体当たりは回天丸にあっさりとかわされ、結局この特攻作戦は失敗に終わった。
 翔鳳丸は回天丸の船体をかすめるかたちで通り過ぎ、そのまま再び逃走態勢に入った。
 それから間もなく日が沈んで辺り一面は真っ暗闇となり、その暗闇を利用して翔鳳丸は回天丸を振り切ることに成功した。
 余談として言うと、このとき翔鳳丸がアボルダージュ(接舷攻撃)を仕かけようとした相手は、一年数ヶ月のちに宮古湾で甲鉄(ストーンウォール)に対してアボルダージュを仕かけて失敗する回天丸である。その宮古湾海戦は土方歳三も参加していたことでよく知られている。
 翔鳳丸はこのあと伊豆の下田へ入って応急修理と補給をおこない、それから一路、関西へ向かった。
 一方、回天丸は翔鳳丸を見つけることができず、横須賀沖をうろうろしていたところへようやく柴が乗った小船が追いついた。柴はすぐさま乗船して、翔鳳丸を取り逃がした乗組員たちを厳しく叱責した。

 ところで、羽田に上陸した浪士たちについて。
 羽田とは、今の羽田空港のあたりにあった海岸のことだ。むろん埋め立て地はまだない。そこに二隻の小船が到着しておよそ五十人の浪士たちが上陸した。
 彼らはその後、陸路京都を目指してなんとか無事仲間と合流できた者、その途中で討ち死にした者、いったん潜伏した者、そのまま志士をやめた者、といったふうに様々な経過をたどったと思われるが多くの場合、ハッキリとした記録が残っておらず、無事に関西へたどり着いたわずかな者を除けばその後の経過は不明である。そのいずれを選んだとしても途中で幕府や諸藩の取り締まりによって討ち取られた場合、その史料が残っていなければ彼らの結末を知りようがない。
 結末が分かっている者の中で小川香魚(こうぎょ)、桜国輔(くにすけ)、松田正雄の三人がいる。小川と桜は北武蔵(現、埼玉県)出身で、松田は上州出身である。三人とも二十歳(はたち)前後の若者だった。
 三人は永井村(現、所沢市)の新平兄弟という二人組の博徒に復讐するため羽田から永井村へ向かった。新平兄弟も薩摩藩邸に入っていたのだが裏切って庄内藩へ密告して逃げた、ということでその復讐に向かったようである。三人は新平兄弟への復讐には成功したものの、その際、三人も川越藩兵や農兵から討伐をうけることになり、三人はそこで闘死した。

 羽田から陸路京都を目指して無事仲間と合流できた者としては金輪(かなわ)五郎(後年、大村益次郎を襲う刺客の一人。刑死)や丸尾清、渋谷総司など十人前後いる。

 そして神田(みなと)と安田丈八郎も東海道を通って京都を目指した。神田と安田は甲府城攻めに加わって八王子の妓楼壺伊勢で千人同心に襲撃され、命からがら薩摩藩邸へ逃げ帰った四人のうちの二人だが、たまたまこの時も一緒に行動することになったのだった。
 あの甲府城攻めの際も甲府城代の小田原藩主大久保加賀守を標的にして、それと同時におこなった相模荻野(おぎの)の山中陣屋攻めでも小田原藩と事を構えていた。そのうえ「薩摩浪士が逃亡中である」という情報が小田原まで届いていたため、このとき小田原藩はこの地域一帯の取り締まりを強化していた。小田原・箱根は東海道の要衝である。ここを避けて西へ向かうことはできない。
 二人は羽田上陸の翌二十六日、小田原に入って宿を取った。そして宿の二階から街路を眺めてみると警戒中の小田原藩兵が大勢で町中を捜索している様子が目に入り、想像以上に警戒が厳しいことに暗澹たる気持ちになった。
「もし小田原藩兵がここへ踏み込んでくれば間違いなく捕縛され、処刑されることになろう。処刑されるぐらいならお互い潔く刺し違えて死ぬことにしよう」
 そう二人で取り決めて、いつ敵が踏み込んで来るか?とハラハラしながら一夜を過ごした。が、別に何事もなく夜が明けた。
 そして翌日は箱根山中で、翌々日には吉原宿で泊まり、そこで偶然、上田修理と出会った。上田は甲府城攻めの時に隊長だった男で、彼もまた羽田からこちらへやって来たのだ。聞けば小田原藩兵に追われてここまで逃げて来たという。それからしばらくして上田はどこかへ去って行った。
 そのあと神田と安田は無一文になり、食うや食わずのフラフラの状態で近江まで来たところで尾張藩兵に捕まってしまった。しかし尾張藩は一応新政府の一員なので、そこから運良く薩摩藩へ引き渡されることになり、一月七日に入京できた。

 羽田から京都へ向かった者たちの動向は、この神田と安田の様子から大体は推し量ることができるだろう。
 運が良ければ助かるし、そうでなければ助からない。
 運悪く小田原藩兵や江川太郎左衛門の農兵部隊に捕まって銃殺された者も何人かいたらしい。
 まったく運次第で、博打と何も変わらない。
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